(六)舞台の上
どこか近くでそよめく衣ずれの音を聞きながら、那梨は目を覚ました。
掛布から腕を出してみても柔らかく差し込むはずの陽光を感じられず、慌てて飛び起きる。隣で帯を締めている朱貴が目を見張ったのにも構わず、戸を開けて息を呑んだ。
「曇りだわ」
美璃が薬を携えておとなってきた晩から幾夜かを繰り返し、いよいよ今夜が本番だというのに、天候は芳しくない具合と悟り、那梨はため息をもらした。
「あらあら、そんなに気を落とすだなんて、女官を志す者の鑑ですわね」
衣服を整え終え、鏡台の前に座って化粧に取り掛かりながら朱貴がからかってきた。
「朱貴ったら!」
「冗談ですわ。女官選抜を抜きにしても、あなたがこの日の舞をどんなに良いものにしたいと望んでいるか、この半月で痛いほど感じましたもの」
きゅっと締まったくちびるから発せられた言葉に、那梨はこそばゆくなった。挙措を違えないことのみならず、澄んで冴えわたり、それでいて心揺さぶられる舞を目指すこと。今まで、親にも同胞にも理解してもらえなかったことを――この点については里宇も例外ではなかった――目の前の少女は難なく理解してくれる。そんな稀有な共鳴に、那梨は日々の修練の中で度々嬉しさを噛み締めていた。
朱貴は目を細めると、首元に粉をはたく作業に立ち戻った。なんでも卒なくこなせそうなこの少女は、意外にも朝の着替えや化粧には得手ではないとみえ、那梨と同じ時間に起床しても仕上がる時間はだいぶ遅れを取る。そんな不器用な一面にも勝手に親しみを感じるのだが、口に出したら朱貴は拗ねてしまいそうで、心にそっと仕舞うことにしている。
「それにしても、急に起きあがったのは寝過ごしたことに気づいたからだと思ったのに。今日はわたくしの方が早く仕度を済ませられそうですわね、お寝坊さん」
背中越しに告げられた言葉に、那梨は背筋を伸ばして耳を澄ませた。日差しがないせいで分かりにくいが、外の騒がしさからいっていつもより遅い時間のようだった。
「もう! それを早く言ってよ」
鏡を見れば、くるまった掛布から、あちこち跳ねた髪で膨らんだ頭を出す滑稽な自分が映っている。
「それと、これから夕方にかけて晴れてくるそうよ。風の具合がそうだと春陽が言っていたわ。彼女は何でも大抵のことは詳しいのよ」
「そうなの?」
朱貴の告げた吉報に気を取り直して、那梨は素早く寝具を畳む作業に取りかかった。汲んできた水で顔を洗い、着替えて髪を梳き、房をつくって紐でくくる。化粧の仕上げに細筆でくちびるに紅を指し終えたとき、それまでじっと那梨の動きを見ていた朱貴が口を開いた。
「あなたは見過ごせない不思議な力を持っていますわね」
「なあにそれ? 占いか何か?」
「あら、自分の魅力に自覚がないんですの」
朱貴は軽い調子で言い、那梨を見つめて微笑んでくる。選抜試験の日から思っていることだが、朱貴のほうがよっぽど魅力的な容貌と立ち居振る舞いを兼ね備えている。那梨は首を傾げた。
「朱貴は人をからかうのが好きね」
「あら、本気ですわよ。つまるところ、あなたを見ていると、わたくしもつられて今夜の舞を最高のものにしたくなってしまうということですわ」
「そういうことなら褒め言葉として受け取っておこうかしら」
那梨は朱貴の手を取って立ちあがらせた。本番の前に最後の稽古がある。
「寝坊しておいてこんなこと言う資格はないけど、遅刻したら美璃姉さまの雷が落ちそう」
「それは何としても回避しなくては。急いで参りましょう」
* * *
景春陽の予言は当たったといって差し支えなかった。
午の間ちらちらとしか顔を見せなかった太陽はその身を太らせながら空を朱く染め、さながら熟れた山桃が地に落ちるかのように性急に山際に吸い込まれようとしており、頭上では雲が去った後の薄暗い天に星が瞬き始めている。
針子らが細心の注意を払って縫いあげた薄衣の衣裳は、初夏の宵の冷えには心許ない仕立てだが、興奮し切っている那梨は平気だった。手と足の末端まで血が廻って、ぴりぴりと痛いくらいだ。
両脇に立つ柱の間から伸びる階の先は篝火に囲まれた高殿に繋がっており、朝に総ざらいの稽古をした舞台が設えてある。神官によって浄められた後、午には国王が第一王子に太子の冠を授ける儀式が執り行われた。
先刻からは、開宴を前に、太子となった永璋王子が神々に豊穣と無災を希う祝詞を奉納しているところだ。低く澄んだ声が、いにしえの言葉を唱え始めてから随分と時が経っている。那梨の出番がもうあと少しのところまで迫っていた。
じっと待っているだけなのに、胸が詰まったように苦しい。うまいこと息を吸えずにもがいていたら、耳元で朱貴が囁いた。
「吸うのではなく、まずは吐いてみて」
無理矢理にでも短く何度か吐いてしまうと、たしかに空気が押し寄せるように肺に入ってくる。
「いよいよ本番ですわ」
朱貴の言葉にこくりと頷いた那梨を、隣に立つ景春陽が一瞥してそっぽを向いた。彼女は決まって我関せずの態度を取る。今も誰とも目を合わせず地面を凝視している。それを見てとった朱貴が春陽へ視線を移した。
「春陽も一緒にわたくしたちの舞の行く末を見届けましょう。もちろん、蘭華もよ。一人でも欠けたら天継の四人舞は成り立ちませんもの」
朱貴を可愛らしくも利発に見せる口元が、笑みを形づくる。彼女の笑顔に呼応して蘭華が頷き、春陽も目線を上げたとき、一際大きな鐘の音が鳴り響いた。
見習い女官が手振りで那梨たちに合図を送ってくる。ゆっくりと繰り返し鳴らされる鉦鼓の音に促され、連日厳しくも熱心に指導してくれた美璃や指導係一同に見送られながら、四人は横一列に並んで階を昇り始めた。
左右に居並ぶ高官らの間を進みつつ、那梨は前方奥の露台に垂れる御簾をまっすぐ見据えていた。あの御簾の向こうには今上陛下がおわし、すぐ傍には王妃陛下と太子殿下がいらっしゃる。もし、どなたかがわたしを気に入って取り立ててくださったら。そうしたら、この宮で永く女官として舞に専念できる。
いつの間にか、足は最後の段を踏んでいた。最初に舞台に立つ四人は御簾に向かって最高礼──跪礼叩頭をしてから、舞台の四方の隅に散らばった。
宮の前庭を見晴らせる位置についた那梨は、眼前に広がった光景に、さっきまで女官登用のことを考えていたことなど吹き飛んでしまった。
見渡す限りの人、人、人――。
この都城に、儀式に立ち会うことを許される者だけでこれだけの民が暮らしているのかと、己の目を疑うほどの人で埋め尽くされている。広場の中だけでなく、幾つもの物見櫓の上もごった返しているのが見える。前庭の最前を賜った一握りの民でさえ遠目に見るのが精一杯だろうに、数えきれない人々は皆、那梨たちの舞を少しでも捉えようと首を伸ばし伸ばしこちらを向いている。
ああ、と心の中で息をつく。
──あの中に、小さいわたしが居る。
急にそんな気がしてきた。
期待に胸をふくらませた小さいあの子が心踊らせて、食い入るようにこちらを見ている。あのときのわたしのためにこそ、今夜この舞を踊るのだ。
そう腑に落ちたとき、演舞の始まりを告げる二連の大太鼓が鳴った。




