カルヴェノ伯爵家の惣領
獣。
全身が毛でおおわれ、四本足で歩行する動物。
特に哺乳類のみを指す語。
その語源は、「毛だもの」と考えられている。
あるいは、人間性の欠如した人を獣と卑しみ、嘲り、罵って呼ぶ。
しかしここでいう「獣」とは、額面通りの意味ではない。
それは、太古からあった現象だったのか。
人狼を代表とする獣憑きと呼ばれる変身譚。
あるいは、人間と動物の特徴を共に持つ存在、獣人。
時に神として、時に悪魔として、時に呪いを受けた人の伝承。
獣化は、歴史の霧の向こうから永く語り継がれている。
それは、より強い生命への憧れ、信仰、空想の産物か。
単なる見間違い、あるいは絶滅した未知の生物だったのか。
精神病患者だという意見もある。
古代人は、何らかの危険を伝えたかったのか。
それは、神話学、精神医学、文化人類学に数々の疑問を投げた。
しかし今日この場で、その答えを求めはしない。
人が人間性を失い、獣と化す現象が人々に認知されることになったからだ。
───つまりここでいう「獣」とは、元は人間だった存在を指す。
獣は、いうほど動物的ではない。
それでも彼らは、獣と呼ばれた。
かつて人であったことを否定するために。
獣は、元の人間に戻ることはないのだ。
故に獣人でも人狼でも獣憑きでもない。
獣と呼んだ。
躊躇いなく、葬るために。
長く記録されることなく密かに葬られてきたのであろう。
しかし時代が変わり、獣は多くの目に触れるようになった。
より多くの口によって語られ、より多くの手で記録される。
こうして獣は、人々に認知されるようになったのである。
伝承ではなく事実として。
グレアスタン・セドヴィーク・ド・カルヴェルノ。
カルヴェルノ伯爵家の三男。
優しそうな淡い青の瞳に、薄い色の金髪をしている。
おおよそ人を怒鳴るとか、そういった面のない男。
だが、口さがない者に言わせれば頼り無く映るといわれた。
カルヴェルノ家は、貴族である。
それほど古くないが、名誉ある家系だ。
初代は、アグネヴァ下王オドントーニオ2世の庶子クウェドリック。
彼と世継ぎたる男子なきルーミニ家のグイドガルデが結婚。
祖業の領地を与えられた。
600年近い祖先だが、このグイドガルデとグレアスタンは、よく似ている。
特に瞳の色、顔の形がだ。
しかし一族は、ほとんどが悲壮な死を遂げている。
特にグレアスタンの家族は、この10年で皆、世を去った。
まず父のシヨルドアは、黄壊病でロンウェー精神病院に入院。
毎日、病室の壁と床に奇妙な文字を書き続け、衰弱死した。
次に母ミルダーユは、自分で目玉を抉り出して憤死。
夫の後を追ったという噂だが事実は違う。
シヨルドアが死ぬ半年以上、前から奇怪な行動を起こしている。
祖父リドフリーは、家族と別れて寝室に入りったのが最後。
翌日には、一晩でミイラのように干乾びていた。
祖父の死後、家督相続に当たってグレアスタンには、二人の兄がいた。
まず長男ヴィアバードは、妻エミリアと彼女の父ギルノートに惨殺される。
その二人も館に火を放って彼の後を追った。
次男フラスアンも発狂して死んだ。
兄に代わってカルヴェルノ伯を継いで72日後のことだ。
地下食料貯蔵庫で腐ったジャガイモを握りしめていたという。
となれば伯爵の継承は、残る三男グレアスタンにお鉢が回ってくる。
気弱な青年は、己の運命を呪った。
「ああ、どうして僕にこんな役目が…。」
グレアスタンは、自分の髪を両手で掴んだ。
柔らかな髪が千切れそうだ。
恐怖で震えが止まらない。
「グレア様。」
同い年ぐらいの召し使いが青くなったグレアを気遣った。
「これもカルヴェルノ家の伝統。
…矜持を持って家督をお継ぎください。」
「そ、そんなこと…。」
カルヴェルノ家は、それほどの大きな家ではない。
しかし名誉ある役目があった。
初代クウェドリックから竜心院に所属する獣狩りの狩人であったのだ。
竜心院は、狩人の騎士団の中でもエリートを自負していた。
獣化の現象は、世間に知れ渡る以前からあった。
古くは、ただのおとぎ話として。
しかし密かに獣を狩る者たちがあった。
竜心院は、その数ある獣狩りを担う秘密結社のひとつであった。
貴族であり、また歴史ある狩人である彼らは、騎士団の他の支部と一線を画す。
自分たちの事を、そう考えていた。
「嫌だッ!
僕は、まだ死にたくないよッ!!」
頭を抱えてグレアは、部屋を走り回る。
忠実な召し使いは、懸命に主を抱き留めた。
「お平らに…!
どうか、どうか、お平らに願います…!!」
召し使いに宥められたグレアは、諦めたように大人しくなった。
そしてテーブルの上の手紙を手に取った。
「うう………。」
封蝋が捺されており、そこにドラゴンの紋章がある。
これが竜心院から郵送されたものであることを証していた。
「こ、これを開ければ、後戻りはできぬのだぞ…っ?」
グレアは、手紙をテーブルに戻して泣き出しそうな声で言った。
「ヴィアバード兄様やフラスアン兄様は、これのために死んだのだッ。
いや、父上も御爺様も…!
みな、苦しみながら世にも恐ろしい死に方をしていった!!」
召し使いを突き飛ばし、グレアは半狂乱で天井に向かって大声を上げる。
それを見る召し使いは勿論、邸中の誰もがグレアの絶望の声を聞いた。
「僕も、いっそここで…!
今すぐにおかしくなってしまいたいッ!!
うわあ…あああッ。」
グレアは、涙を流し、頭を掻き毟った。
狂ったように身体を捩り、部屋をグルグルと歩き回った。
まるで悲劇舞台の役者のように芝居じみた物言いだ。
正直、彼に好意的でもなければ付き合い切れないだろう。
その意味から言って召し使いは、よく付き合った。
「ああ、グレア様…。」
召し使いは、涙ぐんで話す。
幼い頃から一緒だった召し使いである。
それに身分を越えて優しく接してくれた主だ。
「なんと、不幸なお方…。
ですが、ここで引き下がれば、一生、嘲笑われましょう!
名誉を失い、お身体を壊されれば我が主に残される物は、何もございません!
むごい話ですが…。
この封を切って、祖業をお継ぎになられたなら名誉だけは…!!
せめて我が主の名誉だけは…!!」
それを聞いていたグレアも胸を大きく上下させて叫ぶ。
「そ、その通りだ、セドリク!
受けねば全てを奪われるのだ…!!
ああ、ああ…!!」
カルヴェルノ一族が暮した古城の中。
二人は、オイオイ泣きながら抱き合った。
忠実な召し使いは、主との別れを惜しむように強く彼を抱き締めた。
「ああ………!
僕は、ここに帰ってくるぞ、セドリク…。」
グレアは、かすれ声でそう言った。
召し使いも涙を拭いて応える。
「はい、我が主………。
どうか、お役目を果たしてお戻りくださいっ!
………その時は、私も生きてはいません………!!!」