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龍の謡の響むるを  作者: 北条槇子
第四章 西宮の趨勢
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(十五)暗躍者

 特訓の調子にも慣れてきた頃、那梨はしばらく里宇に会っていないことに思い至った。

 嘉眞の訓練についていくのに精一杯で忘れかけていたが、里宇にお願いしていた舞楽寮の左遷事件についても音沙汰がない。

 いや、目ぼしい成果があろうかなかろうかはともかく、あの顔を一旦思い出すと無性に会いたくなる。食事の支度どきで忙しいかもしれないが、一目見て挨拶して帰ろう。そう思い、那梨は夕餉前の暇を見て里宇を探しに出た。


 前にも一度訪ねたことがあるから大丈夫だろうと記憶を頼りに足を向けたが、まったく知らないところに出てしまった。

 手がかりを求めて、左右に幾つも並んでいる背の低い倉庫の一つを覗くと、穀物の詰まった袋が積まれていた。ということは炊膳寮の管轄する場所のはずだ。そう自分に言い聞かせ、さらに進んだものの、行けども同じ倉庫が前後左右に並んでいて曲がるべき道が分からない。

 西宮ではこんなにも食料が必要なのかと那梨は内心驚く。楊家の商売で大量に扱っている穀類や塩や醤などの幾らかもここに運び込まれているのかもしれなかった。

 いつしか空は赤橙色に染まり、影が長く伸びている。皆、調理場に詰めているのか、道を訊ける人も通らない。今日のところは諦めようと帰る方角を考え始めたとき、倉庫から出てくる女官たちとかち合った。青碧の上衣を着て、小ぶりな壺を抱えている。


「すみません」


 助かったと思い那梨が呼びかけると、背の低い女官が振り返って足を止めた。


「何? 急いでいるんだけど」


 女官の目は吊りあがっており、虫の居所が悪いのが一目で分かる。那梨はしくじったと思ったが、足を止めてこちらを待つ相手に対し前言を取り消すのも悪手になりそうだった。


「あの、舞楽寮の方角を教えていただきたくて」

「舞楽寮?」


 隣に立つそばかすのある女官が、那梨の顔をしげしげと眺めてきた。


「ああ、この子あれよ、東のお方の」

「え、そうなの」


 三人目も近寄ってくる。那梨は半歩後ずさった。


「舞子がここに何の用?」

「やだ、聞くだけ無駄よ。泥棒とか間諜とか、大方よろしくないことだわ」

「監察部に引っ立てる時間もないし、わたしたちの手で始末しましょう」


 雲行きが怪しくなったのを察して、那梨はすぐさま逃げようと思った。しかし、後ろは壁で、前は三方を囲まれている。抜け出すには何か気を逸らさないと。那梨は頭を捻り始めた。

 ──何か、思い付かないと。何か。


「そうね、そうしたらあの方もお喜びになるかも」


 女官の手にある壺を叩き落として驚かそうかと思ったところへ、突如那梨の腹に衝撃が走った。腰が折れて呻きがもれる。間髪をいれず腕を引っ張られ、敷居を跨がされ、小突かれた勢いで床に転がった。


「なにこれ、上等な玉飾りじゃないの、生意気」


 転んだ拍子に捲れた官服をまさぐろうとする指の感触に、那梨は頭と膝を寄せて丸まり抵抗した。


「気に食わない女だって話、本当だったのね」


 一人がそう言い捨てて、那梨の背中を足蹴にして出ていく。

 戸が閉まり閂の嵌められる音がして、ばらばらと土を踏む音が遠ざかる。


 那梨は這って腕を伸ばし、力を込めて戸を叩いた。


 ──誰か、気づいて。


 叫びたいが、肋骨が痛んで大声が出せない。偶然通りがかる人がいるかもしれないと思い、時折叩いてみても反応してくれる人はいなかった。


 那梨はしばらく身じろぎせず横たわっていたが、一日中訓練をした後で空腹のまま歩いてきたせいか、手には冷や汗がにじみ、頭がぐわんぐわんと回ってくる。ここが炊膳寮の倉庫だということを思い出して勢い込んで傍らの木箱を覗いたのに、おが屑ばかりで食物が何も入っていなかったのには気が滅入った。

 那梨はふと内衣に下げていた帯び玉をたぐり寄せた。倉庫の天井下に通された小窓の縦格子からわずかに入る光に向けると、(くろ)い模様の合間から白い地がぼんやりと浮かび上がって見える。乱暴を受けても壊れずに済んだようだ。


 それにしても、どれくらい経ったのだろう。小窓越しの空は濃い墨色を呈している。夕餉の時間はとっくに過ぎ去っている、と那梨ははっきりしない頭で他人事のように考えた。この時間になれば、いよいよ炊膳寮の女官も明日朝まで倉庫に用はないに違いないと思いかけ、慌ててその考えを打ち消す。先のことを考えたくなかった。

 顔を動かすのも難儀になり、小窓を向いたままでいると、ふと小さな雀が顔を覗かせ木枠に止まった。袋から零れた粟か稗でも探しにきたのか、羽をはためかせて木箱の縁に降りてくる。

 残念だけどここには何もないのよと那梨が内心話しかけると、小鳥はちぃと鳴いた。弱りすぎて、とうとう鳥が返事する幻聴が聞こえたのかしらと自らを哀れんでいると、にわかに人の気配がした。傍の木箱を叩いて音を出そうと腕に力を振り絞った瞬間、那梨は動きを止めた。


「毒……、検食も……」

「……好都合よ。……とどめ……」


 くぐもってよく聞こえなかったが、極限の空腹で聴覚だけが研ぎ澄まされていたのか、男と女が発するとぎれとぎれの言葉を耳が捉えた。声の冷たさに背筋が凍る。これは助けを求めてはいけない人たちだ。目の前が暗転した。

 じんじんと、お腹にまとわりつく痛みが疼き、空腹と疲労が意識を奪ってくる。どれくらい経ったのだろう。もう小窓も雀も、何についても考えられなかった。

 気が遠のく最中、最後に誰かの肩から雀が飛び立つ影を見た気がした。



 * * *



 深夜を迎えた篝火の絶えぬ宮の一角、そこだけ灯りが落とされた殿舎の中に一人の男が滑り込んだ。

 左手には温もりを発する小さな塊を乗せている。男が右手の人差し指で撫でると、撫でられた方は気持ちよさそうに目を細めた。男が、とんととん、と小気味良く叩けば、それはみるみる膨らみ、男の肩ほどの背丈に伸び足をつけて地に立った。


「人の頭。遊ぶな」

飛影ひえい、すまん。つい」


 男が卓子の上の皿に積まれた干菓子を摘まんで放ると、飛影は跳躍して掴み、口に入れた。男は、彼の咀嚼する様を尻目に隣の部屋に入る。


「預けてきた」

「ああ」


 主は腕を組み、目をつむって座していた。


「こんなことするくらいなら、東宮殿に置いて監視しておけばよかったじゃねぇか」

「簡単に言うな」


 主が睨めつけても男は怯まない。目の前の主、永璋を最もよく知るのが相対するその男、飛樟だからだ。


「いろいろ、考えなきゃいけないことが多すぎるんだよ」と主は言う。


「そもそも飛樟、おまえがもっと早く調書を回してくれていればだな」

「それはおまえが執務をさぼってたせいだろうが。それに、早く知ったところで状況は変わったのか?」


 言い返すと、主は浮かせた腰を戻す。飛樟は肩をすくめた。


「いいよ。おまえの煮え切らなさには慣れっこだ。俺はとことん付き合うだけさ」


 主が睨む目に力を込めたのが分かった。

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