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龍の謡の響むるを  作者: 北条槇子
第四章 西宮の趨勢
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(十三)舞楽寮主

 那梨は建物と建物の間を縫いながら急ぎ足で歩いていた。

 行き交う人々を躱し、段差を昇ったり降りたり、小門を幾つか潜り抜けて、しまいにはほぼ駆けるように足を運ぶ。


 (戻ってきた)


 宮の西翼、その中でもさらに西の一角にたどり着いた那梨の胸のうちは、帰ってきたという喜びに満ちていた。

 選抜試験に受かったのは、ひと月も遡らない時分の初夏。

 短くも濃い日々を過ごした舞楽寮の広場に着き、隣に建つ官舎を見上げる。

 今しがた、従七位の舞楽寮女官の辞令を拝命してきたところだった。


(やっと、たどり着けた……)


 本来手の届かなかったはずの場所で舞子としての日々を始められる。それを取り計らってくれた御方──太子殿下には返し切れない恩ができたという思いが溢れてくる。

 その期待に応えるためにも、明日から始まる修練に一生懸命取り組もう。そう誓いながら宿舎に足を踏み入れ、長屋に並ぶ扉のうち、宛がわれた自室を探す。

 戸を開けると、中には那梨と同じく青碧色の上衣をまとい、渋い紅色の裳をつけて座る先客がいた。


「春陽?」


 先だって朱貴からお針子になっていると聞いていた張本人が舞楽寮に現れ、那梨は狐に化かされているのかと思った。


「お針子になったはずでは?」


 春陽は目線だけを那梨の方に向けてきた。彼女はこれといった特徴のない顔立ちをしている。目も鼻も小さく、くちびるも薄い。そのうえ肌が白いので、見る角度によっては無表情な仮面を思わせる。


「たしかに主人あるじが王妃陛下に請願して一旦針子に任ぜられましたが、今は舞子です」


 貴族だとそのような融通も利かせられるのか。那梨の家格では見習い女官にねじ込むのが精々だろうと、若干羨ましく思った。思ったまま羨ましいわね、と告げたら、春陽は小首を傾げた。


「ああ、あの炊膳寮の子のことですか」


 春陽は里宇を知っているのか。意外なことに面食らっていると、春陽は那梨に向かって説明を加えた。


「お針子になった経緯はさっき言ったとおりですが、その後舞楽寮に転任になったのは、最近欠けた舞子の人員の穴埋めにされただけです」


「人員が欠けたってどういうことなの」


「さあ、詳しいことはわたしに聞かれても分かりません」


 春陽はつれなく言うと、自分の手荷物を解いて整理し始めた。

 春陽は朱貴と一緒に育ったと聞いているが、溌溂としている朱貴とは違って、とっつきにくいところがある。能面のような顔立ちのせいか言葉尻の鋭さのせいかは測りかねるが、他人を寄せ付けない空気を纏っている。

 その晩、那梨はそれ以上一言も交わす機会なく早々に就寝した。




 明朝、那梨は朝礼が開かれる舞楽寮の広場に駆け込んだ。ちょうど上級女官が並んでしずしずと入ってくるのと同時だった。

 沓のせいで後ろ首から滴る冷や汗が止まらない。昨夜、宿舎の戸の前に揃えておいたはずの沓が、縁の下に転がり落ちていて探すのに一苦労したのだ。

 青碧の上衣の最後列に加わり、肩で息をしながらこっそり周りを見回す。再会するのを楽しみにしていた美璃を含む先輩女官の姿が数名見当たらない。


(昨日春陽が言っていた欠員って、美璃姉さまたちのことなの……?)


 にわかに信じられない思いで何度も見回しても姿を見つけ出せない。


 まもなく舞楽寮を束ねる長、舞楽寮主ぶがくりょうしゅが現れ声を上げた。


「皆の者、ご苦労」


「おはようございます、寮主さま」


 数十名の娘たちが唱和して挨拶を返す。

 寮主はその場に並ぶ女官らを見回して大声で尋ねた。


「この中で、剣舞をしたことがある者はいるか?」


 小声のざわめきが波打つように広がってしばらく続いたが、手をあげる者はいない。


「それでは、長得物や杖術を用いた舞をしたことがある者は?」


 その問いに那梨はこわごわ手をあげた。剣の経験はないが、通っていた舞の私塾で、杖を持って踊る舞に取り組んでいた時期があった。


「楊那梨と景春陽、前へ来なさい」


 舞楽寮主の掛け声に、春陽が列から出て歩き出した。那梨も慌てて追いかける。


「剣を持ったことがなくとも仕方あるまい。二人いれば神殿に頼らずに済む」


 顰め面をした寮主はよほど目が悪いのか、一人ずつ顔を確かめるために鼻先が触れそうなほど近付いてくる。那梨は反射的にのけぞりたくなるのを堪えた。


「まだ先のことだが、夏に炎国使節をもてなす宴が開かれる。そこでは剣舞を奉納するのが慣例だが、老体や幼子には向かない演目であるし、巧い者は左遷されてしまった」


 寮主は嘆息して、那梨と春陽の目を見据えてきた。無数の皺が刻まれた瞼に囲まれた瞳は鈍い光を宿し、その色は奥に吸い込まれそうな(くろ)をしている。


「明日からおまえたちには特別な修練も課す。剣捌きからだ。懸命に努めよ」


 拝命つかまつりますと春陽が頭を下げたので、那梨もそれに倣った。


「では、今日は皆で平常どおりの修練を行え。解散」


 その後、那梨は近くにいた同僚と基礎修練をこなしたが、寮主の発した言葉が引っかかってどこかおざなりになってしまった。


 夕餉に出された菜っ葉の漬物を噛み砕いている今も、頭の中は考え事で占められている。

 中堅どころの舞楽寮の女官が複数、しかも同じ時期に異動するなんて尋常ではないと那梨にも察しがつく。寮主の言った左遷という言葉も穏やかではない。よほどの不手際を起こしたとか、やんごとない御方の機嫌を損なったとかでないと起きないことではないか。


「ごちそうさまでした」


 上の空で食べていたからか、我にかえると、那梨の他に最後まで残っていた見習い女官二人組が食べ終えて席を立つところだった。早く食べ終えなければ片付けの係が来て追い払われてしまう。慌ててお椀から麦飯をかき込んでいると、柱の裏から三つ編みを下げた少女が顔を出した。


「お嬢さま」と、明るい声が無人の広間に響く。


 那梨は里宇に手招きされるままに建物を出て、暗がりで抱擁した。


「里宇!」


「お嬢さまったら、宮に来てから里宇のことを抱きしめてばかりじゃないですか」


「いいじゃないの」


 文句を言われても構わず力を入れる。


「舞楽寮に戻ってこられたなんて、本当によかったです。太子殿下は那梨さまのお話をちゃんと聞いてくださったんですね。お会いしたことはないですけど、きっととってもお優しい方なのでしょうね」


 里宇は感激した様子で両手を打った。


「そうね」


 那梨は内衣の胸紐に付けた帯び玉を衣の上から手のひらで押さえた。もし朱貴が幼いときに見た太子というのが、昨日那梨が見た太子のようであったら、慕わしく思うのは無理ないことかもしれなかった。

 龍神の末裔たる王家の血筋を代々受け継ぐということは、相見えた者が思わず惹かれてしまう不思議な磁力を持って生まれるということなのだ。


「そうだ、里宇。あなた、舞子の姉さま方の話を知っている?」


 里宇の属する炊膳寮は大所帯で噂話には事欠かないから、里宇も何か小耳に挟んで知っているかもしれない。那梨はあらましを説明したが、里宇から芳しい答えは返ってこなかった。


「その話、あたしは知らなかったです。もし炊膳寮で一度に急な異動があったら天地がひっくり返るくらいの大騒ぎになりますけど。舞楽寮のその話、なにか変です。きな臭い気がします」


 里宇は合わせた両手の人差し指を捏ねくりながら、くちびるを尖らせた。


「お嬢さま、里宇が調べてみますから、ちょっとお時間をください」


「ありがとう。でも無理してはだめよ」


「勿論、分かってます。危ない橋は渡りませんから安心してください。──あっ! そうだった!」


 里宇はぴょんと跳ね上がり、もう皿洗いに行かなくちゃと叫ぶと、挨拶する間も惜しんで素早くお辞儀し、足早に駆け出した。

 おさげを揺らして去っていく里宇の背中が頼もしく見える。

 那梨は、里宇の後ろ姿が消えた後もその場でしばらく見送っていた。


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