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蒼を名に冠す、君を。  作者: 夜月詠
Chapter 3
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サマーレコード・ホライゾン Ⅱ

 軽く羽織ったサマーパーカーの、つるりとした触感の冷感素材が温く肌を冷やす。頭から首筋までをフードで覆って、直射日光の拒絶と引き換えに籠る熱気に殺意を覚えながら自転車を漕ぐ。


「は、はぁ……く、暑い……!」


 茹だるような夏気と、熱に狂える程の大気の温度感。全身から吹き出す様な、汗の不快感が酷く煩わしい。こんな真夏の、それも昼間から外に出ようとしたのは、これ以上無い間違いだった。


「パーカーなんて着るからでしょ。脱いだら?」


「……馬鹿を言うな。日光が直接当たる方が辛い……」


 幸い半袖だから腕あたりは潮風が当たって心地良い。不快極まり無いのは首筋と、背中辺りだ。その辺りだけ、中に着ているシャツやインナーまで汗に濡れそぼっていて、恐ろしく心地が悪い。


 視線の先に、アスファルトの漆黒から登る陽炎が見える。夏の熱気に茹で上がった、大気と水分の狂騒が世界を歪めていた。


「まだ着かないのか……!」


 荒れる呼気と、苛立つ心境。新街の下り坂の、その混雑。行き交う人々の、濁り、けれど鮮やかなその往来に目を細める。

 醜い筈なのに、澱んでいる筈なのに、濁っている筈なのに、鮮やかな色を見出せるその混沌。変わったのは世界なのか、はたまた僕なのか。不明ながら、何処か穏やかな気持ちになる。


「悪霊、あと、どのくらいだ……」


「もうちょっともうちょっと。坂を下って、曲道を曲がって、もう少し行ったら新街の海水浴場に着くから」


「それを、もう少し、とお前は云うのか……!」


 どう考えてももう少し、なんて具合では無い。まだ大分距離がある。


「き、休憩を、一度……入れる……!」


 道路脇に一度停車して、荷物鞄からペットボトルを取り出す。白く透き通ったプラスチックの中に揺蕩う、僅かに光を曲げる液体の揺らぎ。何の変哲もない、ただのミネラルウォーター。

 夏の熱気で生温く冷感を失ったその喉越し。不愉快な味だが、今はその生ぬるさが心地良い。


 ──いや、嘘だ。そんな訳は無い。冷えた水を飲みたい。


「はぁ……暑い」


 潮騒の風のそよぎ。夏の海風の、生暖かい一陣の疾風。フードが覆い隠しきれない前髪がふわりと揺れて、浮かんでいた汗が僅かに冷めた。


「ねぇ、そんなに疲れてたの?」


 宙をふわり、ふわりと舞う蒼と白の影。頭の動きに連動して前後左右に揺れ動く繻子の黒髪。艷やかな濡羽の長髪が、楽しげに広がるのが見て取れた。

 海に行くのが余程楽しいのか、嬉しいのか。家を出てから彼女はずっとこの調子だ。


「……人間だからな。真夏に自転車を飛ばせば疲れもする」


「えー? 私が生きてた頃はこの位じゃ疲れなかったよ?」


「知るかよ死人」


 自転車に跨り直し、ペダルを踏み込む。休憩のお陰か足先は力強く、ペダルの黒を踏み込んだ。僅かに感じる駆動部の重さが、車輪の回転を足に伝える。


「って、漕ぎ出すの唐突なんだけど! 声の一つや二つ、三つ四つは掛けてくれても良くない?」


 漕いで、漕いで、漕いで。夏の暑きを振り払う様に無心で漕ぎ続ける。悪霊の戯言を振り払う様に、この夏の悍ましい程の暑さを振り払う様に風に身を溶かす。


 そうして、見えるのは郊外に見える砂浜と蒼い海。白く乾燥した砂浜と、押し寄せる波の蒼い色彩。

 海が砂浜に差し掛かった波打ち際は鮮やかに、彼方の海原は僅かに暗さを帯びて深青(あお)く在った。


「へぇ……」


「綺麗でしょ。瀬途の海って砂浜は微妙だけど海は本当に綺麗なんだよね」


 彼女の言葉通り、瀬途の海は間近で見るとより美しく思えた。

 穏やかな瀬戸内海の、その蒼い海色が背の低い波と共に砂辺へ打ち寄せて行く。天と海の境界線が溶け消える程の水天一碧(ブルーホライゾン)

 荒れる事の少ない蒼天と、穏やかな海が合わさった事で見られる、何もかもが同じものであるかのような美しき錯覚。


 僅かな彩度の違いしか無いからこそ、人の眼は容易に世界を誤認する。世界を描く絵描きとして、許される筈もない認識の誤謬。


 けれど、それを理解して誤認する。歪んだ人の認識すらも道具として『見たものを、思ったままに描く』為に。


「……蒼の透明感が微妙に違う。ウルトラマリンに強く蒼く染まった空と、セルリアンブルーからディープブルーに遷移する海の蒼。」


 空と海の境界線だけが、同じ様な強く蒼い色彩。

 沁み入るような、ただ蒼い空。


「僕は自転車を停めてくる。先に海に行ってろ」


「や、君と一緒に海に行くよ。もう少しついてってあげる。感謝しなよ〜」


 何故だか恩着せがましいその口振り。感情が逆撫でされる気分だった。彼女は何故こんなにも偉そうなのだろうか。


「何だその口振りは。態々連れてきてやったと云うのに」


「普段はずっと引きこもってるか、近所にスケッチしに行くだけの君を態々連れ出してあげた、って言えるでしょ?」


「外には出ている。スケッチしに行っているのがその証左だ」


「近所じゃん。遠くまで行っても、新街どころか公園くらいにしか行かないじゃん」


「チッ……」


 あぁ言えばこう言う、とは正にこの事。彼女には何を言っても言い返してくる。嫋やかで明るい笑みの容姿とは裏腹に、"良い"性格をしている。


「あれれ、黙っちゃってどうしたの? 言い負けたのが悔しいのかな〜?」


「さて、帰るかな」


「待って待って待って、ごめんごめん! 遊びたいからもう少しいてよ〜、一人は楽しく無いんだからさ〜!」


「ふん、分かれば良いんだ。その調子で居るんだな、悪霊」


 中身のないやり取りに会話を弾ませつつ、海辺へ向かう。すれ違う水着の人々は、皆一様に夏の暑さに顔を歪め、けれど清涼な海の気配に僅かな笑みを浮かべていた。

 パラソルを抱えた人々の中には普段着のままの人達もいたので、普段着の僕もまた下手に意識されたりしないだろう、と安心する。

 人の視線と意識というのは中々堪えるものだから。


「って、そういえば普通に話してて良いの? 周り普通に人いるけど」


 その言葉に、左手の端末を見せ付けた。つるりとした触感の、黒い画面。現代文明の叡智と技術の詰まったスマートフォンという機械だ。左手側にあったから、右手側を浮遊する彼女は気が付かなかったのだろう。


「……あ、そっか。通話中って事にしてるんだ。賢いね」


「この程度誰でも思いつく。小手先だ」


 足元に感じる、不確かな砂の感覚。一歩、歩を進める度に裂けるように歪む熱砂の温かさ。素足で歩けるか否か、恐ろしくなる温度だ。


「おぉ、海だー!!」


 ふわりと波打ち際まで飛んでいって、波が来る度に『ひゃ〜』と騒ぐ彼女の後ろ姿。黒髪の、薄く重なった髪の隙間から除く蒼と白。水に触れる事はおろか、温度さえ感じる事は無いというのに。

 その背中は、本当に楽しそうだった。


「ね、ね、ね! 沙也君、ちょっといっしょに遊ぼうよ!」


 振り向いて、輝くような笑みを浮かべる。夏の日差しの様に煌めく、爽やかで蒼い笑みだった。


「遊ぶ? 馬鹿を言うな。お前と、どうやって遊べと?」


「んー水のかけ合いとかしたいけど出来ないし……波打ち際をいっしょに歩くとか? それはそれで楽しそう!」


 高度を落とし、僕と目線を合わせた彼女の瞳。そこに反射で写る筈の、僕の姿は無い。光も影も、理不尽な挙動をする彼女の造形は、物理法則に当てはまらない。


「お前は楽しいのか、それで」


「んー、まだ分かんない! けど、多分楽しいんじゃない? 昔読んでた小説だと、皆楽しそうだったし」


「まさかお前のやりたい事って小説に書いてあった事、とかじゃ無いだろうな」


「正確には、小説を読んで自分でもやりたいな、って思った事。

 引っ越しばかりで友達とか全然いなかったし、こういう夏! って感じに憧れてたんだ」


 友達が居ないのと、夏に何の関連性があるのだろう。

 そして、思う。僕は彼女の過去を全くと言っていい程に知らないのだと。


「……そうか」


「え、もしかして私、君に憐れまれた!? 友達いないのは君も同じでしょ! この、偏屈!」


 友達がいないのでは無い。必要無い、という事だ。その気になれば幾らでも作れる。昔から、『友達になろう』だとか言ってくる人間には沢山会ってきたんだ。

 ……その全てに、僕の両親が目当ての大人の影があったのだけど。


「……波打ち際を歩くだけで、良いんだな?」


「釈然としないんですけど! 『そうか』なんて言った後に言わないでよね! ……歩くけども!」


「それと、友達がいない訳では無い」


「え」


 彼女はふわりと浮かんだまま、唖然とした表情を見せた。色鮮やかな激情の奔流や海を前にした美しい夏の笑みとは異なる、絶句と驚愕という色彩に満ちた貌だった。


「お前……」


「何よ、驚いて悪い? 君に友達がいるなんて、思ってもみなかったから呆然としちゃったの」


「いや、お前だ、お前」


「え? ……え、私の事?」


 ぽかんとした表情の後に、彼女はキョロキョロと回りを見渡して、此方に注視している人間がいないのを確認すると自分の事を指差した。


「一ヶ月にも満たない付き合いだが……この関係を、友達でなくて何と云うんだ、お前は」


「──────うん。……うん! そう、だね。友達って、言うんだよね、私達みたいなのを。そっか、友達かぁ……叶わないと思ってたけど、叶うんだ……」


 泣きそうな笑み。哀しみと嬉しさ。相反する、しかして両立するその衝動が彼女の澄んだ顔に浮かび上がった。


「ねぇ、沙也君。また一つ、やりたい事が終わったよ」


「はっ。友達を作りたい、なんて思ってたのか、お前。案外可愛い所もあ、る……チッ、余計な事を……」


「え〜? 可愛い所も〜? 何て言おうとしたの、沙也君さぁ〜」


 僕の右に左に、ふわふわと纏わりつく様にして飛び回る彼女の姿。緩く緩みきったその笑顔。何よりも色鮮やかな、淡い桃色のその紅潮。悪霊の、白ざめた死蝋の肌がほんの僅かに色付いて見えた。


 夏の様な明るさでは無いが、春の優しい日差しにも似た彼女のその笑顔は本当に、嬉しそうだった。

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