第17話 喧嘩
速水さんが涙を掬いとるように、優しく眦にキスをしてくれたから。
もう、一生分の幸せを使い果たしたんじゃないかって思うくらい、幸福で心が満たされる。
それなのに。
「愛してるよ。詩季」
速水さんの言葉に、また涙があふれてきた。
僕の方がずっとずっと速水さんを愛してる。
今までも。これからも。
僕には速水さんだけがすべてだから。
想いのままそう伝えたら、返事の代わりにキスが降ってきて。
息も出来ないほど熱く激しいキスに、身も心も蕩けてしまいそうだった。
◆ 天馬 ◆
「おはよー、天馬」
「お、おはよ」
ドアを開けて入ってきた景は、一目で見て分かるほど様子が違っていた。
昨日までは、ずっと不機嫌な顔をしてた。
例の熱愛報道のデマが、かなり頭にきたらしい。
でもいつまで経っても不機嫌なままだったから、プライベートでも何かあったんだろうと心配していた矢先だ。
今日の景は今まで見たことがないくらい上機嫌で、おまけに鼻歌まで歌っている。
その様子にホッとした。
景は本番中以外ずっと気むずかしい顔をしていたから、俺もスタッフも、景には近寄りがたかったのだ。
唯一、いつものテンションで話しかけられるのは竜樹くらいだったけど、その竜樹もここしばらくは思い悩んでた様子で、メンバー内の空気は微妙だった。
それが、今日になったら、いつも通りに戻っている。
理由は分からないが、俺は景の調子が元に戻ったことで、本当に安堵したのだ。
「景」
「ん~どうした、天馬」
「何か良いことあったのか?」
「へ?」
「そんな顔してるけど」
楽屋の鏡を指差すと、景は自分の顔を見て、へらっと笑った。
それから俺を振り向く。
「天馬、今日何時に終わるんだっけ?」
「順調にいけば、二十一時くらいには終わると思うよ」
「そっか~。早く終わらせないとなぁ」
壁時計を見ながら、景が意外にしっかりした口調で言った。
早く帰りたがるのはいつものことだけど、何ていうか……気合いの入れ方が今までと違う気がする。
「何か用事あんの?」
「うん。早く帰らないと……」
「おっはよ~!」
バンッと音を立ててドアが開く。
同時に騒がしい男が入ってきた。
「竜樹! ドアは静かに開けろって言ってるだろう!」
「げ、天馬もう来てたの?」
「お前が一番遅い!」
「あ! 景も先に来てるし! ずるい!」
「たっちゃん、カレー食べてきたの?」
「うん! やっぱ分かる? さっき食堂で、大盛り頼んじゃってさ~」
「カレーうまいよな」
「だよね! 毎日食べても飽きないし!」
ニコニコと笑顔でいう竜樹の顔は、汗だくだ。
カレーを食べたあと、楽屋まで走って来たんだろう。
「竜樹。とりあえず汗を拭け」
「あ、天馬ありがとー!」
「もうすぐ撮影始まるから、衣装に着替えろよ」
「はーい!」
タオルを渡してテーブルに戻ると、読みかけの本を手に取った。
何気なく二人の方を見ると、楽しそうに話してて。
やっといつもの日常が戻ってきた気がしていたんだ。
撮影が終わったのは八時を少し回った頃で、楽屋に戻ると景は急いで私服に着替えてそのまま出ていこうとした。
そんなに急ぐ用事があるのかと思っていたら、竜樹が慌てたように景を呼び止める。
「あ、ちょっと待って景!」
「なに? たっちゃん」
景は入り口のドアノブを握ったまま、早口で尋ねる。
いつもはのんびりと返事をするのに、今日は一体どうしたんだろう。
気になって景の方を見ていると、竜樹が景に駆け寄った。
「景、明日ってオフだったよね?」
「そうだよ」
「よかった~! それならいいんだ!」
嬉しそうな顔で頷いた竜樹は、景に向かって何かを小声で囁いた。
買い物の約束でもしてるのかと思ったけど、どうやら違うらしい。
景が目を丸くして竜樹を見上げた。
「あ~……うん」
景は気乗りしない感じで、渋々といった風にドアノブから手を離した。
何故だか、失敗をした子供みたいに情けない顔をしている。
二人の話している内容は聞こえなかったから、何だろうと不思議に思って、声を掛けようとした瞬間、
バシンッ!
あっと思った時には、竜樹が景の頬を思いきり叩いていた。
すわ、メンバー内で喧嘩かと焦り、思わず椅子から立ち上がる。
「ッ……ぃってぇ!」
「あたりまえだろ? 痛くなかったらイミないし」
「う……ごめんな。たっちゃん」
「……約束破ったら、こんなもんじゃ済まないから」
「分かってる……じゃあ、またな」
左頬を赤く腫らした景は、ニコッと笑って帰って行ってしまった。
何だ? 喧嘩じゃなかったのか?
景は何で、叩かれて平気な顔してるんだ?
ワケが分からなくて、立ち上がったまま動けないでいたら、竜樹が笑顔で俺を見る。




