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龍の謡の響むるを  作者: 北条槇子
第三章 東宮殿の奥庭
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(十二)泉水の畔

 庭園で里宇と別れて部屋に戻る道すがら、那梨は見習い女官に太子との面会を申し出た。

 自室に戻っても手持ち無沙汰で、那梨は卓子に頬杖をつき、思いどおりことが運ぶかしらとぼんやりと考えを巡らせてしまう。


 そんな那梨の心配とは裏腹に、返事は矢のごとくすぐに返ってきた。


「衣を賜ってお目通しを願い出るとは……まことに呆れ果てました。それなのに、殿下は夕刻に面会を許すと仰せなのですから。まったくもって由々しきこと」


 見習い女官の上官、寝所での儀式の説明をろくにしてくれなかった女官が、書簡を恭しく捧げ持って那梨に寄越した。紅を刷いたくちびるの端がいまいましげに歪んでいる。


「太子殿下はご多忙なうえに少々気の短いお方。格別の温情をいただいたのですから、くれぐれもご気分を損ねることなきよう、お気をつけあそばせ」


 そう言い捨てて帰った女官の表情を見て、那梨は急に怖気づいてきた。やはり太子は裏表の激しい人で、短気なのかもしれない。願いを叶えてあげた相手がそれを取り下げようとしたら、お怒りになるだろうか。それともまた女官の嫌がらせで、嘘っぱちなのだろうか。そもそも、どうやって話を切り出せばいいのだろう。

 悩み始めたらじっとしていられない質の那梨は、足がうずいてきた。ここ数日の軟禁ともいえる身に置かれて錆びつきそうな身体を動かしたくてたまらない。先ほど格好の場所を見つけたばかりだ。那梨は軽装に着替え、ためらいなく裏庭に向かった。

 足元が平らなあたりに目星をつけ、そこで慣れ親しんだ足取りを踏み始める。鈴はないが手振りは同じ、龍鈴謡。右へ右へと回りながらどんどん加速していって大地を打ち鳴らすと、足の裏に心地よい衝撃が伝わってきた。


 ──これだ。

 やっぱり、わたしはこうしている時間が好きだ。


 舞は後半へ差しかかる。ひとっとび跳ねたあと、自転しながら己の軌跡で大きな円を描く。脚が、腕が、息づく胸が、喜びに満たされていく。

 最後に腕を重ねて締めくくりの身構えを取ったときには、久しぶりに息が弾んでいた。


「龍鈴謡だ」


 唐突にかけられた声に那梨は瞼を開いた。手の上に乗せていた頭を上げてきょろきょろと声がした方を探すと、いつの間にか男が二人庭に立っていた。


「殿下」


 一人は見覚えがあった。昨晩動転している中で見たとて、忘れようもない。


「何度見ても気分がいいものだな」


 太子のかんばせは記憶と違わない。

 鼻筋は通り、目はすっと切れあげて、じんわり汗ばむ今日の陽気の下でも爽やかだった。夜着の薄物とは違い、膝下まで垂れる朱赤の袍をまとって腰に玉飾りのついた帯を締め、結った髪の上には冠を乗せている。

 隣に立つのは見知らない男だった。背丈は太子と似ているが、目元は太子よりもまろやかだ。斜め後ろに立っている佇まいからお付きの護衛のようだった。


「殿下がどうしてこんなところまで」


「呼び出したのは、そちらじゃなかったか」


 まだ通告された時刻には早い。今の装いは軽装で礼を失している気がするし、頭を撫でつけて取り繕ってみても、風に吹かれた髪の乱れは早々直らない。

 そんな那梨の様子を見てか、太子はふっと口元を緩ませた。茶目っけのある笑みがこぼれる。


「すまないな。前の用事が早く終わったから、前触れもなく来てしまった」


「いえ、そんな、とんでもないことです」


 突然のことで面食らいはしたが、太子の部屋に赴いたり自室に訪われたりするよりも、ここで話す方が気楽だ。そう思えば、少し肩の力が抜けた。

 控えていた見習い女官が頃合いを察して、一行を四阿に案内してくれた。


「それで、話したいことってなんだ?」


 縁台に座った太子に問われ、那梨は一考した。


「畏れながら殿下、なぜわたしを女官にしてくださったのですか」


 那梨の問いに太子は即答した。


「女官になりたいと熱心に言っていたから」


 ということは、やはり太子はどこかで那梨の願いを聞きつけて取り計らってくれたのか。


「申し訳ございません」


 那梨はその場に平伏した。


「身に余る光栄を賜りながらも、女官を辞すことをお許しください」


 正面切って自らの間違いを認め、潔く謝る他に思い付かず、那梨は頭を下げたまま許しを請うた。太子が急に立ちあがり、足を那梨に向けたのが、ふせた額越しに見えた。


「なにゆえかを聞こう」


「……わたしの勘違いだったのです。恥ずかしながら太子殿下にお仕えする女官の試験とは存じ上げず、舞楽寮の女官になれるものだと思っていたのです。ですから、わたしはこの場にいる資格がありません」


 太子は黙している。耐えきれなくなって那梨は顔を上げかけた。


「そうか。だから、違うと思ったんだな」


 太子はそう言うと、ひとりで納得したように指を顎に掛けた。金の指環が小さく煌めいた。


「何のことかお伺いしても?」

「きみは礼家や他の娘たちと違うだろう」


 朱貴の話が出て、那梨は思わず口を滑らせた。


「殿下は朱貴をどうなさるお考えですか」


 太子が一瞬目を見開いた気がした。


「このまま女官に任じられる。それが彼女の望みだ」


 それでは、朱貴の本当の思いは太子に伝わっていないのだ。那梨はとっさに代弁したくなった。


「重ね重ね畏くも殿下、朱貴は大変気落ちしております。わずかでも情けをかけていただくことはできないのでしょうか」


 那梨が懸命に言い募ると、太子は困ったような、微笑むような顔をした。


「母上は、王女派の貴族の力を削ぐために彼女を利用する企みだが、俺は賛同したくない」


 太子はため息を落とした。


「そもそも、あの娘は情けを求めているのか」


 誰に問うでもない小さな呟きをもらした太子に、那梨はこれ以上、訴える言葉が思い浮かばなかった。太子の答えは朱貴の望みと違う。でも太子の言うことにも筋が通っているような気がした。出過ぎた真似をしたのかもしれない。


「話を本題に戻そう」


 那梨が何も言わないのを見てとってか、太子は軒下の外へ歩み寄った。

 日差しを受けて、太子の横顔の輪郭が浮かびあがる。鼻筋と目に濃い影が落ちて際立ち、黒髪は陽光を浴びるとあえかに光って透けて見え、漆黒ではないことが分かった。


「女官の件はこちらこそ申し訳なかった。俺の早とちりだ。太子付きの女官の任を解こう」


「ご寛容痛み入ります、殿下」


 那梨は頭を下げた。深い安堵と一抹の寂寥とが一度に胸に去来して、どこか苦しかった。


「そうだ」と言って、太子はやおら腰に手をやった。


 そこには、花をかたどった金具に玉を連ねた佩玉が下がっている。太子はその横に幾つか下がっている短い紐の一つを外した。


「これは俺からの詫びだ」


 くろのまだら模様が入った白い玉を、紐で結わいて拵えた帯び玉だった。


「お詫びなど、畏れ多いことです」


 那梨が断ると、太子は那梨の手をとって持たせた。思いもよらない肌の感触に慌てて引っ込めようとしたが、玉はあっという間に那梨の手におさまり、太子の手は離れていた。


 手中の玉をじっと見つめれば、玄い模様が蠢いているようにも見える不可思議な玉だ。


「立太子に際して下賜するため炎国から持ち帰ったものだ。詫びでなくてもこの国の民なら受け取る資格がある。持っていてくれ」


 妙に力のこもった太子の言葉に圧され、那梨はそのまま受け取った。


「心より感謝申し上げます。このご恩は宮を出ても忘れません」


 舞楽寮で修練した日々、朱貴や他の舞子と過ごした日々、天継の舞の夜のこと、一生忘れない記憶になるのは間違いない。

 一瞬でも宮の舞子になれたのだから。立太子の儀で舞ったのだから。里宇の言うとおり、その記憶を大事に仕舞って満足すべきことなのかもしれなかった。

 那梨が胸に迫る気持ちを整えようとしていたところへ、太子が言葉を続けた。


「待て、また何か勘違いしてないか」


 那梨が太子を見あげると、口元を綻ばせて笑っている。


「宮を辞せとは言っていない」


「……は」


 不躾に響く声が小さくもれてしまい、那梨は両手で口を押さえた。


「また舞を見せてくれ。

 ──舞楽寮の女官に推挙しよう」




 * * *


 


 ──さっきの庭での出来事は幻ではなかったかしら?


 那梨は夢心地で部屋に戻りながら自問したが、手元には太子から下賜された帯び玉が残っている。

 まるで乳に薄墨を流しこんだような白玄模様が掴みどころなく揺蕩う帯び玉。それを見れば、現実に起こったことだと確かめられた。那梨はそっと上衣の下に結わいて下げた。

 渡り廊下に差し掛かったとき、見習い女官を連れてどこからか帰ってくる朱貴と鉢合った。先ほど、太子が朱貴を拒否するのを聞いたばかりでどこか気まずい。那梨は数拍迷ったが、意を決して近寄った。


「わたし、太子付きの女官の任を解かれて、舞子に任命されることになったわ」


「まあ……、それはよかったですわ」


 朱貴の声はかぼそかったが、落ち着きを取り戻していた。


「那梨、その、先ほどはありがとう」


 おずおずと述べる朱貴の目には泣き腫らした跡が微かに残っているものの、表情はすっきりとしている。那梨は続けて尋ねる勇気が出た。


「朱貴、あなたはこれからどうするの?」

「わたくしは、東宮殿の検食職けんじきしょくを命じられ、お受けしました」と言って、見習い女官に持たせた巻物を示した。


 検食職。修養を受けたときに聞き覚えのある職名だった。


「たしか、王族の方々にお出しする前のお食事を味見するのよね?」

「おおよそ、そうですわ。下げられた膳を見てお召しになったものを記録したりもします。殿下にじきじきにお目にかかれる役職ではありませんけど、少しでも近くにいたいと思ってしまうのです。……諦めが悪いでしょう?」


 恥じ入るように俯く朱貴に、那梨はかぶりを振った。

 巷にいう恋というものが那梨にはまだぴんとこない。涙するほど恋焦がれる朱貴はなんだか羨ましくもあるし、彼女が余計な口を挟まず那梨の気持ちをそっと置いていてくれたように、那梨も朱貴の気持ちを尊重したい。


「那梨とも気軽には会えなくなりますわね」


 朱貴は那梨の手を取った。お互い職を持つことになり、居所も離れるのだから、今までのようには会えないのかもしれない。


「でも、理由を付けて会いに行くわ」


 那梨は、朱貴のひんやりする細い指先を握り返した。


「どうかしら。期待せず、待っていますわ」


 朱貴はやっと笑みを見せた。


「西宮には、春陽にお針子として入ってもらっています。そのうち東宮殿に呼び寄せたいですけど、それまでは頼りにしても構いませんことよ」

「春陽が? それは頼もしいわね」


 那梨と朱貴は互いの背に腕を回し、無病息災を祈り合って別れた。

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