第七話 人生が二度あれど・3
レジで、小鳥はチーズバーガー、彼はホットドッグを頼んだ。ハンバーガーショップだというのに彼はいつもホットドッグを食べていた。やっぱり彼だ。
注文した品が届くまで二人は店内の席に座る。
向かい合う。幸せだった。
幸せ——だが、だがしかし、そのとき小鳥は、ある異変に気づいた。
彼は年を取っていない。五年前のままだ。
自分は今、二十四歳の、大人になっている。このシミュレーションが始まってから自分は鏡を見ていないが、自分は確実に十九歳の顔ではなくなっているはずだった。なのに彼は五年前のまま——。
十九歳で亡くなって、そのイメージが焼き付いているから?
「どうしたの」
「何でもないよ」
ちょっとだけブンブンと頭を振った。それでも彼は彼だ。彼なのだ。だから自分は、この夢の世界で絶対に鏡を見ない。若い彼と、それなりに老けた自分を比べたくなかった。
「お待たせしました」
かわいい声で若い女性店員が二人の食事を持ってきたので、小鳥は気を取り直そうと思った。
「頂きます」
と二人で言って、ちょっと笑って、そして食べ始めた。美味しい。明晰夢というのは味覚まで生々しくなるんだな、と、小鳥はちょっと思う。
「美味しい?」
と訊いてみると彼は、
「小鳥ちゃんと一緒なら、何でも美味しい」
そんなセリフを、彼はいつも言ってくれていた。
小鳥は微かに笑った。いつもの彼が——五年前のいつもの彼がそこにいる。
自分は五歳、年を取ったけれど。
「あなたは今、何をしているの?」
ふと気になって小鳥は訊ねた。確かに外見は五年前のままだ。だが、この夢の世界ではあくまでも自分と同い年のはずだった。だから彼はもちろん大学は卒業しているだろう、そして今、どんな仕事をしているのだろう。
すると彼はゆっくりと答えた。
「今は、普通の会社で働いているよ」
小鳥は眉を顰める。
「普通の会社?」
「そうだよ。やっぱり現実を見たんだ」
「でも。あなたは、民俗学者になりたいって」
そう。彼は民俗学を専攻しており、いつも日本各地の古い伝承や伝説、怪談などについて調べていて、それを小鳥に楽しそうに話していた。小鳥もそういう話は別に嫌いなわけではなかったが、しかしこの人と結婚する未来を想定したとき、民俗学者では大して稼げないのではないか、やっぱり普通の仕事をしている方が良いのではないかということはいつも思っていたことを思い出す。流石に付き合った期間が期間だからそれを口に出したことはないが——しかし、この五年間で、おそらく小鳥はそんなことを言ってみて、やがて彼も民俗学に限界を感じて、普通の会社員として働くようになった——ということなのだろうか?
でも。いつか二人で遠野へ行こうねと約束していたことを思い出す。その約束はこの五年間の間に叶ったのだろうか? 今、この明晰夢の世界で、自分にそのような記憶は、ない……それでは、彼は、いつ、夢を諦めた?
「あなたは」
「ん?」
「あなたは、あなた?」
やや不可思議な質問だったが、それでも彼はニコニコと答えた。
「おれは、おれだよ。小鳥ちゃんの彼氏で、小鳥ちゃんのことが大好きで、そんなおれが好きな、おれだよ——」
そう、そうだと思う。でも。
ところどころ、あるいは決定的に“彼”とはズレがある。
ぎこちないキスも、冷たい手も、頭の撫で方も——外見も、夢も。
そして、現実も。
「いつもの河川敷に行きたいな」
「行こう行こう」
そして場面は河川敷に変わる。
秋。落葉。川の流れは穏やかだった。
二人でベンチに座って、川の流れを眺める。
再びこうすることが小鳥の夢だった。
でも——。
「あなたは、私の夢なんだよね」
「そうだよ。小鳥ちゃんの夢の中の、登場人物——」
「それでも——あなたは、あなただから」
「そうだよ。おれは、おれだよ」
「でも——」
小鳥は苦しげに、でも、これは、自分の中で絶対にまとめなければならないことだと思い、ゆっくりと言葉を紡いでいった。
「あなたはあなたで、でも、それでも……いくら同一人物でも、辿ってきた道が違えば同じ“想い”は持たない——それは……別の人」
「……」
「あなたは、あなただけれど、私の中のあなたであって……あなたじゃない」
「……」
「死んだ人は、生き返らない。私の夢は絶対に、叶わない」
「……」
「……それでも」
秋の河川敷の風は実に爽やかだった。
小鳥は、ちょっとだけ笑って、やがて言った。
「それでも、会いたかった」
すると彼は、うん、と、頷いた。
「おれ、小鳥ちゃんに会えて、すごい幸せだったよ。ああ、おれ、生まれてきてよかったな、と思った。死んじゃうのはすごく残念で、後悔で、怒りもあるけど、それでもしょうがないなって、それでも、しょうがないけど生まれてきてよかったなって、小鳥ちゃんと一緒にいて、おれはすごくすごく幸せだったよ」
「私も幸せだよ」
「それでもこれは夢。このおれは夢。そして小鳥ちゃんも……夢の中の人」
「そうね。そうだね。だから——私は——」
表層意識のリクエストと、深層心理の真の願い。
彼に会いたくて、もう一度会いたくて、そして……そして、私の真の願いは?
「ね、ね」
「なに?」
と、小鳥は彼に肩を寄せた。
ふふ、と、彼は笑う。
「おれ、小鳥ちゃんが好きだよ。大好きだよ」
「うん。だから——」
そして小鳥は、ちょっと、安らかな気持ちになって、
「さようなら」
と、言った。
「それでも、ずっとそばにいるからね」
と、彼は言う。
「そして、私は私の人生を」
彼は笑った。
「いつでもそばにいるよ。小鳥ちゃんを、ずっと見守ってるよ——」
川のせせらぎと、秋の風。
いつまでもこうしてはいたいけれど、それでも、自分は自分の人生を、改めて生きていかなければならない。
それでも、もうちょっと、もうちょっとだけ、このままでいたかった。
たとえそれが——泡沫の夢でも……。
……やがて小鳥は現実に目覚める。
ベッドの上で小鳥はゆっくりと目を開けた。
泣いていた。
それでも、辛くなかった。
「いかがでしたかね」
黄色いヘッドホンを外しながら、十三は小鳥にそう訊ねる。
小鳥は上半身を起き上がらせた。
「夢を見ました」
「そういう実験ですからね」
と、十三はコーヒーを淹れ始める。
そして小鳥は、ベッドに腰掛けて、やがてコーヒーを受け取りながら十三に笑いかけた。
「全く彼自身ではなかったけれど、夢でもあの人に会えて、よかった——」
柔和な笑みをたたえて十三は応える。
「心配することはなかったようですね。あなたの真の願いを私はナメていたのかもしれませんね」
「私自身の、深層心理の真の願いというのが何なのかは、よくわからないけれど……少なくともそれは、彼と会うこと自体ではなかったのかもしれません。それは、多鍵さんの言うところの、表層意識のリクエストだったのかもしれない」
十三はコーヒーに口をつける。表情は穏やかな笑顔だった。
「あなたはあなたで、彼のことを忘れても、自分の新しい人生を生きていかないといけないんでしょうね」
「いえ、忘れないです。忘れられないから、忘れません。それでも」
その後の言葉を小鳥は紡がなかった。
忘れられないけれど、それでも、それでも……今はそれで充分だった。
そして小鳥は立ち上がった。
「たとえ夢でも、あの人に会わせてくれて、本当にありがとうございます」
しばらくの間、頭を下げて、そして顔を上げる。その顔は朗らかだった。
そして十三は、言った。
「デジタナは、深層心理の真の願いを客観的に見つめられたとき、プログラムが構成を開始します。そして……あなたが“それでも”生きていくこと自体が、プログラムに組み込まれていることなら」
「なら?」
十三は笑った。
「既に決定済みのプログラムの中でどれだけ自分らしく様々なことを選んでいけるか。それを一人一人の人々が自覚することができたら、私としては喜ばしい限りです——それでは、またいつかどこかでお会いしましょう」
そしてこの場は終わる。
この博士とまたいつかどこかで会うことがあるなら、そのときは、幸せな自分でいられていたらいいな、と、小鳥はそう願うばかりだった。




