(七)御簾の裏
盃を干しても喉の渇きは癒されない。長い口上の後である。この国で造られる酒はおしなべて甘く、炎国の辛い酒に慣れた舌は余計に口の乾きを覚えた。
永璋は、濃紺の上衣を着た女官に清水を持ってくるよう申しつけた。といっても、彼女手ずから汲んだ水を持ってくるのではない。高官である彼女が、お付きの女官に申しつけ、その女官が見習い女官に申しつけ、見習い女官が婢女と呼ばれる官婢に申しつけて汲まれてくる。後宮とは、このようにして迂遠に成り立っている。
今、舞台に昇ってきた四人の舞子もまた、後宮という世界に片足を突っ込んだ女たちだ。永璋は特段の感慨もなく彼女らを見下ろしていた。正直なところ、先程の祝詞が長すぎたせいで疲れが一気に押し寄せており、後のことはどうでもよいような投げやりな気持ちになっている。しかし、それを抜きにしても永璋が神経を消耗してしまう原因は、隣で豪奢な椅子に凭れかかっている女に負うところが大きい。
その女は永璋の母、すなわち王妃なのだが、永璋が祝詞を終えて席に戻ってから盃を仰ぐこと三度を数え、よほど機嫌が良いように見受けられた。無理もない。子が太子になるとはつまり、国母の座に極めて近づいたことになるからだ。
永璋は立太子からの逃避がまかり通るとは思っていなかった。将来の一国を背負うことになる世継ぎの座は重い。単に自分が従順でないことを母親に示しておこうと考えて抵抗してみせたに過ぎない。嬰明王女派の妨害を躱して、立太子の儀まで漕ぎ着けた母の女傑ぶりには、永璋も敬意を惜しまないところだった。
「永璋、立派な祝詞であった。母はそなたの一挙一動に、震えを感じるほど誇らしゅうて」
王妃はもう一杯仰いだ。そんなに酒精に強かった記憶はないが、呂律はしっかりしているところを見ると、思ったより酔いは回っていないようだ。
「母上は、大変ご機嫌麗しくお見受けします」
「そなたは不満だと言いたいのであろう。まあ、よい。それは母も承知のこと。大事なことはそなたが太子であるという事実なのだから」
王妃は小首を傾げて自分の息子を検分するように回し見ている。
「そういえば、今、舞っている四人のうち、召しあげる者を選んでおいてある。そなたも名と顔を知っているであろう、礼朱貴。それと、もう一人は景春陽。いずれも胆力あるおなごで東宮の周りを固めるのに申し分ない」
その言葉に、永璋はちらりと舞台を見た。ちょうど四人の舞子が、細長い帯をたなびかせて四方に散らばるところだった。
「母上の──」
お望みに適うままに、と答えようとしたとき、ふと半月ほど前の記憶が去来した。西宮の広場で龍鈴謡の調べに舞う少女の姿と、闇夜に侍女と密会して女官になることを切望していた少女の姿。あの娘は、今しも舞台で舞っているのではないか。
さっきは一目くれただけだったが、今度はしっかり四人を見据える。彼女らは笛と太鼓の音に合わせてくるくると円を描いているが、どの舞子があの娘か遠目にはすぐに見分けられなかった。しかし、あの龍鈴謡を見せてくれた少女の願いを叶えてやりたいという気持ちがむくむくと膨らんでくる。
吟味するよりも前に永璋の口から言葉が滑り出た。
「私からも、推挙したい者がいます」
王妃は呑みかけの酒を手にしたまま目を眇め、値踏みするように眺めてくる。永璋は昔からこの視線が苦手で、耐えきれずに顔を背けていたものだった。
けれども、今宵、先に目線を逸らしたのは王妃の方だった。緩慢な仕草で酒を口に流し込む。呑み下す白い喉元に微かな齢の徴しが刻まれているのが見て取れた。そういえばいつからだろう、母親が朗らかな笑みを見せなくなったのは。
「そなたがいまだかつて、この母にそのような申し出をしたことがあっただろうか。もう、そなたも幼き頃とは違う。母もそれは認めよう」
王妃は、控えている女官に向かってひらひらと手を振り酒を持ってくるよう合図した。
「して、どちらの娘か」
舞台では、一人の舞子が一段高い櫓へ登って、一際複雑な動きを見せ始めたところだった。その姿を目の端に捉えたとき、永璋は背中が粟立つのを感じた。あの舞子が、あのとき見た娘に違いない。おもむろに腕を持ち上げ、人差し指で指し示す。指に嵌めた金の指環が篝火の揺らめきを受け、示し合わせたように煌めいた。
「あの娘を」
「……たしかにあの娘は只者ではなかろう」
王妃は独言ちて舞台の方を見ながらしばし考えるそぶりをしていたが、伏せた目からは何も窺えなかった。
「よろしい」
永璋に向き直って、王妃は高らかに述べた。
「その娘にするがよい。選んだからには目をかけ、よく仕えさせるのだぞ」
ここ数日の息子の振る舞いを見ての母なりの譲歩らしい、と永璋は思った。これは中々感触がいい。永璋は平静を装いながらも勢いをつけて申し出た。
「ご寛容痛み入ります。ついては、あの礼家の娘と入れ替えても宜しいですか」
「それはならぬ」王妃の声調に険しさが舞い戻った。
「景春陽と替えるのであれば許そう。しかし、礼家の娘は父親の命に背き、その覚悟を証しようと、生まれてこの方自ら衣も整えたこともないだろうに、宮仕えもしてみせたのだぞえ。召しておきなさい。宗右相の家に嫁がれても面倒だ」
王妃は、政事の感性に長けている。永璋は、凡そ一年、炎国の統治を傍で見てきたから、以前よりもそう思える。それだけの能力を持ち合わせながら、遠縁の傍系王族に生まれついたのが不運だった。そんな身の上を呪う母の生きがいは、もはや自らの分身の王位継承だけになっている。永璋は重苦しい溜め息が出そうになるのを押し殺した。
「解せぬところもありますが、母上のお考えは分かりました」
「不服そうじゃな」と王妃は、顎をあげて盃を仰いだ。
「そなたは我儘だ。何かにつけ理屈に拘って、甘えがすぎる」
非難がましく愚痴を吐いた王妃が器を取り落とした。波線模様の入った青磁が、唐草模様のきめ細やかな絹地の上をするする滑り落ちるのを、永璋はとっさに手を出して受け止めた。幸い、舞を邪魔する音は立てずに済んで胸を撫で下ろす。
「御酒が過ぎたのではありませんか。そろそろ北宮に下がられた方が宜しいのでは」
眉間にしわを寄せて額に手をあてる王妃の腕を取って促すと彼女は案外素直に立ち上がった。控えの女官二人が素早く寄ってきて、王妃を抱えて高見の席から連れ出して行く。その気配がなくなるまで見送った永璋は、すれ違い様に入ってきた別の女官から水で満たされた瑠璃の坏を受け取り、自席に戻った。
父王はとうに側近を連れて中座している。誰の視線も憚ることなく姿勢を崩し、頬杖をついて舞台を見下ろす。
(目をかけ、仕えさせる……)
母親の口にした言葉を確かめるように太子は反芻した。王妃は、この娘にどこか利用価値を見出しているのだろう。含みのある言い回しからして、自分は母の手のひらで転がされたように思わなくもないが、嫌な気はしない。
手元の坏を掲げる。金鍍金の台にのる瑞々しい瑠璃色の器は、晴れの日のために宝物庫から持ち出すことを父君が許した物に違いない。口に寄せて一気に水を流し込むと涼やかな喉越しが心地よく、みるみる渇きが癒されていく。
太鼓と笛の音が競うように速度を上げ、佳境に差しかかったようだ。
手前に進み出て一人になって舞う少女の姿は先ほどよりも仔細に見て取れた。 涙を浮かべているのか、うるんだ瞳が篝火を受けて金にも貴石にも引けを取らない輝きを発している。火の色か血の色か分からないほど高揚した頬。くちびるは開け放たれている。と思ったら凄まじい形相に豹変して、目はどこかを睨めつけ、歯をこれでもかと食い縛っている。かと思えば再び恍惚とした表情が現れる。
──この御簾を取っ払えたらいいのに。
そう思いながら永璋の視線は彼女を最後まで追いかけていた。




