(十一)仮山の端
立て続けに尋常でない事態に直面した那梨の頭の中は、雨後の濁流が、木の枝や細石や泥を巻き上げながら迸っているかのように取っ散らかっていた。
考えを整理しようと自室の椅子でまんじりと座ってみたものの、その試みは四半刻ももたず、那梨は居ても立っても居られず立ち上がった。
厠を口実に建物を出て迷うふりをしながら当てどなく歩いていると、裏手の塀に古ぼけた板戸が付いてるのを見つけた。ささくれだった木目に気をつけながら、わずかに隙間を開けて覗くと草木の緑が見える。宮中でも奥まった東宮殿のさらに奥に、ひっそりと庭が設えられているのだった。
那梨はすぐさまそこに避難することに決め、戸を押して滑り込んだ。殿舎から出てはならないと言われていたが、付き添う見習い女官が異議を述べないのを見るに、この庭園は女官の言った建物の囲いの範疇なのらしかった。
庭地のほとんどは下草に覆われており、足を踏み入れると新緑の葉がふくらはぎをそよそよと撫ぜてくる。
ところどころに立つ高木は、陽に向かって気持ち良さげに若葉を広げ、灌木の枝先に集まって咲く小さな花は、かわいらしく淡い青や紫に匂い、目に優しく映える。
塀の外からは分からなかったが、なだらかな丘や窪地もあり、存外に奥行きがある。
木の枝が方々に伸びている様からして手入れが間遠と見え、忘れられ気味の佇まいが那梨は気に入った。
「あなたもずっと付いているの大変よね。あの四阿で休んでなさいな。あそこからなら、わたしのことも見えるでしょ」
振り返ってそう話しかけてやると、納得したのか疲れていたのか、幼い見習い女官は那梨から離れていく。とてとてと歩いて、窪地のほとり、わずかに隆起した丘に建つ小ぶりな四阿の縁台に腰かけた。
その窪地の底は小さな池になっていて、葦が立ち、水面に丸い葉がいくつも浮かんでいる。四阿の柱には鮮やかな黄のつぼみを点々とつけた蔓が這い、涼しげな風情を醸し出していた。
那梨が奥へと歩を進めていくうちに塀が途切れ、代わりに、斜め奥にちらりと腹を見せる崖線が庭を囲い始めた。崖上には鬱蒼とした林が頭を覗かせ、煙るように重なり合った枝葉が風に揺れ、青天が遠く透けている。
崖の断面に向かって岩を積みあげて造成した築山を見上げると、ちょうど座りのよい段差があって、那梨はようやっと腰を落ち着けた。
「ここならひと心地つけそう」
少し湿りけを含んだ風が顔を撫ぜた。頬に張り付いた一筋の髪を掻き上げ、膝を抱えて顎を乗せ、ぼんやりと昨晩の太子の言葉を思い出す。
彼は、那梨が女官になりたがっていたことを知っている口ぶりだった。どこかから聞き及んで取り計らってくれたことになる。
──天継の舞をご覧になって選んでくれたということなら、嬉しいことなのだけど。
昨晩、儀式について事前に説明のないまま太子が現れたのには困惑したが、常にかりかりとしている女官が憂さ晴らしに黙っていたのかもしれない。
──それにしても、儀式というわりには随分親しく話してかけてくださったわ。
この国で玉上陛下の他に上に立つ者のいない尊い立場で、御簾越しですら畏れ多いというのに、一瞬微笑み合っただけで気持ちが通じ合った気さえした。
一方で、朱貴の話から伺える太子は冷たく、淡々とした態度で、那梨の見た太子と同一人物に思えなかった。太子という人は、実は二人いるのではないかという莫迦げた考えも思い浮かぶ。
先ほど自分が朱貴に掛けた言葉を思い返してみるに、彼女の気持ちは那梨が舞にかける気持ちと似ているけれども、どこか異質な気がした。人前で自失して泣き出してしまうくらいの激情は、那梨には想像が及ばない類のもので、だから朱貴にとっては太子の態度がさらに冷酷に感じたのかもしれない。
「うさまっ」
那梨の耳が急に声を捉え、そこで思考が途切れた。
「お嬢さま」
ぎょっとして耳を凝らしていると、岩場の陰からお下げ頭の少女が顔を出した。
「里宇!」
「しーっ」
里宇は口に指を当て、立ちあがろうとする那梨を制した。
「お付きの女官に見つかると大変ですから、静かにお願いしますよ」
那梨は頷いて、そっと岩陰から顔を出して四阿を見下ろした。幼い見習い女官は縁台に掛けたまま足をぶらつかせ、片手に集めた小石を一粒一粒摘んでは投げ入れている。
「今は大丈夫そう。里宇、会えて嬉しいわ」
「あたしもです。四六時中誰かが張り付いているし、殿舎にどこにも隙がないし、お手上げでもう会えないかと思いました。それよりもですよ、昨晩、女官たちが噂してるのを聞いて、那梨さまが太子殿下の寝所に連れていかれたって知ったんです。仕事を終えてから忍び込んでお部屋をのぞいても灯りはついていないし、戻ってもこないし心配しました。お嬢さま、太子殿下の妃になってしまうんですか」
里宇は息も継がずに言い切った。この間会ったばかりなのに、この長い科白回しに懐かしさを覚える。那梨は微笑んだ。
「それについては誤解があるのよ」
「誤解ですか?」
那梨は昨晩太子に触れた感触を思い出しかけ、慌ててそれを打ち消した。
「あれは形だけの儀式で、殿下とは何もなかったの」
何もなかったと言えるのか確信は持てないが、薄絹越しに肌を触れ合ったなど里宇にわざわざ聞かせることでもないだろう。
「でも、お嬢さまは舞子になりたいのに、そうじゃないのは嫌なのではないですか」
「それは嫌よ。でもわたしは予定どおり女官になるのよ?」
「あたしが聞いたの話とちょっと違います、お嬢さま」
里宇の眉尻が下がった。
「お嬢さまがなったのは太子付きと呼ばれる女官だと聞きました。その方たちは、太子殿下にかかわる仕事をする女官なんです」
「──そうなの?」
急に頭がずきずきと疼いてきて、那梨はこめかみに手を添えた。
「そうしたら、わたしはどうなるの?」
「任命されないと分からないですけど、でも、姉さま方の噂では高位の女官らしくて、下働きもせずに身体が疲れない仕事にすぐ就けて、楽で羨ましいとかで」
「でも、朱貴はわたしが舞子になるために女官になると知っていても、何も言わなかったわ──」
と言いながら、那梨はその考えを打ち消した。朱貴はそういう深慮をする子なのだ。那梨の意気込みからして説得は無意味と分かった上で水を差したくなかったのだと、那梨は思い至った。
「それでは、宮で舞はできないということ……?」
那梨の身体中に失意が広がっていった。 舞子になれると思ったのは一瞬の幻で、それが目の前から儚く消えてしまったことを、すぐには受け入れがたかった。涙も出ず呆然とする那梨に、里宇はしばらく何も言わずそこにいた。
「──あの、お嬢さま。太子付きの女官を下がらせてはもらえないんでしょうか」
里宇は丸っこい両手を那梨の手に重ねてきた。随分と手が赤いと思ってよく見ると、爪の根元がささくれ立ち、関節はひび割れている。屋敷にいたときに水仕事はしていなかった。連日の炊事で荒れて、治る暇もないのだろう。
那梨ははっとした。舞子になれないのに女官でいる理由はない。里宇に苦労を続けさせる理由もない。これは自分の勘違いの結果で、他の誰のせいにもできないし、してはいけないことなのだ。
那梨は里宇の手の甲を親指でそっと撫ぜた。
「そうできたらいいと思うけど、どうしたらいいのか。太子殿下はわたしが女官になりたがっていると知って、引きあげてくださったみたいなのよ」
里宇は泣きべそ顔のまま、人差し指で頭を掻いた。
「ちゃんとわけを説明するしか、里宇には方法が思いつかないですよ」
それをどうやって、と言いかけた那梨に、あっと小さな叫び声をあげて里宇が跳びあがり、那梨の手を掴んだ。
「そうです! お嬢さまは太子付きの女官なんですから、太子殿下に面会をお願いできる立場のはずです」
握った手をぶんぶんと上下に揺らし、ごつごつした岩肌の上で小さく跳ねるので、細くて長い三つ編みがあちこち揺れる。
「面会をお願いしてみるのです! 思い立ったが吉日ですよ、お嬢さま!」
お付きの見習い女官に見つかりはしないかはらはらしながら、那梨は里宇に何度も頷いて見せた。