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龍の謡の響むるを  作者: 北条槇子
第三章 東宮殿の奥庭
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(九)一夜

 妙だ、と思った。

 何が、と聞かれたらはっきりと答えられないけれど、那梨には拭いきれない違和感があった。

 那梨と朱貴は女官に連れられて、未踏の殿舎に足を踏み入れていた。

 道すがら、左手に立ち並ぶ屋根の上から山々のてっぺんが見え隠れしていた。狭眉の北に連なる緩やかな山並みは青々として、夏の粧いになっている。それを見るに、東の方へ動いたのは確かだが、ここがどこであるかは皆目見当がつかない。

 そのうえ、修養が始まったのは予告どおりだったものの、その内容が不審だった。まずは後宮の官位の説明や相手の立場に応じた礼の仕方の実技に始まり、那梨にも想像のつくことだったのだが、最後に心得として念を押された事柄の真意は図りかねるものがあった。


「前触れなくこの建物の囲いの外へ出てはなりませぬ。まずは見習い女官を通して上級女官にお尋ねください。玉上陛下ぎょくじょうへいか、太子殿下の他には殿方と直接言葉を交わしてはなりません。必ず、女官か見習いを間に立ててお話なさるように。もし畏れ多くも陛下にお呼びかけすることあらば、玉上陛下とお呼びします。朝の仕度を始める前には、見習い女官にご体調をお伝えください。また、月の不浄のものがあった場合には清めを要するためすぐにお申し出ください。それから、夜、床入り後は部屋を出ることは許されません。ここでの夜分では静謐を保ち、勝手には一切声を発しなさいますな。勿論、音をたててもいけません。最後に、宿下りは年に二度限り。以上、お忘れなさいませんよう」


 ――女官がこんなに窮屈なものだとは思わなかった。


 那梨はふかふかの敷物に身を預けてため息をついた。ため息は勝手に発する声の範疇だろうか。そうだったら、寝床に入ってからはため息もつけないことになる。

 朱貴はどう思ったのか聞きたかったが、修養が終わった後、別々の部屋に案内されてからは姿を見かけないまま夜になってしまった。


 ──きっと明日からは舞の修練が始まり、舞子仲間として会える。そのためには早く寝なくては。


 那梨は見事な草模様が彫られた箪笥の扉や刺繍の施された夜具を見回しながら、手元の灯火を消した。生家では幾ら儲けが出ても商人のさが、質は良くても華美なものは置かないが、ここの調度品は贅を凝らしている。

 鼻に嗅ぎ慣れない甘やかな香も、首にしっくりこない柔らかな枕も、一旦意識の外に追いやって、那梨は無理やり瞼を下ろした。


 次に目を開けたのは、「お目覚めくださいませ」という見習い女官の声を耳が捉えたからだった。

 薄っすらとした寝起きの視界に、髪をひっつめて一本のおさげにしているあどけない少女の顔が入る。


「お加減はいかがでしょうか」


 そういえば、朝の仕度の前に体調を報告するのだったと思い出して答える。


「何もおかしいところはないわ」

「それは麗しゅうございます」


 見習い女官は、もったいぶった言い回しをするようだ。楊家の屋敷に仕える家人とは異なる様子に目をしばたたかせていると、他の見習い女官たちに取り囲まれ、桶の水で洗顔を施され、衣を替えられ、髪に櫛をあてられ、あれよあれよという間に化粧まで終わっていた。途中、何回もやめてほしい旨を述べたがすべて黙殺され、さすがの那梨も折れて口を噤まざるを得ない。


「あの……、朱貴に会えないかしら」


 望み薄でも、これは聞いておきたい。那梨の問いに見習い女官は動きを止めてお辞儀した。


「すぐにご面会となるかは分かりかねますが、お伝え申しあげます」


 やっとまともな応答があったので、最初の子以外口を聞けないのではと憂慮していた那梨は安心した。しかも、朝餉が終わってすぐに朱貴の部屋へ案内してもらえたので、彼女たちの手際のよい仕事ぶりにはすっかり感服した。


 朱貴の部屋も那梨と同じような造りになっていた。両開きの戸を入ってすぐに衝立があり、手前には円卓とふたつの椅子、間仕切りを挟んだ奥の間には座敷と寝室がある。

 朱貴は茶器を手に持ったまま、物憂げに肘をついていた。


「おはよう、朱貴。なんだか調子が良くなさそうね。出直すわ」

「そうですわね。あんまり気分は優れませんけど、少しなら大丈夫。せっかくだからお座りになって」


 朱貴の勧めに従い、もう一つの椅子に腰かける。朱貴付きの見習い女官が那梨にもお茶を出してくれたので、一口すする。ほのかな甘さの中に酸味のある味わいは那梨が飲んだことのないもので、鼻孔に抜けるさわやかな香りが朝露の草を揺らす風を思わせた。


「昨晩は良く眠れまして?」

「寝付くまでは時間かかったけど、気づいたら朝までぐっすり寝ていたわ」


 那梨が答えると、朱貴はこちらをじっと観察するように見つめてきた。


「わたし、顔に何かついているかしら」

「いえ。顔色もよく見えるので良かったですわ」


 朱貴が小さなため息をもらす。


「朱貴、あなた、あの雁字搦めの心得にうんざりして元気をなくしているのではない? わたしは、あれに慣れそうにもなくて」


 那梨はさらにお茶を啜ったが、朱貴の茶器は、一旦卓子に置かれてから、そのままだ。


「まあ、那梨は面白いことを言うのね。わたくしたちの立場になれば、これくらいは当たり前のことですのよ。慣れなくてはいけませんわ」


 那梨はそれを聞いて落胆した。どうも今の那梨の悩みを共有できそうにない。


「わたくし、やはり気分が晴れませんの。もうそろそろこの辺りで」

「……そうね、ゆっくり休んだ方がいいわ」


 珍しく若干棘を孕んだ朱貴の言葉に困惑しながらも、那梨は暇を告げた。

 急に自分が取り残されてしまったような不安を覚えるけども、今は消化する術もない。


(思いっきり身体を動かせたら、すっきりするのに……)


 朱貴の憂いも案外そんなことで晴れるかもしれないと思いながら、那梨は自室へ戻った。




 * * *




「これより寝所に参ります。わたくしについてお進みください」


 夕餉を終えて湯浴みも済ませ、あとは寝るだけになったとき突如告げられた言葉に、那梨は首をひねった。今自分がいるここが寝る場所、仰々しい響きではあるが寝所ではないのか。女官は淡々とした口調で告げて、那梨が立ち上がるのを顔を伏せてじっと待っている。当然の任務を果たしている構えの彼女を質すのは気が引けて、那梨は何も言わず従った。

 幾つか渡り廊下を通って辿りついたのは、那梨が今まで見たことのある寝室のどれよりも大きい、たしかに寝所と呼ぶに相応しいところだった。人が四人は並んで寝転べそうな大きなしとねが、一段高くなった台の上に敷かれている。敷布は豪奢な金糸の刺繍で縁取られ、那梨の目にも一級品であることが分かった。

 周りは衝立で囲われ、その陰に濃紺の衣の女官と、萌木色の官服を着た男が数人座っている。その物々しさに那梨は後ずさったが、女官の一人に背中を押され、しとねの上に座るよう指示された。


 ──いよいよおかしい。何かとんでもないことに巻き込まれているのでは。


 那梨は座ったまま、女官の顔を見あげて言い募った。


「わたし、こんなところでなくても、自分の部屋で充分です。帰ります」


「なりませぬ」


 叙命後初めて女官から厳しい声が飛んだ。有無を言わせぬその勢いに、那梨は肩を震わせた。


「夜が明けるまで、この台から下がることは許されません。控えの宦官の手で引き戻されたくなければ、ただ静かにここに居てくださればよいのですよ、那梨さま」


 取り付く島もない。

 女官が大きな灯りを消して立ち去り、四方の小さな灯火のみが頼りなさげに点いている。薄暗闇の中、那梨は一歩も動けずそこに座って居た。宦官に捕まるなど想像するだに恐ろしい。那梨は屋敷にいる者の他、男に触れられたことがない。

 それに、那梨の危惧は別のところにもあった。今日も一瞬たりとも舞を踊っていない。昨日も一昨日も。いや、女官に選ばれてから一度たりだって。

 おかしいわ、と呟いた那梨の声は外にいる女官の張りのある発声に掻き消された。


「お渡りなされます」


 女官がその科白を復唱し、その声は段々と近づいてくる。


 呆気に取られた那梨が、とうとう決定的に自分の置かれている状況を認めざるを得なくなったのは、衝立の向こうから宦官ではない男が姿を現したときだった。


 白い薄衣の上に、金糸どりの刺繍が入った鮮やかな赤の上衣を重ねて長身にまとい、まだ皺のない精悍な顔立ちをしている。それらを見れば、この御方は一昨日、立太子の儀を終えたばかりの太子に違いなかった。

 その面立ちは、今まで会ったどの男とも違う。父の部下や取引相手の商家の子息たちとも違う類のものだ。

 自分が知らず知らず見とれていたことに気づいて、那梨は慌てて顔を伏せた。


「おもてをあげよ」


 那梨は恐る恐る顔をあげた。太子の顔を改めて見ると、鼻筋がすっと通り、慎ましいまつ毛で縁取られた眦の切れ上がったさまが涼やかだ。


「この顔だ。俺が見た龍鈴謡を舞っていたのは」


 祝詞のときに聞いたのと同じ低くて澄んだ声が降ってくる。那梨は問い質したいことが幾つか思い浮かんだが、どれもうまく形容できず口を閉じていることしかできなかった。


「女官になりたがっていただろう」


(それはたしかに、本当にそう思っていたことだ……)


 那梨は内心首肯した。

 たしかに、女官になりたくて仕方なかったのは事実だ。しかし、こんな太子の寝所に侍るなど一切望んだことはない。那梨が望んだのはこんなことのためではない。


「その……」


 そう反論したくて言葉が喉元まで出かかったが、次の言葉が出ない。太子に反駁すると反逆罪になりかねないのではという考えが頭を過り、那梨は下くちびるを噛んだ。


「今夜はお務めご苦労」


 那梨の気を知るや知らずや、そう言いながら、太子が一番上に羽織った赤い衣を丁寧に脱いだので、那梨はくらくらしてきた。首元で合わさった襟から左右に伸びる鎖骨の筋がのぞき、薄い生地は筋肉のついた二の腕の線を浮かびあがらせ、妙な気配を放っている。

 近寄る太子からとっさに逃げようと立ちかけた那梨は、がっしりとした腕で絡めとられ、身動きを封じられた。


「下手に動くと面倒なことになるぞ。お願いだから大人しくしていてくれよ」


 太子の声は、那梨の耳のすぐ近くから聞こえる。顔に血が昇り、あまりの熱さに火でも噴き出しそうだった。


「いや、いやです」


 腕を突っ張り、身を捩りながら必死に声を出すも、喉が掠れて微かにしか響かない。


「待て、何か勘違いしていないか?」


 太子の声色が気づかわしげに変わったのを聞いて、那梨は動きを止めた。


「何も聞いていないのか? これは形だけの儀礼だ」


 太子が那梨の両肩に手を置いて促してくるのに従い、那梨は座りなおした。


「王族付きの女官になった者は、最初主人の寝所に侍る。はるか昔は本当に執り行われたものだったらしいが、今はただの習わし、手続きだ」


 那梨が太子の言葉を咀嚼しながら、声を出していいのか判断が付かず口をぱくぱくさせていると、太子が目くばせした。


「…それでは、これは妃嬪になるというわけでは、ないのですか?」


 姿は見えないが衝立の向こうに今も控えているはずの女官や宦官に届かないよう声をひそめる。

 そういうのではない、という返答に那梨がほっと胸を撫で下ろしていると、太子が問うた。


「妃嬪にならずに済んで安心したか?」


 無礼なことを口走ってしまったと思い顔をあげると、太子は口元をわずかに緩めていた。その笑顔は、精悍というより、いたずらっ子のようだ。

 太子の地位にある御方でも冗談を飛ばすということが意外で、つられて笑うと目が合い、さらに彼は破顔した。

 ──そういえば、立太子の儀の前、舞楽寮の宿舎の前で目が合ったときもこんな表情をしていたかもしれない。


「この衣を持っていろ。これで明日の朝、何事もなく女官になれるから」


 太子はそれだけ言って素早く立ちあがり、嵐が過ぎ去るかのように、足早に衝立の向こうに消えていった。




 * * *




 殿舎の渡殿から飛び降りた永璋は、壁の裏に身を潜めていた影を手振りとともに呼び寄せた。


「行くぞ」


 今し方辞してきた寝所は、普段ならば次の代となる世嗣をもうけることを目した場であって、太子が日頃起臥寝食するところは東宮殿の中の別のところにある。

 しかし、永璋は東宮殿をも抜け出して裏手の通路を縫うように歩いていた。

 その後ろを付いていく飛樟は、頃合いを見て主に声をかけた。


「なあ、どこへ行くんだよ」


「さあな」


 気もそぞろな生返事だ。


「おいおい、夜にあてどなく宮中を彷徨いたくないぞ俺は」


 永璋は黙って歩を進めている。彼は帰国してから時折このようにむくれた態度を見せるので、その度に飛樟は揶揄ってやることにしている。


「にしてもさっきは、契りの振りをする儀式って話の割に、随分とお近づきだったな。あの娘、そんなにお気に召したのか?」


 儀式の前に老宦官が説明した手順では羽織りの衣を授けるだけの筈だったのに、永璋が儀式を済ませて出てくるまで想定よりも随分待たされた。


「覗き見とは趣味が悪い」


 永璋が振り向いて顰め面をさらした。


「隙を突かれないように『目と耳』を忍ばしておけと俺に命じたのはどちら様だっけか」


「聴き耳立てて監視しろとまでは言ってないだろ」


 永璋はくるりと前を向き、肩をいからせて歩いていく。飛樟はおやっと片眉を持ち上げた。主がむきになっているところを見るにどうやら図星のようで、続けようとした軽口が引っ込んだ。

 炎国での寄留先では、時の皇帝から代わる代わる送り込まれた美姫を適当にあしらっていたのを見てきた。こと、女人に関しては打算的に処してきたところのある主だ。永璋と飛樟とは今まで鳥の両翼のように一蓮托生で過ごしてきたが、ついにそのときが──飛樟としては前々から身構えていたことが起きたのか。


「……悪かったな、直接見たり一言一句聞き耳立てたりってわけじゃねぇから、許せ」


 引き離された距離を駆け寄って追いつき、永璋の肩に手を置こうと伸ばしたら、彼は突然一つの門の前に立ち止まった。表書きは宮内部(くないぶ)──宮中人事、諸儀式を所管する組織だ。人影がないのを確かめ、門を潜って進んだ先は宮内部の書物庫だった。


「なんだよ、目的地があったんじゃねぇか」


「まあな」


 永璋は手前の棚から紐で綴じた一冊を人差し指で引き抜き、ぱらぱらと開いた。新しい墨の匂いが立つ。捲る手を止め、ざらりとした紙面を指でなぞる。


「母上の手のひらで踊るにしてもこのまんまじゃ芸がない」


 小声で漏らした永璋は書物をぱたりと閉じて棚に戻した。


「もう用は済んだのか」


「ああ。行くぞ」


 またもや行き先を告げず踵を返して歩き出す主を飛樟は追いかける。仮に言葉足らずなこの男に春が来たのだとしても、自分があれこれ世話を焼くことになるかもしれない。そう思い至った飛樟は内心ため息をついて返事した。


「へいへい、ついていきますよ、君の仰せのままに」

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