(二)龍鈴謡
龍鈴謡。
伝説によれば、天地開闢のその昔、手に鈴を持った女神が龍とともに踊ったとされる舞である。
基本の型を一通り習ったら最初に取り組む演目であり、那梨も数えきれないほど舞ったことのある馴染みの一曲。
だから、試験の課題が龍鈴謡だと掲示されたとき、那梨は拍子抜けしたくらいだった。冷え花の舞や山水沈といった、もっと難しいものが課されると思っていたのだ。
──龍鈴謡なら、とちることはないだろう。
そう思うと緊張が解れてきて、那梨は周りを見回した。
建物に囲まれた広場には、ざっと二十人ほど少女が集まっている。
色とりどりに散らばる上衣下裳──黄に薄桃の朗らかな合わせや、白に茜の上品な合わせなど──を着た少女らの中には、精緻な刺繍をあしらったもので装う子もいれば、ほのかな草木染めを着た子もいる。
私塾で見かける子もいるかもしれない。
視線を逆に向けると、一人の少女がこちらを見ていた。
小柄な身体に橙と碧の合わせをまとい、ふっくらとした小さなくちびるには艶やかな紅を指している。
その少女は、那梨の視線に笑顔で応えてくれた。
口角があがると笑窪ができて、店先や両親の仕事の宴で見かける女の子たちよりも、はるかに可愛らしい。
那梨が軽く会釈を返したとき、上級女官が部下の女官らを引き連れて広場に姿を現し、場が静まり返った。
「ただいまより試験を始める。呼ばれた者以外は、広場の縁まで下がって待っているように。まず一番、景春陽」
「はい」
「楽士らの音楽に合わせて、始め!」
楽士の操る横笛から唸るような節回しの低い音が流れ出し、地響きのような大太鼓が鳴り始める。
景春陽は両手を鋭く上に振りあげ、しゃん、と鈴を鳴らした。
ゆっくりと、土の固さを確かめるように足を滑らせ右に回り始める。肘を引いて指先は胸の位置。どんどん回転が速まり、後ろに束ねた長い髪が空を切る。
ぐるぐると回って限界の速さまで到達し、ひときわ大きい太鼓の音と足踏みの音、しゃんっという音が重なった。
龍鈴謡の有名な一節を、景春陽はひとつの狂いもなく舞ってのけた。
それどころか、龍鈴謡の雄大さと繊細さを巧みに躍り分けている。
那梨はふいに愕然とした。
龍鈴謡など、ここに集まる志願者たちはとうに知り尽くした演目であるからこそ、舞の型以上の何かがこの試験では要求されている、ということに。
もし、景春陽の次の子が凡庸な舞を披露してくれたのでなかったなら、そのまま自信喪失していたかもしれなかった。
しかし、後の子たちは、私塾に通う子たちと大差なく、見ているうちに手がじんわりと汗ばんできた。
さっき目が合った少女――礼朱貴というらしい――は可愛らしさとは裏腹に力強く、かつ、しなやかな舞を演じ、とうとう那梨の番になった。
「楊那梨!」
「はい」
声が掠れるなど、久々の感覚だ。那梨は一歩一歩確かめるように、広場の真ん中に進み出た。
この舞一つで合格するか否かが決まり、否となれば夢はついえる。那梨はくちびるを噛んだ。
わたしだって、ここにいる子たちに何かしら衝撃を与えられるはず――。
楽士たちが目配せした。
一聞では出鱈目としか思えない複雑な音階を刻む笛の音に太鼓の音が調子を合わせ始める。
那梨は目を伏せてそのときを待った。
──今だ。
両手を一息に力一杯突きあげる。
双龍が一気に空高く舞いあがるかのように。
音楽が一瞬止み、手首につけた鈴の明瞭な震えが広場全体に響き渡った。
那梨の精神は、数千年前と伝わるはるか天地開闢の時代に遡っていた。
* * *
時は少し遡り、西宮の大中庭の広場で選抜試験が開始された頃、同じ宮の中にある東宮殿では、ちょっとした騒ぎが起きていた。
「殿下、どちらにゆかれるおつもりか」
あと十数日もすれば太子の座に就く国王の長男の私室に、張りのある美声が響いた。
声の主は卓子の前に座り、うず高く盛った髻を右手でそっと押さえた。
「どちらに参ろうとも、母上には関わりのないことです」
呼び止められた部屋の主はそう言い切ると、扉に手を掛けた。
「なりませぬ。もう東宮殿に越してきて、儀式を待つばかりというのに。今日こそはそなたに太子拝命の署名をしてもらわねば、この母は一歩たりともここから動かぬつもりです」
王妃はよく手入れされた荒れも染みもない指先を、卓子に置かれた巻物に添えた。
王子はうんざりした顔で振り返った。
「一体、帰国早々、急に太子づらなどできるものですか、母上。これは母上が勝手にことを進めたのではありませんか。一応、嬰明王女にも立太子の権利はあるにも関わらず」
王子の指摘に、王妃は卓子に手をついて立ちあがった。
「何を申す! 嬰明はそなたより、ふた月も遅れて生まれたのだ。それにあの子は手に負えぬお転婆で、気品もなく王座には到底相応しくない。永璋、そなたが王となるべきは、朝日が東から昇り、西へ沈むのと等しく揺らがぬ事実なのですよ!」
永璋は心の中でため息をついた。
彼の母親は普段はどちらかといえば聡明で、理知的に振る舞う女性なのだが、ある一点だけは異常に執着するのが玉に瑕なのである。
「嬰明王女はもう数え十九。一昨日見かけた限りではお転婆などではなく、たおやかな女性に育っていましたよ。それに、あの溌剌さは多少見習うところがあると思いませんか」
「永璋っ!」
王妃は、今にも倒れ込まんばかりに叫び声をあげた。
「そなたは、そなたという子は、母の前でなんということを! 二度とそのようなことを言うでないぞ! そなたを王位にあげることがこの母の悲願なのじゃ」
「それは母上が勝手に悲願にしているのであって、わたしの悲願ではないようです。それでは失礼いたします」
永璋は冷ややかに言い置いて、扉を通り抜けた。
「待て! どこへゆく」
「母上がここに留まるなら、わたしは出ていくしかないでしょう」
永璋は後ろ手に扉を閉めた。
扉越しにも、「待つのじゃ!」という神経質な叫び声が聞こえる。
永璋は、今度こそ本当のため息をついて、衛士が騒ぎを聞きつける前にそそくさと東宮殿を離れた。
一年近く留守をしている間に、彼の母親の神経症はひどくなっている気がした。
以前から永璋を太子にするべく焦っていたが、帰国後すぐに立太子の儀を準備するまで思い詰めるとは、出国時には想像していなかった。
あの神経質にずっと付き合わされたら、こちらがおかしくなってしまいそうで、無駄とは分かっているが母親と対面するとつい反抗したくなってしまう。
「永璋、煽りすぎじゃないか」
横から話しかけられ、永璋は立ち止まった。
「いいんだよ。母上にちらっとでも従順な顔を見せてみろ。もっとひどくなる」
「けどなぁ、今日は一段と迫力があったぜ。戻らなくていいのかよ」
「いいからいいから」
永璋の乳兄弟で、炎国にも同行してきた護衛の飛樟は不満げな表情をしたが、結局永璋についてきた。
生後すぐから一緒に育った飛樟は、なんだかんだ永璋に折れてばかりなのである。
「俺ももう太子になるんだ、宮中ではせめて敬称をつけろよ。要らない因縁を付けられるぞ」
「今は誰も聞いちゃいねぇだろうが。ところで、どこに向かってるんだ?」
「さあな」
とりあえず、東宮殿から西の方角に永璋は歩いていた。
宮の中心には王が平時執務する貴和殿、朝議を開く貴辰殿があり、その前では王に謁見しようと高官たちが待機していたり、官吏が忙しげに往来していたりと人目が多いので、北に逸れて大回りをする。
これがまた彼らに一旦捕まると、面倒くさいことこの上ないのだ。
なるべく人通りの少ない道を使って歩いているうち、永璋たちは王の私殿の隣、後宮──王の女の親族や妃嬪が住まう場を指しては北宮と呼ぶ──の付近に入り込んでいた。
いつもなら母親のいる所なのであまり寄り付かないが、今日はその本人が、意地でも東宮殿から一歩も離れないと宣言したから安全だろう。
「おい、この辺は落ち着かねぇだろうが」
「小さい頃、北宮の庭でよく遊んだよなぁ」
あの頃は背丈が低かったからか、今見ると後宮の建物は造りが小さい。
「もっと西の方にいってみるか」
「人の話、聞いてたか? あそこは悪鬼みたいな女官どもが、ここよりも更にうようよ歩き回ってるんだぞ」
飛樟は冷や水を浴びたかのように慌てふためいた。永璋もよくは知らないが、幼い頃、女官たちに相手してもらったとき、悪鬼のような一面を垣間見たのだという。
それを言うなら、西宮を含めた後宮全体が悪鬼巣窟のようではないかと永璋は思っていた。
自らの欲望に捕らわれ手段も選ばないというのが、永璋を取り巻く女たちの大半である。
表の政争よりも、後宮の陰謀渦巻く争いの方が恐ろしい。
建物の陰伝いにずんずん歩いていくと視界が開け、先程から流れていた笛と太鼓の音――龍鈴謡――が一際大きくなった。
楽士や舞子を抱える舞楽寮のある西宮ではとりたてて珍しくもない光景だが、広場で踊っているのは官服ではなく私服の少女一人だった。
なんとなく興味をそそられ、永璋は広場から見えないよう渡殿の端に位置取って様子を窺った。
「そういえば、今度の儀式のために臨時の舞子とか給士とかを増やすらしいな」
飛樟がぼそっと呟いた。
あちこち視線を迷わせ、そわそわしているところを見るに、本当に落ち着かないのらしい。
「ふぅん」
「王妃陛下が、二人選んで女官に召しあげるって息巻いてたの、聞いたか?」
「ふぅん」
永璋は、飛樟の話には興味なさげに渡殿の欄干に肘をつき、広場にしずしずと進み出る若緑と桃の上下をまとった少女を見下ろした。耳に聞きなれた龍鈴謡の調べが入ってくる。
その少女は両手を天に突きあげた。
一瞬の、しんとした静寂に二つの鈴の音が染み渡る。
永璋はわずかに目を見開いた。
膝を柔らかく使いながら、優雅に右に回り始めたかと思うと、あっという間に竜巻のように速くなり、最後に足の裏で地面を打ちつける。幼い頃より、舞から音楽、食事、学問に至るまで、一流のものに囲まれて育った永璋でも初めて目にする舞だった。
永璋は、その少女が両の腕で大地を囲うようにぐるりと回して手のひらをそっと重ね合わせ、顔を斜めに傾げて、たおやかに手の上に乗せる最後のくだりまで目を離せなかった。
少女の右頬に垂れた黒髪が、初夏の日差しを受けてきらめいている。
「おい、あそこにいるの、王妃陛下の衛士じゃないか」
くいくいと、飛樟が永璋の裾を引っ張った。
視線をあげると、飛樟の言うとおり、太刀を帯びた甲冑姿が柱の間から見える。
舞に気をとられて、周囲に気を配るのを失念していた。
「まずいな。逃げるぞ」
少女は広場の端の方で、上下する胸に手をあて、荒い息を落ち着けようとしていた。
永璋はちらっとその少女を見遣ってから南の方へ駆け出した。
一瞬目が合ったような気がしたが、逃げることに集中する必要に迫られ、反芻する暇はなかった。




