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蒼を名に冠す、君を。  作者: 夜月詠
Chapter 3
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サマーレコード・ホライゾン Ⅲ

 男の子にしては長めの黒髪を、海風に揺らしながら、彼は遠い瞳のままに波打ち際を歩いていた。日焼けの無い白い肌、線の細い中性的な彼の容姿。死人の様に虚ろな、けれど生きている生者の君。


「ねぇ、君も、楽しい?」


 ふと、思った。遠い目で海原の、その向こう側を見つめる彼の瞳が、あんまりにも虚ろだったから。彼が静かに居ると、私は彼の事が分からなくなるのだ。


 視覚()聴覚(みみ)以外機能しない、幽霊の身体では生きているのか、それとも死んでいるのか判別が付き難いから。

 遠くに行ってしまいそうで、けれど深く根を下ろした様な不思議な存在感。触れようとしても触れられない、何よりも遠い、此岸(せい)に居る彼のカタチ。


「ふん。砂浜を歩くだけ、なんて楽しい訳があるか。素足だから、水の冷たさは心地良いが……それだけだ」


「そっか」


 素っ気ない返答に、困ってしまう。彼の事だから、画か、その色を表現する為の絵の具や色彩、構図なんかを考えているんだろうけど。暗い瞳と、笑む事の無い無表情からは何かを読み取る事が難しい。


「ねぇ、知ってる? 海ってさ、あの世に繋がってるって話」


「山中異界に連なる、異界信仰……だったか。世界各地に存在する、海の彼方には"理想郷"や"冥界"がある、という信仰だ」


 海というものには古くから、海の彼方にある常世国(あの世)に繋がっている、という信仰がある。

 この蒼い海の向こう側には、私が行くべき場所があるのだろうか。蒼い海原の、その深さを見ているとそんな事を考えてしまう。


「しかし、お前、そんな話を知っていたのか。普段の振る舞いからはそんな知性は読み取れないが」


「ねぇ、私、文学少女なんだけど。理系は……まぁ、アレだったけど、文系科目は優秀だったんだよ?」


 生きてた頃の趣味は本だった。

 引っ越しばかりで友達がいなかったから、本だけが私の友達だった。ざらりとした手触りの、紙に印字された文字とインクの匂いだけが、私に色々な世界を見せてくれた。友情も、激情も、何もかも。本に綴られた文字の羅列だけが、私の世界だった。


「はっ、どうだか。それに、優秀程度では僕の下位互換に過ぎない。僕はどちらも出来るからな」


 可愛げのない人だ。頭は良いし画も上手いけど、その代償に性格が終わってしまっている。『偏屈な天才』という言葉がこれ程相応しい人も中々居ないだろう。


「もう、大人しく褒めてくれても良いのに。そんなだと、彼女の一人もできないぞ」


「必要無い。友人以上にな。僕は独りで生きていける」


 その在り方は、多分淋しいものだ。彼の描く世界の様に、寂しくて、冷たくて、美しいけど、孤独に過ぎる。

 扱う題材と色彩の増えた今でさえ、人間の居ない世界しか描かない彼の心象風景(カンヴァス)。そんな世界に有り続けるのは、何だか可哀想だった。


 私と同じ、孤独の世界。その辛さは、私も良く知っているから。


「独りで、って淋しいでしょ。というか、最近は私が住み着いてるんだから一人暮らしって訳でも無いし」


「……チッ……」


 言い返せなくなったからか、彼は苦い表情を浮かべながら舌打ちをした。最近はもう慣れきったその悪態。照れ隠しなんだか、本心なんだか未だに良く分からない彼の感情。

 けれど、不思議と居心地は良い。それは、彼が私を見る事ができるからか、何だかんだ話してくれるからか。

 彼はわりかし善い人だと、私は思う。


 そうして訪れる、軽い沈黙。浪の打ち寄せる潮騒の(おと)がその静寂を心地良く揺らす。昏く冷たい彼の瞳は、何の感情も浮かべる事無く波間を見つめ続けていた。


「……そういえばさ、何で君は人を描かないの?」


 そんな彼の思考と沈黙を、何故だか邪魔したくなってしまう。

 初めて感じる、悪意のないけれど彼を邪魔したくなるその矛盾。

 その心の動きを、一体何と呼ぶのだろう。


「言う必要があるのか?」


 彼の感情一つ浮かばない、それこそ能面の様に凝り固まった冷たい顔は、やはり何の動きも無い。

 人の心の中なんて見通せる訳が無いのだから、人は多くをその表情(かお)で判断する。


 だから、分からない。何一つ表情に現す事の無い、彼の内面が。

 感情という熱を浮かべる事の無い、彼の事が。表情だけでは、分からない。だからこそ、聞くのだ。その心を暴く事になっても。その心を侵略する事になろうとも。

 言葉に出して聞かないと、彼はその内、凍り付いてしまいそうだから。


「無いけど、気になるじゃん。昔は『悪魔』なんて小っ恥ずかしい名前で呼ばれてたらしいし」


「……」


 沈黙。先程までの、心地の良いそれとは異なる、気不味くなってしまう様なその静寂。彼の過去(トラウマ)を、不用意に踏み抜いてしまったかの様な、私自身の心の動き。


「……そんなに話したく無いなら別に良いけど」


「……芸術というものは、ある種の罪だ」


 彼はポツリと、呟くように語り始めた。

 囁く様な、波間に溶け消えてしまいそうな泡沫の、その泡の煌めきの様に僅かな声色。そんな彼に、壊れてしまいそうな硝子細工を重ね見る。美しいけれど、壊れやすい、繊細なカタチ。


「歴史上、多くの戦争や紛争の引き金になってきた。人あってこそのソレに、人の命よりも高い値打ちが付けられる事もある。

 ……そう云う、行き過ぎと呼べる程の成功と才覚の話だ」


 冷たい声色と、感情の籠もらない虚ろな眼。遠く過去を回想する、機械の様な、死人の様な、呼吸(いき)の在らずを彼に見る。


「端的に言えば、死人が出た。僕の人物画を競り落としたAと、競り落とせなかったBとの間の諍いだ。結果的に、BがAを殺し、画を奪った。その後、Aの親族によりBから画は取り戻された。

 その時、その親族は何て言ったと思う?」


「……お前のせいだ、みたいな八つ当たり?」


「違う。『この画は素晴らしい。A(かれ)が命を落とした価値がある』だ」


 絶句する。

 人の命を失っただけの価値がある、なんて言い切った人間と、そんな事を言わせる程のものだったろう彼の絵に。

 一体どれほどの絵だったのか、想像も付かない。だから、一旦の納得を迎える。それは、正に悪魔と呼ぶべき技量によって描かれた絵なのだろう。


「それ程の価値があったのか。人の命を、値段として付ける程のものだったのか。たかが小学生の子供の画に、それ程の価値が、芸術性が、完全性があったのか」


 彼にとって、一番辛い事は何なのだろう。

 自分の画に狂って、人が死んでしまった事なのか。それとも平然と受け入れるだけの冷酷性が無かった事か。或いは画才、そのものなのか。分からない。


 私は彼では無いから。私には、そんな卓越しきった、超常の域に踏み込んだ才覚なんて無いから分からない。

 私の視点と、彼の視点は全く異なるのだ。


「あの頃は、全てが狂っていた。誰も彼もが、命を付ける程の価値があると言って僕の人物画を求めていた。両親が、その最たるものだった。『人が命を掛ける程の芸術とは、素晴らしい』と言っていたよ」


 彼は自分自身の掌の、その指先を見る。絵の具の一つもついていない、細長くて綺麗な白い手。万が一、手についた絵の具が写ると困るから、と普段から丁寧に洗っているその手。

 そこに、何度洗っても落とせない何かを見出す様に。


「……そんなに、凄い画だったの?」


「さぁな。僕は見たものを見たままに描き出しただけだった。構図、射光、色彩、影──現実の、その全てを二次元の平面に閉じ込めた。天才、だからな。小学生の頃でもそういう事が出来ていた」


 それは、呪いの様な恩寵だった。

 曰く『贈り物(ギフト)』とは、毒だと云う。贈り物に隠された、呪いの様なそれ。生まれ持った、天使と悪魔による祝祭。

 紙一重、鏡写しの表と裏。希望と絶望を、彼は一身に閉じ込めているのだろう。


「……君は、それでも絵が好きなの?」


 明る過ぎる夏の海。陽の光が反射して、きらきら眩く光る輝きの海原。孤独な私たちとは違う、蒼く白いその輝き。

 死んで終わった私の孤独と、生きているのに閉じている彼の孤独を照らす様に。太陽は静かに、海は優しく世界を彩る。

 残酷なまでの、その美しさ。残酷なまでの、人との違い。


「……あぁ、そうだ。罪深く、業の深い在り方だと、自分でも思う」


 君は、それでも筆を取る。君は、それでも生き続ける。

 その事だけは、絶対的に、どうしようも無く分かっている。彼はそういう人で、そういう生き方で、そういう生者なのだから。

 歪んだとしても、その根底は覆らない。


 君は。


「けど……それでも、僕は画を描くのが好きなんだ」


 それでも絵を描くのだろう。


 悍ましい、呪いじみたその執念。

 けれど、それこそが、何よりも眩い生の証明(はつろ)。どう足掻こうとも、人は人で、醜さと共に生き続けなくてはならないのだから。


 人の本質が獣であるのならば、人の美徳はその足掻きにこそあるのだろう。獣性を否定する為に、より善いモノを目指して足掻き続けるその旅路こそが、美しいのだ。


「君は……うん。凄い画家だよ。自分の好きな事を、そうやって好きって言えるのは、凄い事じゃない?」


 彼の絵は美しい。それはやっぱり、凄い事だ。


「……そうか。……お前に何が分かるという話でもあるがな」


 彼はそっぽを向いて、再び歩き始めた。波打ち際を行く、その足取りと沈黙。言葉の無い、けれど居心地の良い足取りだった。

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