(三)采配
無位無冠の少女らに、控え室は望むべくもない。
受験者は試験終了後も広場にそのまま残され、やきもきしながら結果を待っていた。
那梨は龍鈴謡を踊り終えたときに、既に精魂尽き果てたような心もちだった。ふらふらと建物に歩み寄り、衣が汚れるのも構わず石段の上に座りこむ。
半刻前を思い出すと身体中が震える。
高く突き抜けた青い空と一心同体になれた気さえした。
那梨はその高揚感が堪らなく好きだ。そして踊りきったあとに漂う心地よい疲労も、那梨にとっては好ましいものの一つだった。
そんなことを考えながら、ぼうっとしていたせいか、目の前で喧嘩が勃発していることにすぐには気づけなかった。
那梨が目撃したのは、試験一番手で那梨に衝撃を与えた少女景春陽が、隣の少女に髪を引っ張られたところからだった。
「あんたが先に、あたしの裾を踏んづけたのよ!」
髪を引っ張った方の少女が、激しい剣幕で捲し立てた。
「だからすぐに謝ったじゃありませんか」
かたや春陽は、落ち着き払った口調で切り返していた。
端正に編みあげられていた髪はあちこち飛び出し、背中に垂れる束ねた後ろ髪もおかしな方向に捩れて、お世辞にも見目好い格好とはいえないが、彼女は依然として堂々としていた。
「わたしの舞に嫉妬でも?」
冷淡な春陽の口振りに、相手の少女はいっそう頭にきたようだった。
「なんなの澄ましちゃって! あたしこういうのが一番いけ好かないっ」
少女は地面を踏み鳴らした。またも腕を伸ばし、今度は衣の肩口を掴もうとする。
「お待ちになって」
突然、那梨の隣から声がした。
この傍迷惑な喧嘩にわざわざ首を突っ込もうとするなんて。那梨はぎょっとして左を向いた。
「景春陽、あなたが祭優稟に言い過ぎたような気がするわ」
すっと進み出たのは、那梨の前に踊った礼朱貴だった。
鮮やかな橙色の上衣から伸びる碧の裳が、彼女の歩みに合わせて波打つ。
朱貴の言葉を聞いたその場の誰しもが、ぽかんとして彼女の顔を見つめていた。
意味もなく癇癪を起こしていたのは優稟の方だということが、途中参加の那梨にも読み取れる。
那梨の居る場所からは、朱貴が春陽にだけ分かるように目くばせしたのが見て取れた。
「優稟も、春陽は謝ったということだし、どうか怒りを収めてくださらない? わたくしたち、舞をしに来たのであって、喧嘩をしに集ったわけではないですもの」
朱貴は微笑んだ。やはり口角はきゅっとあがっている。
「わたくしの顔に免じて、お願いしますわ」
祭優稟は未だ興奮覚めやらぬ有様だったが、白けた雰囲気に感づいたのか段々落ち着いてきたようで、最後に春陽を一瞥すると顔を背けた。
「あたしは、あなたのそのきらきらしい高価そうな衣にでも免じて引き下がるわよ」
そう吐き捨てて、優稟はさっさと広場を後にした。試験の結果発表を待つ気はないのらしい。
どうも、自分が太刀打ちできそうもないのが分かって癇癪を起こしたというのが真相のようだ。
それだけ舞に思い入れがあったのだと思うのだが、人の髪まで引っ張るなど那梨の想像の範疇を超えている。
那梨はうまいこと二人の仲裁に入っていった朱貴を改めて見た。
切り揃えられた前髪はつややかに黒く、その下の眉は優雅に弧を描き、小振りな鼻とくちびるが形良く顔に収まっている。
「そんなに見つめられては困りますわ」
朱貴は那梨の座る石段に近寄ってきた。
「ごめんなさい。じろじろ見る気はなかったのよ」
那梨は、気取られるほど見つめていたかしらと恥ずかしくなり顔を伏せた。
「ただ、あなたがこの場を収めたのがすごいと思って」
礼朱貴は、ああそれのこと、ともらした。
「野蛮な方でした。女人の髪を引っ張るなんて。静かにご退場願うのが相当ですわ」
彼女はにっこり笑う。
「ああいう方は態度一つで、生まれも育ちも多寡が知れるものですわね」
那梨は顔をあげた。朱貴の両頬には変わらず可愛らしい笑窪が浮かんでいるが、その実、かなり切れのある性格なのでは──。
「あなたのことについては──」
朱貴が問いかけたとき、濃紺の衣が広場に姿を見せた。
「これより試験の結果を発表する」
女官は隣の女から巻物を受け取ってするすると開いた。
皆が皆、その手元をじっと見つめる中、一陣の風が吹き抜けた。
その場にいる女の裳裾が一斉に翻り、女官は風の音に負けじと大声を張りあげた。
「今から呼ぶ者は、前に出るように!」
那梨はお腹の上で手を組んで固唾を飲んだ。
「合格者、景春陽」
広場中に、落胆とも安心ともつかないため息が広がった。皆、順当だと思っているのだろう。
景春陽は、はいと答え、梳き直した髪を靡かせてきびきびと前に出た。
「次、西蘭華」
向こう側から返事が聞こえ、背の高い少女が進み出た。真一文字に口を引き結んでいる。
「次、礼朱貴」
「はい」
朱貴は那梨に笑いかけてから女官の方に向かった。
「最後に――、楊那梨。以上四名を合格とする」
那梨の心臓は跳ねあがった。
するすると巻き直している女官の姿が、まるで遠くの出来事のようにのんびり動いて見える。
心のどこかで、自分は受かったとなんとなく思っている節があった。それなのに心臓の高鳴りは止まない。
「楊那梨、早く前に出なさい!」
巻物を受け取った女官の促す声が鋭く飛んだ。
「は、はい」
那梨は我に返って返事をして、少女らの間から抜け出た。
既に前に出ていた三人の列に加わると、ちらっとこちらを見遣ってきた朱貴と目が合う。
彼女の瞳は、自分と似た何かを一心に目指す者の熱のようなものを宿している気がして、那梨は急に嬉しさがこみあげてきた。
この楊那梨が受かったのだ。あの即位式で見た舞を、この身で踊れるのだ。
「おまえたちは、立太子の儀での舞を誠心誠意務めあげるように」
「かしこまりました」
四人は唱和し、そろって頭を垂れた。
* * *
夜の帳が降り、民草が仕事を終えて眠りにつく頃であっても、寝ずの番の隣で煌々と明かりが燃やされ、それ自体は眠らないのが宮というところだった。
那梨は西宮の一角に与えられた部屋の戸をそっと開けて、闇に染まった暗がりに向かってするりと抜け出した。
自分でも気づかなかったけれど、興奮しているのかなかなか寝付けない。この辺りを一回り散策しようと、左の方へ歩き出した。
本格的な夏を前にして、まだ少しひんやりしている夜の風が、那梨の火照った頬の熱をじんわり奪っていく。
中庭で両手を軽く広げ、肺の奥深くまで空気を送り込むように息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
目をつむって、心臓の鼓動に耳を澄ませながら何回か深呼吸していくうちに、徐々に落ち着いてくる。
「――那梨さま」
ふいに暗がりから自分の名を呼ぶ声がした。
那梨は一瞬飛び上がってきょろきょろと辺りを見回したが、篝火が遠く、陰になっているせいで人影を見いだせない。
「お嬢さま、こっちです」
押し殺した、しかし那梨にとっては聞き慣れた声がもう一度聞こえた。
「里宇? 里宇の声よね」
そう問い返すと、袖が引っ張られた。
「お嬢さまってば、やっぱり舞子に選ばれたんですね」
「里宇!」
那梨は目の前に現れた里宇を抱きしめた。慣れ親しんだ里宇の匂いがふわっと匂う。
「幻聴かと思って驚いたわ」
西宮は、部外者がみだりに入ることを許さない。すべての門番や女官の目を盗んで侵入するのは、不可能に近いのだ。
「掌主さまからの命です。あたしも今や炊膳寮の見習いなんですから。下っぱの下っぱですけど」
「お母さまったら、無茶したのね。まあ、お母さまなら、お父さまのことも何とかしてくれると予想はしていたけど、それ以上ね」
那梨は苦笑した。誰も口には出さないが、自分たち母娘が実は似ていることは薄々感じていた。
「それよりもお嬢さま、舞楽寮はどうですか。もう練習とかしました? 他の舞子と仲良くしてます?」
「そうね。午後には早速、本番の舞をひととおり説明してもらって、他の班を見学したわ」
那梨は充実した一日を思い出して、にっこりとした。
「女官の先輩方が親切に案内してくれたし、相部屋になった子とも仲良くなったのよ。里宇やお母さまに心配されなくても、ちゃんとやっていけるわ。それに」
那梨は一息ついた。
「里宇が反対しようとお母さまが反対しようと、女官に選ばれるくらい良い舞ができるよう頑張るつもり」
里宇の短い眉の尻が下がり、困り顔になった。
「小さいときから憧れていたことだもの。あと少しで女官になれるかもしれないって思うとどきどきする。女官になれば、宮にしか伝わっていない演目もこの目で見られるのよ」
「……お嬢さま。掌主さまは、とりあえず那梨さまのことを見守りなさいと仰いました。だから里宇は反対しません。でもいろいろと気を付けてください。お客さまの娘さんが見習い女官になって、宿下りしてうちにお使いにきたとき、宮中は結構危ないところだって言ってたんです」
「わかったわ。ありがとう」
那梨は微笑んだ。幼少期から一緒に過ごしたこの少女の長ったらしい口上を聞くと、なんだかほっとできる気がする。
「そろそろ帰るわね。里宇も気を付けて」
「もちろんです」
那梨は軽やかな足取りで、元来た道を戻っていった。
* * *
残された里宇は、そんな那梨の姿が闇に紛れて見えなくなるまで見守っていた。
見送るのにも気が済んで、与えられた部屋に帰ろうと一歩踏み出したとき、脇の生垣から唐突に人影が現れた。
里宇は、吃驚して小さく息をもらした。
里宇には、ただ頭を下げて通り過ぎるのを待つしかできない。
「あれはたしか――」
里宇に気づいているのかいないのか、その者はぼそっと呟くと、また突如としてふらっとその場を去っていく。
どうやら偶々居合わせただけのようだが、里宇の心はざわめいていた。
里宇が午に受けた教育が間違ってなければ、今の人は第一王子の装束を身に着けていた。
すなわち、名は永璋。
まもなく、太子になられるお方だった。




