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龍の謡の響むるを  作者: 北条槇子
第四章 西宮の趨勢
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(十四)近侍衛士

 やや開いた障子戸の隙間から、軒先が雨で濡れそぼつのを見あげたまま、那梨は広間にぽつねんと立っていた。


 雨の日は屋内で振り付けの復習や座学をする日もあれば、楽人の稽古を見学して曲を覚えることも、総出で掃除や片付けをすることもある。

 今朝、朝餉の前に、見習い女官から今日は広間で座学をすると伝えられて赴いたのに、そこには誰もいなかった。


「またこれね」


 舞楽寮に来て数週間、このような状況に陥るのは初めてではなかった。

 同輩や見習いたちまで大勢で口裏を合わせているのか、那梨にだけ重要な通達が間違って届くときがある。他にも、洗濯房に出した官服が遅れて届くだとか、配膳されるおかずが少ないとか、ほんの些細な嫌がらせが続く。そういうことに疎い鈍感な那梨もさすがに虐められているのだと悟った。


 街の私塾に入ったときも初めは他の子たちと馴染めなかった。ありていにいえば周りより裕福な身の上で浮いていたからだと今なら分かる。ただ、あのときは目の前で虐められて、ぶつかり合うことができたから良かった。

 うってかわって西宮は一筋縄ではいかない。寮主や上級女官たちに気取られないような匙加減であれこれ手を引いてくるのだ。


「陰湿だわ」


 那梨が独りごちた言葉はしんとした広間に吸い込まれるように消えていった。

 ひとつ溜め息を漏らした後、春陽が現れた。


「今日はここですか」


 先日、衣裳合わせに呼ばれて向かった先で、針子に訝しげな目で睨まれたときも春陽が迎えにきてくれた。

 実際より早い時間で嘘の集合場所を那梨に伝え、春陽に迎えにいかせる。上官の目に余る遅刻にならないよう巧妙に図っているのだ。


「春陽、また手間を取らせてごめんなさい」


「寮主さまが蔵の掃除には人手が多すぎると仰って、わたしたちは剣の素振りをするようにと」


 春陽は、模造のなまくら剣を那梨に寄こした。


「ありがとう、春陽」


「礼を言われることは何も」


 無視するでもなく下手に慰めるのでもない。春陽のつれないふるまいが今の那梨にとってはかえっていい按配だった。

 実は彼女は針仕事の方が好きなのに、突然異動させられても舞の練習には手を抜かない自律心を持ち合わせているのが春陽という娘だ。そういうところにも好感が持てた。

 そういえば、春陽が針の手入れをしていたところを見かけたのも、部屋にあったはずの那梨の枕が消え失せて代わりを探していたときだった。

 手当たり次第に近場の倉庫を探していたら、扉を開けた中に春陽がいたのだ。慌てて手元の針道具を隠そうとするので、本当はお針子をやりたいのねと話しかけると頬を赤らめていた。自分が好きなことを好きと言うのに憚ることなんてない。あのとき驚かせたのは申し訳なかったけれど、春陽の知らない一面を知れて良かったと那梨は思っている。


 那梨は春陽から受け取った長剣を右手に握り、背筋を伸ばして呼吸を整えた。

 おもむろに振りかぶって一歩踏み出し垂直に下ろした。軽い木杖とは違って、くろがねを鍛えて拵えた剣は振り筋を保つのが難しい。

 十歩ほど離れて立つ春陽の剣が空を切るのを聞いて、那梨も振り下ろす。那梨が剣先から起こした風を合図に、春陽が振り下ろした。那梨と春陽は、自ずと同じ方角を向いたまま、交互に剣を振り続ける。


 屋根を叩く雨音の下、何度もくり返していると、四肢に律動が生まれる。

 流れのままに身を任せていくと、自分はこの瞬間この場所に強く引き寄せられたように感じながらも、その実、はるか彼方へ行ってしまったような感覚がせりあがってくる。

 悩みをどこかに振り飛ばし、心を無にしてくれるだけでなく、時として那梨だけが知る景色を見せてくれる。

 幼少の頃から慣れ親しんできたその感覚に那梨は没頭した。


 しばし繰り返した後、二人は申し合わせたのでもなく同時に剣を置いて座り込んだ。

 荒い息をあげ、汗に濡れて額に張り付いた髪をかきあげる。


「春陽」


 春陽が視線をあげたのを了解と受け取って、那梨は続けた。


「どうしたら、ここに馴染めると思う?」


 春陽はややあって口を開いた。


「西宮には王女殿下を慕う者が多くいます」


「それがどうかして?」


 王女殿下といえば嬰明王女のことだろう。唐突に出てきた名に那梨が疑問を投げかけると、春陽の片眉がぴくりと動いた。

 彼女はおもむろに腰をあげ、剣を手に取り上段に構える。


「あなたがどこから異動してきたのか、思い出してみたら?」


 それだけ言って、春陽はそっぽを向いて再び剣を振り始めた。




 * * *




 なるほど、注意して耳をそばだてていると、しばしば舞楽寮で嬰明王女が話題にのぼっているところに出くわした。きゃあきゃあと盛りあがっているのは幼い見習いの子たちが多い。彼女たちの言葉を借りれば嬰明王女は西宮中の憧れの女性なのだそうだ。


 ある日は、那梨より年下の女官が、次の宴では一度でいいから目くばせをくださらないかしら、そうしたら私、振り付けを間違えてしまって罰を受けたとしても本望だわ――とうっとりしているのを、通りがかった年嵩の女官がたしなめていた。


「これ、舞子として聞き捨てならぬことを申すな。それに、王女殿下に向けて、そのようなことを軽々しく言うものではない」


「申し訳ございません。でも、とても光栄なことかと存じまして」


 しゅんとしながらも、しっかり一言付け加えてから辞す彼女の姿に、注意した女官は苦笑した。


「近ごろの若い子の王女殿下への熱は、いよいよ手が付けられぬな」


 そうぼやいて、女官はその場にいる女官らに向き直った。


「王女殿下は一介の女官が気安く話題にしてよい御方ではない。皆も言動を厳に慎むように」


 春陽が言ったように、舞楽寮には嬰明王女を慕う娘が多いことを那梨は認めた。

 それでも彼女たちは、例えば、那梨の姉が見目好いと評判の男性の噂話で友人たちと盛りあがっているのと大差なく、単に憧れからくる興奮をお互いに分かち合っているに過ぎないように思える。

 東宮殿から異動してきたという理由だけで虐める動機に繋がるのか疑問だったが、これだけ嬰明王女が人気を得ている中、東宮殿の推挙を受けてやってきた自分は舞楽寮では異分子なのだということを、朧気ながら那梨も理解してきた。


 現状を打ち破るには、嬰明王女のことをもっと知った方がいいのではと思った那梨だが、当然のことながら気安く聞ける相手が見つからず、すぐに手詰まりになった。同輩や後輩たちは那梨が話しかけようとしても素知らぬふりで避けるし、上の女官には聞きづらい。春陽に聞いてもいつものようにそっけない答えしか返ってこなかった。


 鬱屈とする日々の中、那梨にとって、剣舞の練習だけが待ち遠しいものになっていた。

 他の子たちと離れて舞に集中するひとときは気が休まる。

 夏の剣舞に向けた剣捌きの練習は、袈裟懸けに振る段に進んでいた。寮主自ら二人の振りを見て指導することもある。寮主は目が悪いはずなのに、那梨の切っ先のわずかなぶれも見逃さないので、気を引き締めなければいけなかった。

 ――近くの小さなものは見えないが筋の乱れはよく見えるものだな、とは寮主の弁である。


 春陽と二人きりで修練をしている今も、垂れ下がった瞼から覗く寮主の眼光は鋭い。


「舞楽寮主さま、ただいま参りました」


 突如として、三人しかいない広場に、やたらと通る声が響いた。


「おお、嘉眞(かしん)殿。これはご足労であった」


 小ぶりの冑と皮の胸当てを付け、腰に剣を帯びた兵装の者が颯爽と歩み寄ってくる。


「こちらは近侍衛士(きんじえじ)の嘉眞殿だ」


 寮主に紹介され、那梨と春陽は礼をしてそれぞれ名乗った。嘉眞は鼻梁とえらが張った顔立ちをしているが、面構えには険しさがなく、兵服に包んだ身体も小柄、声はわりあい透き通っていて、衛士と言われてもしっくりこない。


「おまえたちに剣の扱いを教えてもらうため、お呼び立てしたのだ」


「寮主さまのお願いとあらば、主人(あるじ)も快く送り出してくださいましたぞ」


 嘉眞は首を反らして豪快に笑った。


「それはありがたきこと。後ほどくれぐれも謝意を伝えられたい」


「それはもちろん。では、お嬢さん方、どうぞよろしく」


 そう言って、嘉眞は事もなげに那梨と春陽の右手を取り、ためつすがめつ検分し始めたので、那梨はどぎまぎした。女官は男とみだりに触れ合ってはならないと聞いていたのに。

 しかし、隣にいる寮主が何も言わないので差し支えないのだろう。春陽もじっとしている。


「まだ、血豆もできていないようだな」


 ふむ、と嘉眞は顎をさすり、にかっと笑った。


「今日から毎日特訓をしよう」


 そう宣言したとおり、嘉眞の指導は厳しかった。


 早朝に舞楽寮にやってきて、朝礼が終わるや否や広場をぐるぐる走り回される。手始めに身体を温めてやるのだと嘉眞は言う。

 その後は、身体造りだといって婢女から桶を取りあげて水汲みをさせられる。

 午餉が済むと延々と色んな型の素振りをさせられ、一休み挟んで仕上げとばかりに嘉眞と打ち合いをする。

 日頃から舞楽寮の修練に慣れているはずなのに、夕方には疲労困憊になってしまう。


「あの、嘉眞さま、わたしの力不足と重々分かってはいるのですが」


 那梨がへばって手を緩めてもらおうと話しかけると、嘉眞は手のひらを振った。


「皆までいうな。わたしの一存ではなく寮主さまのお考えだ」と、けんもほろろだ。


 軽い身のこなしを見せる小さな体躯のどこにそんな力を隠しているのか、嘉眞は打ち合いになると重たい剣を繰り出す。刃のかち合う音が耳をつんざき、あたかも斬撃を直に身に受けたと錯覚するほどだ。

 普段めったに表情を乱さない春陽も、嘉眞の一撃には顔を歪めていた。


「嘉眞さま、軽やかな身の捌きから想像もつかないそのお力、どのような修行をされたのですか」


 嘉眞の技は舞の技術も高めるものに違いない。ある日、打ち合いの途中で那梨が尋ねると嘉眞は構えを解いた。


「ほう。それが気になるか」


 那梨が答えを待っていると、嘉眞は歯を見せて笑った。


「それを教えては私の仕事の値打ちが目減りする。おのれで考えよ」


 こんな調子で、嘉眞は那梨が何を聞いても肝心なことはほとんど言わない。


「嘉眞さま、もしかして、わたしをからかっていらっしゃるのですか」


「那梨殿は面白いな」


 嘉眞は声をあげてますます笑った。


「西宮でこんな御仁にお目にかかれるとは」


 こんな調子で大抵は快活に笑っており、けして嫌な感じはしない人物なのだが、那梨は嘉眞の言葉にしょっちゅう面食らってしまうのだった。


 夕刻に訓練が終わり、嘉眞が寮主に一日の報告をしに立ち去ると、那梨はへとへとになって部屋に戻った。嘉眞の指導が始まるまでは、夕餉まで度々どこかに出かけていた春陽も、最近は一旦部屋で休むようになった。


「春陽、さすがのあなたも疲れるのね」


「ええ」


 春陽は、帰りがけに水場で汲んできた桶の水に布を浸し、固く絞って汗を拭き始めた。

 那梨も布を浸して絞り、前合わせを下ろして腕から胸元へ、腹、背と拭きあげていく。火照った肌に清水の冷たさが心地よい。


「嘉眞さまの主人(あるじ)って誰なのかしら」


 那梨が独りごとをもらすと、春陽が反応した。


「さあ」


 眉間にしわを寄せている。


「でも、ああやって何でも笑ってはぐらかす人、わたしは信用なりませんけど」


「そういう見方もできるのね」


 那梨が感心して言うと、もう拭き終えたのか、春陽は桶を持って立ちあがった。


「むしろ、あなたは何でも信じすぎよ」


 部屋を出がけに振り向いて、そんな忠告を残していった。

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