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龍の謡の響むるを  作者: 北条槇子
第二章 天継の舞
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(五)鼓動

 滑るように広場を離れ、宿舎の前に来るまで無言だった朱貴は、やっと手を放してくれた。彼女の冷んやりとした指先が離れていく。


「実は、前触れに来たお付きの女官の裳裾がちらりと見えました。王妃陛下がいらっしゃるので、お迎えするために姉さま方が呼ばれたのですわ」


「……裳裾だけで、よく分かったわね?」


「ええ。太子殿下の御生母でいらっしゃるもの。この場に来るなら仕える女官のことまで知っておいて損はありませんわ」


 先ほどの蘭華への話振りからも明らかだったが、やはり朱貴も女官を目指しているのだ。


「舞だけじゃなく、色々と準備がいいのね」


「この度の女官登用では、舞ができることは当然ですもの」


 朱貴の全身から自信が溢れ出ている。あまり正面切って戦いたくない女の子だ。朱貴に次いで、二番手でもいいから選ばれたい、という気持ちになってくる。


「わたしも、女官になったら新しい舞の技術を磨いて追いつきたいわ」


「──那梨、あなたって人は」


 朱貴はそう言うと目を見開いたまま那梨をじっと見てきた。茶目っ気を含んだ薄灰色の瞳が、窓から差し込む陽の光を受けて揺らめている。


「なあに?」


 見返し続けているのが小っ恥ずかしくなって聞き返したら、朱貴はふるふると首を左右に小さく振った。


「いえ、何でもありませんわ。あなたの一途さに感心してましたの。──さて、わたくしは用があるのでそろそろお暇します」


「えっ、宿舎にいなさいって言われたわよね?」


「あら、一旦戻ってという指示はされましたけど、自学の場所に関しては指示されなかったですわよ」


 さらりと屁理屈を言いのける朱貴に、那梨は内心開いた口が塞がらない。


「でも、持ち場の舞楽寮を離れたら叱られるのではない?」


「わたくしの居所を尋ねられたら、秘密の特訓、とでも言っておいてくださる?」


 にっこりと笑みを残して、朱貴は広場を出たときと同じように滑るように歩き出す。


 やはり大胆な女の子だ──。那梨がため息をひとつ落とした矢先、朱貴がびくりと肩を震わせ、歩みを止めて壁際に背中を寄せて俯いた。


 朱貴が向かっていた先の殿舎の隙間から、頭を下げて歩く美璃の横顔が通り過ぎ、一目で高貴と知れる極彩色に身を包んだ女性が続いた。しかし、それよりも異彩を放っていたのはその次だった。

 西宮では滅多にお目にかかれない袍を纏う男が姿を現したとき、朱貴の横顔が強張った。

 その男が、後ろに付き従う男の方へ振り向いた拍子、那梨は気付かれたと思った。彼からは逆光で、こちらが誰かまでは悟られてはいまいだろうが、細めた目は眩しさ故だけでなく、笑いかけてくるものだった。

 さっき朱貴が言ったとおり、美璃の先導する女性が王妃陛下であれば、その後ろを歩く年若の男性は太子殿下に違いない。

 そう思ったとき、那梨の心臓は高鳴った。


 ──わたし、この方へ奉祝するのだわ。


 立太子の儀式は第一王子殿下のために舞うもので、そのために毎日修行をしているのだと、頭では分かっていた。けれども、今しがた破顔を見せた御方を祝う場であると意識した途端、今までとは違う気持ちが湧いてくるのが不思議だった。


 ──この方に喜んでもらえたらいいな。

 その先に、女官登用をしてもらえたら、もっといい。




 * * *




 その晩、朱貴は夕餉の刻になってしれっと現れた。

 午に何をしていたのか相部屋の那梨にも告げないまま、夜の身支度を済ませ、消灯を待つ今も隣の褥の上で静かに髪を梳っている。

 気にはなるけれど、朱貴が言い出さないことを詮索するのは気が引ける。おやすみの挨拶をして早めに寝てしまおうかと身を乗り出したとき、突如部屋の戸を叩く音がしたので、那梨と朱貴は顔を見合わせた。


 戸を開けたのは、寝間着姿の美璃だった。手元の灯火に照らされて、薄手の襟合わせに隠れた胸元が浮かび上がっている。


「姉さま?」


「こんばんは、那梨」


 用があるのは那梨だけのようで、美璃は一礼をする朱貴をちらりと見遣ってから、那梨の足元に座った。


「お膝を見せてごらんなさい」


 と言って、問答無用に裾をたくし上げてくる。


「痛っ」


 美璃に触られて声が出てしまう。今朝、舞の修練の最中、地面に膝をついたとき小石を巻き込んで傷になってしまったところだ。


「やっぱり、怪我してたわね」


 美璃は、懐から布袋を取り出した。包まれていたのは小さな陶器の壺で、中身をくすり指にとって那梨の膝小僧にそっとあてがった。

 湿った練り薬の感触とともに、傷口に走ったぴりりとした刺激に思わず身震いすると、美璃は含み笑いをした。


「これ、染みるのよね。ごめんなさい。でも、よく効くから」


 若干しかめ面になりながら頷くと、美璃はますます笑みを深めながら、那梨の手を取った。


「今日は練習が途中で終わってしまって、申し訳なかったわね」


「いえ、そんな、大事な急用ができたのだとお聞きしました」


 ふと、美璃は那梨の手を持ち上げ、甲に口付けした。

 驚いた那梨は手を引っ込めたが、美璃は離さない。


「私は何者にも縛られないわ」


 唐突な美璃の宣言に那梨は困惑した。


「私はね、舞の神様と結婚しているつもりでいるの」


 話の方向が見えず、那梨は曖昧に首を傾げた。助け舟を求めて横目で朱貴を見たら、彼女は既に掛布を被って寝始めている。


 仕方なく、重なった美璃の手に視線を落とす。ふっくらとした手のひらに包まれた己の皮膚が少し汗ばんでいる。彼女の指先が那梨のくすり指の筋をつつとなぞった。ぞくりとしたのは、夜冷えのせいだけではない。


「だからあなたが好きよ」


 だから、の意味をはかりかねる。

 これは、市井で小耳に挟んだ女の園の習わしなのだろうか。唯ひとりの王に仕える女は、同じ境遇の女と身も心も慰め合うという。

 後ろ背に朋輩が寝息を立てる中、灯火の揺れる褥の上で、まだ知らぬ艶めいた誘いを受けているのだろうか。

 けれども、先ほどの好きという響きはやけに朗らかに耳に残っている。その言葉そのものには何の含みも感じ取れないほどに。

 那梨は手を引っ込めるのも気後れして、目線をさまよわせた。


「あなたの天継の舞、楽しみだわ」


 続いた美璃の言葉に、那梨は胸を撫で下ろした。

 美璃が那梨の舞を気に入ってくれてるのなら、それは素敵なことだ。


 那梨が頷き返すと、美璃は那梨の背中に下ろした髪をやおら一撫でして立ち上がり、軽く両手を打ち鳴らした。


「さて、もう本番まで日がないわ。明日からはさらに厳しくするから、早く休みなさいね」


 美璃が出て行った後、床に入って天井を見つめながら、那梨は美璃が去り際に繰り返した言葉を思い出していた。


 ──本当に、楽しみなのよ。


 ふんわりとした彼女の笑みを思い浮かべていると、不意に昼間の太子の綻んだ顔に置き換わった。

 思わず首筋がくすぐったくなって、那梨は頭から掛布を被った。自分の吐息で苦しくなってしまうけども、こそばゆくて顔を覆っていたくなる。


 ──家出してでも宮に飛び込んだのはやっぱり間違いではないわ。


 そんなことを考えてうとうとするうちに眠りに落ちていったのだった。

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