罪の都シャディザール
狩人の騎士団には、幾つか支部がある。
長い歴史の中、騎士団に合流した獣狩りの秘密結社だ。
その中でも有力な四大支部があった。
蒼天院、糞虫の巣、宿礼院。
そして竜心院だ。
竜心院は、4つの中で最も強く、恐るべき獣だけを相手にする。
彼らは、些末な怪異に関与せず、巨大な獣を狩ることに美学を見出していた。
またそれが貴族としての役目である、と信じていたのだろう。
新しい発明品である汽車に揺られ、グレアは、目的地を目指す。
いまだ先祖も旅したことのない遠くにだ。
窓の景色が輝く大都市を抜け、農村を通り、青い山々に変わる。
グレアは、車両をひとつ貸切った。
それでも不安で食事も満足に摂れない。
極度の緊張から目の下には、隈が。
四日後。
「…ここか。」
グレアが駅を降りて目指したのは、何もない谷だ。
はるか下に森が広がっていて前には、反対側にも切り立った岩山がある。
今、そこを鳥が渡っていく所だ。
「………。」
グレアは、右手の指で強く額を抑えた。
そのまましばらく動かない。
ただ鳥の声だけが静けさを破っている。
「………う。」
しかしやがて彼の目の前に巨大な石橋が出現した。
谷を横断し、橋脚が森から伸び、橋を支えている。
橋は、壮麗な彫刻とレリーフが施され、見事な復古建築である。
グレアは突如、姿を現した橋に驚かなかった。
平然と一歩踏み出す。
そして当たり前のように渡り始める。
鳥たちが橋の上を渡る。
彼らもまた突如、出現した橋を当然のように受け止めていた。
実は《夢》とは、複雑に重なり合った異空間の体験なのだ。
狩人は、《眠りの門》を抜け、自らの意志で異世界を移動できる。
夢は、現実に近い物と完全に異なる場合がある。
今回、グレアが訪れた夢は比較的、現実に近い。
ただ現実にはない大きな橋が、ここにある。
今から2万年前。
都市国家シャディザールは、滅ぼされた。
マウザボリア人は、ここを悪徳の都として完全に破壊した。
同じ場所に二度と都市が建設されることはなかった。
その後、ここは荒野となり、死の丘となった。
しかしごく浅い階層の夢でシャディザールは、いまだ存在する。
シャディザールは、アグー神を崇拝していた。
丘の上に神殿が建ち、これを囲むように市街地が形成されている。
故に遠景からシャディザールは、一つの山のように見えた。
街には、あらゆる盗品が並び、犯罪者たちが溢れている。
皆、自分が世界一と歌う盗賊、暗殺者、詐欺師どもだ。
猥らな娼婦たちが街のどこにでも目につく。
世界各地のあらゆる人種の女たちだ。
アグー神は、罪を恐れぬ者を愛でる。
犯罪を冒すことがアグー神を信じる証となる。
正義を、裁きを、また善なる神の天罰を顧みない行い。
それらこそ、アグー神への絶対帰依と見做された。
この邪神を忌み、恐れ、マウザボリア人は、この都市を焼いた。
「ここが…。
伝説の悪徳の都…。」
思わず、足がすくむ。
グレアは、背徳の門を潜った。
既にグレアにとって未知の世界が広がっていた。
白い顔、黒い顔、黄色い顔、そして一等人種。
角着きヘルム、ターバン、袴、毛皮の鎧、丸盾、山型帽。
四方世界の様々な衣装、道具を身に着けた民族たち。
特にアグー神に仕える娼婦たちは、若い男にとって抗えない誘惑だった。
「ちょっと、あんた。
ここは、シャディザールだよ。
女の前を素通りする気か?」
柔らかな膨らみを揺らして女がグレアの行く手を遮った。
「ははは…。
お客さん、この都は、初めてかい?
怖い事は、な~んにもないよ。」
別の女がグレアの手を取る。
あっという間に女たちがグレアを取り囲んだ。
乳首を隠す黄金と宝石の乳当てに耳飾り、尻を露わにした腰巻き、金のサンダル。
皆、毒々しい姿をしている。
彼女たちは、娼婦だ。
しかし金は、要らない。
代わりにアグーの娼婦と関われば堕落すると信じられている。
他者を堕落させることが罪であり、アグー神への供物となる。
また彼女たちは、アグー神の加護を得る。
男を誘う毎に、より美しく、また若返るのだ。
故に永遠の美と若さを求め、愛嬌を振りまく。
もっともアグー神の美が、人の思う美と同一と決まった訳ではない。
長くアグー神に堕落を捧げ、恐ろしい姿になった女たちもいる。
「ぼ、僕は…。」
グレアが恐る恐る口を開いた。
これだけでも魂が堕落する気がして汗が噴き出す。
女たちが面白がって真似した。
「僕は?」
「僕はー?」
「僕は、どうしたの?」
グレアは、
「…騎士団の指令を受けた狩人だ。
邪魔をする………な。」
となんとか震える唇で言い切った。
しかし女たちは、ケラケラ嘲笑った。
その哄笑は、恥辱と困惑の混合液の波となって若く純朴なグレアに打ちかかった。
「あは、あは、あは、あは…。
獣狩りの狩人様かあー。」
一人の娼婦がいった。
彼女の褐色の肌が輝いてグレアの目を捉えて離さなかった。
実際、何十年生きているか知れないが。
若く美しいザトラン人に見える。
砂漠の国からやって来た黄金の肉体だ。
「狩人様。」
女は、ワザとらしくお辞儀をし、右手を天に伸ばした。
「狩人様。
ようこそ、シャディザールへ。
悪徳と美と盗品の聖都へ、ようこそ、ようこそ。」
娼婦たちが拍手した。
幾つもの豊満な胸が弾け、グレアは、真っ赤に赤面した。
「私がタニスだ。
14の夏にデルの鯨に身を捧げ、黒い仔山羊たちと狂いて踊り。
ヨグの神を冒涜し、喰屍鬼の守護神ブバスティスに全ての快楽を与えられた。
人知を超える姦淫。
限界を超えた荒遊。
数々の拷問に等しい神官、聖女たちの手解きを私は、受けた。
…ああ。
最初の1年目、死のうと思わない日はなかった。」
一斉に娼婦たちから溜め息が。
想像するだけでグレアは、気分が悪くなった。
ダゴン信仰の最奥、デル神殿の薄暗い玄室。
シュブ=ニグラスを奉じる黒い森。
世界が大海に飲まれる前、大変動以前の古い古い信仰。
それは当然、幾つもの《眠りの門》を抜け、《夢》の深層を経巡らねばならない。
10万年前に滅び去った神々が、なお信仰される夢の層に。
「狩人様。
あんた、初仕事だろう?」
タニスは、そういってグレアに微笑んだ。
「なら、私が世話をしてやろうじゃないか。
景気よく遊ぼう、なあ?
あは、あは、あは、あは。」
それまでグレアは、逃げ出す隙を窺っていた。
しかし娼婦たちは、信じ難い強引さを見せる。
彼を持ち上げ、神輿のように担ぎ上げてしまった。
「うあああ!?
ちょっと…!!
何をするッ!!」
娼婦たちに担ぎ上げられ、世間知らずのグレアは、路地裏に引き込まれた。
騒ぎ出す者は誰もおらず、通りはいつまでも変わらない様子であった。
グレアは、女たちに担がれ、娼館に連れ去られた。
シャディザールは、四角い平屋根の家が並ぶ。
丁度、砂漠地帯の集落のような感じだ。
2万年前の建築様式といっても市街地の風景は、見慣れたものだ。
まだ絵本や昔話に出てくるような感じで収まっている。
しかし街の中心のアグー神殿は、数万年前の建築様式で作られている。
無数の尖塔が屹立し、怪物の像で飾られたグロテスクな巨大建造物。
これは、太古の魔法使いたちが建設したという。
「………。」
グレアは、窓から見えるアグー神殿から部屋に目線を移す。
そして連れ込まれた部屋を見渡した。
脚付きの鉄皿に炎が燃えている。
天井から鎖で吊り下げられたランプもだ。
ここには、電灯もガス灯もない。
ランプや蝋燭が照明の主たる地位を占有している。
「つまらない事は、言い出さないことだよ、あんた。
気前よくベッドに上がって私と寝ておくれや。」
タニスは、そういってベッドからグレアを招いた。
「はあ…。」
グレアは、意外にも素直にベッドに歩み寄る。
そして寝床に上がるとタニスを、じっと見つめる。
「あは、あは、あは。
なんだ。
意外だねえ。
急に、素直に………。」
「…獣の噂に着いて話してくれ。」
グレアの青い瞳が黄金色に妖しく煌めいた。
これは、狩人の中でも竜心院にのみ授けられる秘術である。
一種の催眠術。
瞳術と呼ばれる瞳を触媒とした魔法のようなモノだ。
術は、強力なもので、さほど手間はかからない。
やがてグレアの言葉にタニスが返答する。
「…獣…。
ああ、そうさね。」
タニスは、右手の指に髪を絡ませながら、ぼーっとした表情で話し始める。
暗示による会話が始まった験だ。
「ありゃ、他所から入って来たんだね…。
…何人か、神官が食われちまってね…。
あの馬鹿さ。
大神官が蒼天院に依頼したのさ…。
ざまあない。」
ここまでは、グレアも知っている。
シャディザールの大神官が騎士団に獣の報を送った。
そして…。
「あいつら、獣に殺されちまったのか。
死体になって出て来たよ。
あは、あは、あは…。」
これも手紙で知っている。
グレアは一応、タニスに念を押す。
「蒼天院の狩人は、本当に獣に狩られたのか?」
「…蒼天院って元警官や軍人崩れだろ?
この街で正義面して歩いてりゃ。
そりゃあ獣よりも先に人間にぶっ殺されちまうっての。」
タニスは、催眠状態にも関わらず嬉しそうに口の端を曲げた。
どうやら蒼天院は、この街で歓迎されなかったらしい。
「まあ、そんな事情でよ。
獣に殺されたのか。
どっかの組織に始末されたのか。
あは、あは、あは、あは…。
…わかりゃしない。
…けど、獣を狩って貰わないと。
みーんな、怖いからね。
何せ、死ぬのが怖くてアグー神に縋ってんだ、私たちは。
どんな神様も怖かない。
罪も罰も天国も地獄も。
誰を傷つけても平気さね。
だから、殺されるのは勘弁だよ。」
とタニスは、話す。
グレアは、また質問する。
「狙われるのは、神官だけか?」
「………。」
タニスは、答えない。
未熟なグレアの術が弱いのか。
タニスがこの件に関しては、話そうとしないのか。
あるいは、その両方だろう。
「………知らないね。
私らは、身体でアグー神に仕える身さ。
物を考える材料なんか貰えないじゃないか。」
「他に聞いたことは?
最近の出来事で…。」
グレアは、より強い暗示をかける。
するとタニスも首を傾げ、虚ろな目が頻りに泳ぎ始めた。
「…え。
ええっと…。
そうだ。
思い出した…。
…血…。」
「血?
…それは、水銀弾のことか?」
グレアは、タニスの手を握って問いかけた。
タニスは、身体を震わせながら応える。
その様子は、命に支障が出ないか危険に思う程だった。
「す、す、す、水銀弾…?
そ、そ、そう言うのかい?
血が、どうのこうのって…。
狩人が話してたって…。
あいつらと遊んだ娼婦が、あ、が話してたっけ…。
いや、連中も、ももも…誰かから噂を聞いただけかも知れないし。
…嘘かも、わ、わ、わからないけど…。」
水銀弾が通用しない?
しかし、あまり有力な情報とは言えない。
蒼天院は、元兵士や元警官から構成されている。
彼らは、銃器の扱いに長けている。
それもあってか「獣狩りの銃」を右手で構える。
通常、狩人は、「仕掛け武器」を右手に構える。
故に銃は、左で扱うことを前提に作成、調整されている。
伝統的にこれが獣にもっとも有効な戦闘技術だと教えられているからだ。
水銀弾は、悍ましい仕掛け武器と同じく狩人の血生臭い伝統が生み落とした狩り道具の一つだ。
水銀弾は、狩人自身の新鮮な血液を弾頭に混ぜて使用する。
狩人の血質は、一般人より厳選されたもので、これが獣に対する威力を作り出す。
当然、狩人の中には、強力な血質を持っている者もいる。
すなわち、その逆もまた然り。
蒼天院の狩人は、血質に優れない狩人が多い。
右手による正確な射撃に拘るも、これが一因だろう。
血質に期待できない以上、急所を狙うことでカバーするしかない。
「………血。
蒼天院の狩人たちの会話か。」
グレアは、右手で自分の頬を軽く摘まんで考え込んだ。
「獣は、どこに居るのか、分かるかい?」
そうグレアが訊ねるとタニスは、普通の状態で返事する。
催眠状態を解かれたようだ。
「分かるかって?
あは、あは、あは、あは。
そんなの、誰でも知ってるさ。
竜心院は、逃げ隠れするような獣は、相手にしないんだろ。」
タニスは、そう言うと豊満な胸を揺らし、グレアに抱き着いた。
「さあ。
獣に食い殺される前に景気づけをしようじゃないか。」