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龍の謡の響むるを  作者: 北条槇子
第四章 西宮の趨勢
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(十六)検食

 鼓膜を震わせる雨だれの音を感じ取ったとたん、たちどころに意識が浮上していった。

 目を開けると、見慣れない天井の色と嘉眞の顔が那梨の視界いっぱいに映る。


「やっと目を覚ましたな」

「お嬢さま」


 顔を横に向けようとして首に痛みが走った。目だけを動かすと、泣き腫らして紅潮した里宇が八の字眉で那梨を覗き込んでいる。


「……りぅっ」


 喉が張り付いて声が出しづらい。嘉眞が脇の盆から何かを持ちあげ、里宇が受け取り、那梨の背をそっと起こして口元に寄せてきた。促されるがまま、あてがわれた器から一口飲みこむと甘い水が腹に落ちてくる。


「まずは、何かお腹に入れてください、那梨さま」


 今度はぬるい重湯が差し出され、味のしないそれをじわじわと飲み下すうちに人心地がついてきた。


「こちらの嘉眞さまが助けてきてくださったんです」


 里宇の言葉を聞き、那梨の脳裏にあやふやな記憶が浮かびあがってくる。あの後、倉庫に誰かがやってきて助け出してくれたのだろうが、最後に見たのは嘉眞ではなかったはず。


「でも」


 反論しようとした那梨に、嘉眞が右目だけを瞬いた。

 見間違いかと思って見ていると、明らかにもう一度目くばせしたので、那梨はあれこれ考えるのも億劫で言葉を引っ込めた。


「ごめんなさい、里宇は那梨さまがこんな酷い目に遭っているなんて全然知らないで、昨日の夕方はひたすら山菜を刻んでいたんです」


 里宇の目からみるみる涙があふれてくる。掛布に身を投げ出して縋りつくので息苦しいくらいだ。那梨は、里宇の柔な頬に手を添え、親指で目元の雫を拭い落とした。


「いいのよ、里宇。こうして無事だったんだから」


 実のところ、起き上がってみてもさほどお腹は痛まない。あの時倉庫で感じたよりも軽傷だったのだ。さらには、あれだけの窮地に陥ったのに、恐怖を覚えないのが不思議だった。まるで日向にいるように心も体も穏やかなのだ。

 胸元に手を当てると、ずっと身につけている帯び玉の形が触れる。生みたての小鳥の卵のような仄かな温かさを感じて、那梨は深い息を吐いた。


「でも、お嬢さま、いったいどうしてこんなことに?」


 里宇の問いに那梨がどう説明しようか考えあぐねていると、嘉眞が大声で口を挟んだ。


「那梨殿は、王女派の女官たちに邪険にされているのだ」


 那梨は閉口した。他人の口からはっきり言われると心に突き刺さるものがある。


「嬰明王女殿下──」


 里宇はそう呟きながら、やや目を見開いて考えていたかと思うと、勢いよく喋り出した。


「お嬢さま、舞子の姉さま方の左遷事件のことなんですが」


 里宇は、那梨が頼んだことを忘れずにいてくれたらしい。


「といっても、左遷の理由は分かってないんです」と言って、気まずそうに一瞬目を逸らすも、里宇は調べてきたことを語った。


「いなくなった舞子の代わりに舞楽寮に入った子と仲が良い子に話を聞けました。嬰明王女殿下をとても好きだったって。それで気になっていろいろと聞いて回っていくうちに、左遷の後に舞楽寮に入ったのは、皆、熱烈な王女殿下派だと分かりました」


 里宇は両こぶしを握った。


「これって、たまたまだと思いますか、お嬢さま」


「偶然にしては妙だな」と嘉眞が合いの手を入れてきた。


 見た目はかなり違う二人だが、どこか共鳴するところがあるらしい。


「それと舞楽寮は太子殿下派なんです」

「太子殿下派? そんなの聞いたことないけど」


 嬰明王女を支持する話は聞いたことがあっても、太子の話を聞いたことはない。


「ええと、というよりも、王女派じゃないんです。舞楽寮主さまや舞楽寮の上級女官方はなかなか王女殿下の言うことを聞かないって、炊膳寮の姉さま方が言ってました」


「つまり、王女に与しない舞楽寮を骨抜きにするために、主要な舞子を左遷させ、代わりに王女派を送り込んだ」と、嘉眞が謡うように里宇の話をまとめた。


「そう、それが言いたかったんです」

「でも待って。代わりに入った舞子といっても、春陽は違うわよ。そもそも朱貴が王妃陛下に頼んで」と言いかけて、那梨は言葉を切った。


 春陽。倉庫で遠くに聞こえた声。


『好都合よ、とどめ』


 答えた方の女の冷たい声。

 あれは春陽の声ではなかったか。


「何を言っているんですか、お嬢さま」

「──いいえ、きっと気のせいよ」

「何か思い出したのか。何でもいいから言ってみよ」


 嘉眞の顔が迫ってきた。


「わたしは寮主さまから、此度の事件のあらましを聞くよう仰せつかっている」


 嘉眞の真剣な目付きに気圧されて、那梨は倉庫で迷ったところから誰かに助けられるまでを行きつ戻りつ供述した。話していくうちに、どっと疲れが押し寄せてきて、那梨は再び横にさせてもらった。


「無理をさせてしまったな。今度はわたしが知っていることを話そう」


 嘉眞は手の甲で顎をしきりに撫でつけた。


「まず、景春陽は礼家の娘だ」

「王女派の家の手下だと仰いたいのですか」

「それもそうだが、それだけではない。春陽は表向き礼朱貴の侍女だが、本当は従姉妹同士であることは、ある世代より上の人には周知の事実だ。ここで経緯を詳らかにすることは割愛するが、景春陽は本来礼朱貴の侍女に置かれる立場ではない。もしそれを景春陽が知ったとしたら?」


 嘉眞は大きな目玉を動かし那梨と里宇を見回した。


「密談していた二人は、検食職(けんじきしょく)に毒を盛る企てだろう」


 きょろきょろと首を左右に振りながら嘉眞と那梨の会話をじっと聞いていた里宇が叫んだ。


「太子殿下の検食を朱貴さまが務めています!」


「そうだ」と、嘉眞は我が意を得たりとばかりに頬骨をあげて笑った。


「でも、待ってください。わたしの曖昧な記憶だけでそんな決めつけをしては」


 那梨が口を挟むと、嘉眞は笑みを引っ込めた。


「たしかに。それもそうだ」

「この宮に検食職は一人ではありません。わたしの夢の中で聞いたのかもしれない言葉で動いて、間違っていたらどうなりますか」

「なるほど。宮をいたずらに混乱させるのはわたしも望まん」


 嘉眞がじろりと見下ろしてきた。里宇は胸の前で手を組んで二人の顔を見比べている。


「今のところは密談のことを伏せておいてもらえませんか」


 那梨は掛布を退け、半身を起こして嘉眞に頼み込んだ。


「わたしに確かめる時間をください」


 嘉眞は何も言わずに頷いて部屋を辞した。


 明くる日も、那梨は寝かされていた部屋、寮主の別室の一つにそのまま居ついていた。

 那梨の希望ではなく、寮主と嘉眞が元の部屋へ戻すのを許さなかったのだ。まだ療養が必要だと説得されが、嘉眞の方は相部屋の春陽を警戒してのことかもしれない。


 寮主の手厚い監視のもと、嫌がらせが途絶えたのは思わぬ収穫だったが、一人で過ごすにはこの部屋は薄ら寂しい。那梨は文机に頬杖をつき、垂れる髪をひと房ひねくった。

 不用意な一言で春陽に疑いをかけてしまった。嘉眞にはああ言ったが、どうすれば良いのか。


 ――毒、検食も、好都合よ、とどめ。


 那梨はあの晩聞いたと思った音を思い出す。

 二人が何を話そうとしていたのかを冷静に解き明かそうと考えれば考えるほど、あの声が春陽のものに思えてくる。

 那梨は目をつむって両耳を塞いだが、今度は瞼の裏に彼女の薄い顔立ちが浮かび、慌てて目を開いて手を離した。


「お嬢さま」と、部屋の戸の向こうから呼びかける声がした。


「入って」


 里宇はあれから頻繁に舞楽寮に忍んでくるようになった。こんなに来ていたら誰かに露見しそうなものだが、寮主がお目こぼしをしているのだと那梨は見当を付けていた。


「お嬢さま、考えても分からないなら動くべきだと里宇は思います」


 那梨がうんうん唸っているのを見てか、里宇が提案した。


「動く?」

「朱貴さまに会えばいいのです」と、里宇は人差し指を立てる。


「どなたかは分かりませんけど、検食が狙われているかもしれないんですから、朱貴さまにはお知らせしてあげなくてはと里宇は思います」


 それは那梨も考えていた。春陽本人を探る勇気が出ないなら、朱貴に相談してみてはどうかと。この件を抜きにしても、朱貴には会いに行くとかねてから約束している。里宇が訪ねてきた今が動きどきなのかもしれない。


「それじゃあ悪いけど、炊膳寮の用事で何とか渡りを付けてくれる?」


 那梨が頼むと、里宇は背に手を回し胸を反らした。


「もちろんです。すぐに話を付けてきますよ!」


 自信に満ちた宣言に違わず、里宇はその日のうちに約束を取り付けてきた。里宇の伝達のとおりに翌日の夕、那梨が東宮殿の前に着くと、濃紺の上衣をまとった朱貴が既に出迎えてくれていた。


「お久しぶりですわね」


 部屋に招き入れられ、円卓の椅子に腰かける。


「言っていたとおり、理由を付けて来てくれましたのね」

「朱貴、元気にしているようで何よりね」

「あら、そう見えるのだとしたら、わたくしに演技の才能があるのかも」


 朱貴は目を伏せた。まつ毛が頬に影を落とす。


「何か、嫌なことでも?」

「いえ、わたくしはきっと働き慣れていないだけですわ」


 朱貴の手は小さくて白く、腕は細い。那梨も下働きをしたことはないが、商家の子として家業の手伝いくらいはさせられた。中央貴族の子だとお勤め自体が骨の折れることなのだろう。


 朱貴に仕える見習い女官が茶器を携えて卓子に置いた。盆の上に白い茉莉花があしらわれ、蓋を開けると澄んだ香りが鼻腔をつく。官費では贖えない高価な花茶は生家からこっそりと持ち込んだものだろう。朱貴はれっきとした貴族の子女なのだ。家門に人に知られたくない事情があっても、何もおかしくはない。


「あの、朱貴。春陽のことだけど」

「春陽、元気にしていて? 最近あまり顔を出さないのよ。いろいろ手も打っているのだけど、まだ呼び寄せられなくて」

「ええ、元気よ。一緒に訓練を受けていて、最近は結構忙しいの。でも、春陽には何かと助けられているわ」


 出鼻をくじかれて、那梨が本題を言い出しあぐねていると、朱貴の方から水を向けてきた。


「春陽のことで、何か?」


 けれども那梨は首を横に振り、別の切り口を探った。単刀直入に切り出す勇気が出ない。


「その、今日来たのは知らせたいことがあって」


 那梨は身を乗り出して声を潜めた。


「どこかの検食の餐を狙って、毒を盛る共謀があったとの話を聞いたの」


 朱貴が小さく息を呑んだ。


「どなたから聞きましたの」

「たまたま話し声を聞いただけで、誰かは分かっていないわ」


 那梨は、ここまで話したのだから肝心なことをを言わなくてはと自分に言い聞かせた。黙っていてはこの後ずっと後ろめたい思いを抱える気がする。


「あの、春陽が疑われてしまって」

「春陽が?」

「わたしがいけなかったの」


 那梨は、続けざまに、閉じ込められた倉庫で聞いた言葉と、発言者について軽率に話ししまったことを詫びた。


「それで、春陽があなたを恨んで企んでいると疑っている人がいるの」

「しょげた顔していると思ったら、そういうことでしたのね」


 さほど驚いた気配もなく朱貴は言った。


「那梨、あなたが嘘をついているとも、つく理由があるとも思えませんけど、春陽がそんなことを言うとも信じられません。あなたの聞き間違いなのでは」


 朱貴は極めて真っ当な答えを導き出した。


「それじゃあ、春陽があなたの従姉妹だとか、そういった話を聞いたことはない?」

「春陽は遠縁のみなしごです。それ以外に考えたことも……」


 朱貴の目が見開かれ、焦点が揺れ動く。


「いいえ、やはり分かりませんわ。小さい頃に遠縁だと聞かされて育ってきたのだもの。それを改めて確認したことはありません」


 朱貴は肩を落として首を振った。


「毒や謀殺の噂の方は、この役目にいるとよく耳にする話なのです。だいたいが風説ですけど。でも、知らせてくれて嬉しいですわ。先に婢女が口にするとはいえ、今まで以上によく調べてから味見することにします」


 朱貴の表情がやわらいだので、那梨はほんの少し安心を覚えた。

 何もはっきりとさせられなかったけれども、朱貴は那梨の言葉に耳を傾け、受け止めてくれたのだ。


 暇を告げて出ていくとき、はたと思い出して那梨は振り返った。


「そういえば、朱貴、春陽は実のところ舞子でもなく検食職付きでもなく、お針子をしたいのだと思うわ」

「なぜ?」

「だって、舞子になってからも、針の道具を大事そうにお手入れしていたのよ」

「針を? 最近?」


 朱貴は聞き返して、しきりに目をしばたたいた。


「ええ、そうだけど」


 那梨はたじろいだ。


「ごめんなさい、朱貴の気に入らない話だったのなら忘れて」

「いえ、そうではありませんの。こちらこそ取り乱して失礼しましたわ」


 二人の間には、那梨の知らない事情もあるのだろう。那梨はこの話はもう持ち出さないようにしようと心に留めた。

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