サマータイム・パラドクス Ⅰ
なろうへの投稿の仕方を思い出したので投稿。カクヨムにも投げてます
人は醜いと誰かが言った。
物語の登場人物だった様な気もするし、現実に居た人間だったかも知れない。
──どうでも良い事だ。
「沙也、私はお前の両親とは──」
「沙也君、私は貴方の事を思って──」
「君はまだ若い。若すぎる。その遺産は手に余るだろう。だから──」
『遺産を私に寄越せ』。親戚達の誰もが口を揃えて言った。醜く、互いの取り分を口早に取りがめながら。まるで、自分の手に遺産が転がり込んでくるのが決定事項かの様に。
事故死した両親の遺した遺産は、かなりの額だった。
著名な彫刻家の父と、高名な画家の母。二人が遺した遺産は単なる金に留まらず、不動産、芸術品、株式と多岐に渡った。
そんな大金がこんな、まだ高校生の子供の手に転がり込む、なんて誰もが認める事は無かった。
だから、逃げた。葬儀が終わって、日が暮れて、誰しもが一旦の休憩だとでも言いたげに、逃げるように姿を消したその瞬間に、逃げた。弁護士を雇って後見人を建て、親戚達から逃げる様に居を移した。
「君の才能は素晴らしい。きっと、名を残す画家になる。だから──」
「天才だ。君の画は良い値が付く──」
「流石、錦木夫妻の息子だ。神がかった──いや、悪魔じみた、空間認知だ──」
逃げた。両親の影と、僕の画しか見ない全てから。
僕は両親とは違う。僕は、僕だと叫びたくて。でも、そうする勇気を出せなくて。
逃げた。口を噤む、自分自身すら嫌になって。
否定し、拒絶し、拒み、逃避した。
逃避の先は、遥か岡山。
東京を遠く離れ、瀬戸内海に臨した地方都市、瀬途市は君之宮に引っ越した。
街の一角に家を買い、隠棲する様に住み着いたのはつい一週間前の事だった。
「……チッ、嫌なことを──」
舌打ちを一つ。頭を振って、嫌な記憶を追い出すように深く深呼吸を繰り返す。肺の中身をすっかり入れ替える様に、酸素と二酸化炭素の交換を繰り返す。
「さて、気を取り直して……」
スケッチブックに向き直る。小高い丘の頂点からは、瀬途が抱く瀬戸内海の海原が良く見えた。ただ、美しく静やかに凪いだ海原。
蒼い、只管に蒼い海。頬を撫でる柔らかな風と、暑い陽射し。
捨て置いてきた親戚達の、耳障りな言葉は此処には届かない。
だと云うのに、
「チッ……」
筆が進む事は無かった。
思い出してしまった嫌な記憶が原因か、はたまた何か他の理由か。兎にも角にも、手が進まない。
東京を捨てて手に入れた静寂が。望んでいた筈の孤独が、今は何処か寒々しいとすら、思う。訳が分からない。
僕が望み、僕が手に入れた静寂と孤独だと云うのに。何故寒々しいと、淋しいと思う必要があるのか。
どれもこれも、全ては思い返してしまった追憶のせいだ。嫌な記憶が蘇ったせいで、僕の精神状態に狂いが産まれているだけだ。
「ふん。時間なんて幾らでもある。また明日、だ」
背を向けて、スケッチブックと筆、絵の具を鞄に仕舞う。
蒼の乗ったパレットを折り畳み、丁寧に鞄に仕舞う。暗い茶色の、使い慣れた荷物鞄に全てを仕舞い込んで、自転車に跨る。
本日は快晴、澄み渡った蒼穹が頭上に広がっている。
雲一つ無い、満点の快晴。美しいが、それと同時に嫌になる、夏真っ盛りの日本晴れだ。だから、今日も酷く暑い。
近年の日本の、じっとしているだけでも汗ばむ暑さはインドア派の人間にとって、恐ろしいまでの脅威だ。
自転車に跨って、風を切る度に感じる風の冷たさがあって尚、暑い。夏は暑いものだと分かっていても、やはり嫌になってくる。
自転車の車影が、アスファルトを駆ける。決して自然物などでは無い、文明の黒をゴムの摩擦が捉え、僕を乗せて走って行く。
自転車を駆る事数分、ある交差点に辿り着いた。それは、どうやら有名らしい坂下の交差点。
深くは知らないが、何やら幽霊が出るのだとか。
どうでも良い話だ。幽霊も人間も、どうせさしたる違いは無い。
無感情なままに、ペダルを漕ぐ足に力を入れる。交差点に近付き、はっきりとそのカタチを認識した時、視界に一つのヒトガタが飛び込んできた。
──蒼と白。
恐ろしい、暴力的なまでの錯覚。
真白に蒼の挿し色の入った夏服を纏う、少女のカタチ。黒の長髪を風に揺らし、ぼうっと揺らぐ眼は悠く彼方を見つめていた。
大人びた雰囲気の、おそらくは同年代であろう少女。
僕が憶える筈もない、見惚れる様な錯覚を飲み下す。美しい、と、そう思ってしまった知覚異常を否定する。
人間は醜く、救いようの無いモノであると。誰も、誰であろうと、変わりはない。人は一皮剥けば、須く、悪にして獣である。
悪性こそが人間の本質。悪徳と汚濁こそが人間の本質。
美しい訳が、あろう筈もない。
「待て──いや待つな、ぶつかる──!」
思考は刹那の内に吹き飛んだ。何しろ、少女は何の備えも無く僕の自転車の、その進行する直線上に居たものだから。
慌ててブレーキを駆ける。ペダルから足を離し、地面に擦り付けて速度を殺す。交通事故なんて洒落にも成らない。
人にぶつかる訳には行かない、と全力を尽くす。けれど、速度と慣性の乗った自転車がそう簡単に止まることは無く。
少女が回避しようと身体を動かす事も無く。
僕と少女は、速度の乗ったままにぶつかった。
「何……?」
音は無い。衝撃は無い。悲鳴も無い。
潮騒の揺らぎはあるのに、衝突の旋律はゼロ。
風を割く感触はあるのに、衝突の衝撃はゼロ。
息をのみ込む音はあるのに、苦痛の悲鳴はゼロ。
およそ物理的に、あり得るはずの一切が無い。無い無い尽くしの困惑の中、理性と知性が困惑を避けようとこの異常を定義しようと悲鳴を上げた。
だがしかし。けれど、その悲鳴が報われる事はなく。
故、表現に相応しい言葉はただ一つ。『僕は彼女をすり抜けた』。その他に、相応しい言葉は存在しない。
人をすり抜けるという異常こそが、今現在、最も的確でかつ相応しい現実表現だ。
僕を乗せた自転車と、少女の接触事故は起こりもせず、ただ速度のままにすり抜けて、そして漸く制動が効いて停止したのだ。
先程の、僕自身に起きた知覚異常よりも更に、有り得る筈の無い異常現象だった。
「君、もしかして、見えるの? 私の事」
少女が間の抜けた声色で言葉を編む。
意味不明な、音の列なり。理解はできるが、理解できない言葉の羅列。一体その意図はどういう事なのか。
「見えるのか、だと? 見えない訳が無いだろう。君は此処にいて、僕は見える。ただそれだけだ。それより、何故避けなかった。接触事故が起きかけたんたぞ」
少女の身体をすり抜ける、という異常現象によって接触事故は起きなかった。けれど、『これで全て良し。世は全て事もなし』と終わらせて良い筈がない。下手をすれば、無理に避けようとした僕の方が怪我をしていたかも知れない。
「いや、だって、接触とか不可能だから。私、幽霊だし」
あまりにも軽ろやかに。困惑している僕の方こそがおかしいのだと言うかの様に。眼前の、蒼と白はそう宣うた。
風に揺らぐ様に見える、衣服の皺と影。
潮騒が吹き抜けて出来た様にも見えるのに、風に揺れる気配は無い。影もまた、同様に。光の当たり方からして、影が出来る筈もない箇所に影が置いてある。
理解を拒む、非現実感。写実を拒む幻想が、軽やかに揺れ動く。
「──は。こんなに確かな存在感を持つ幽霊が、居るわけが無いだろう。この暑さで頭がやられたのか?」
皮肉げに、声が溢れる。眼前の、幽霊を名乗る少女に対して敵意すら滲んだ辛辣な言葉が溢れてしまう。
「だって、ねぇ。こう──」
そこで少女はふわりと浮き上がった。
何の予兆も無く、何の仕掛けもなく。あまりにも自然に、物理法則に対して反逆を行った。
「浮いたり、モノをすり抜けたり、消えたり。そういう事ができる存在って、幽霊としか表現できないでしょ?」
白と蒼の衣服を柔らかに揺らしながら、少女は縦横無尽に空を翔ける。時には地に足を下ろしてそのまま地中に沈み込み、時にはその姿を文字通り、消し去ったり。およそ幽霊らしい行動の、あらゆる一切を披露して見せた。
「……チッ、あぁ、分かったよ。お前は幽霊だ。他の何者でも無い。だが、それならそれらしくしていろ。こんな昼間から出歩くな」
あまりにも暴力的な、世界の否定こそが彼女だった。
質量の存在しない構造物、重力に従う事の無い物質。あり得て良い筈が無い。およそ芸術として、間違っている筈の表現こそが相応しい、なんて。
異常だ、それは。既存の価値観を根本から覆す、脅威こそが彼女だった。
「良いでしょ、昼間から出歩いてても。というか、幽霊でも夜は眠るから。生きてた頃と同じ様に、暗い夜は睡眠しなきゃ。つまらないでしょ、夜って」
「ふん。同意しかねるな。世界は夜こそ美しい。煩わしい人間の眠る、ただ静寂と月光に満ちた世界こそが美しいんだよ」
「もう、折角久しぶりに喋ったのに。少しくらい合わせてくれたって良いんじゃない?」
幽霊は口を尖らせて、むっとした表情になった。空をふわふわ浮いたまま。苛立たしい程に幻想的で、あり得てはならない程に、良い構図になる。それが、苛立たしい。
「うるさい、黙っていろ幽霊。僕はこれから帰るんだ。君と違って、やる事・やりたい事は山程ある」
生きている者として、熟さなければならない仕事は山程ある。掃除、炊事、洗濯、学校だって通わねばならない。
そして、やりたい事も、また有る。
絵を描くのだ。美しいものを。良いものを。綺麗なものを。
僕の目に叶う、ただ良い絵を描かなくては。
──だが、質量の存在しないものを、一体どうやって表現するべきか。
「……私だってあるし」
絞り出す様に、幽霊は音を零す。
物質に干渉しない、物理法則に真っ向から喧嘩を売る彼女が、音という波だけは物質的な干渉を及ぼせるのがまた受け入れがたい。
物質を通り抜けるなら、声だって出せないのが道理だろうに。
「やりたい事。沢山、本当に沢山あるんだから」
その表情は、昏く儚く。されど、何か、奇妙な光が満ちていた。
哀しみと、絶望と、希望と、興奮と。人の喜怒哀楽という感情の悉くを綯い交ぜにして掻き混ぜ、プラスの方向に発散させたかの様なその暗色。何かを決めた者特有の、後戻りする気のない決意の顔。
あまりにも華麗で、豊かな色彩の奔流。悍ましくも美しいその色を、人は何と呼ぶのか。
「そうか、なら好きにすれば良い。じゃあな、幽霊。もう二度と会うこともないだろうが」
逃げる様に背を背ける。
苛立たしい程に美しい、僕の価値観に喧嘩を売るような彼女に背を背ける。自転車のサドルに跨って、ペダルを踏み込む為に力を込める。足先を押すように、ぐいっと踏み込む。
そうした刹那──
「決めた! 私を轢いた責任、取ってもらうからね!」
と、少女の声が響いた。軽やかに、朗らかに。されどこれは決定事項だとでも言いたげな、絶対的な重さを持って。
「──は?」




