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龍の謡の響むるを  作者: 北条槇子
第三章 東宮殿の奥庭
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(十)朝露

 時は那梨が嵐のような一夜を迎える前の(ひる)下り、礼朱貴は自室の座敷で脇几わきづきに凭れ、頬杖をついて床をじっと見つめていた。


 永璋王子。

 その名を思い起こすと、昨晩の彼の(かんばせ)が脳裏に浮かんだ。


 幼いとき父に連れられ、王子を主賓に招いて開かれた貴族の宴に顔を出したことがあった。言葉を交わした時間はわずかだったが、噂に聞くだけだった王子に会ってみたいと切望していた朱貴にとって、初恋に落ちるには充分な時間だった。あのときの笑顔と招き寄せてきた手を思い出すと、自分でも解せないくらいに胸が締め付けられる。その瞬間の彼の笑顔と手はたしかに朱貴だけに向けられたものだった。


 その後、父親は第一王女派の宗家に取り入ろうとして、永璋王子から距離を取るようになり、姿を見かけることはあっても直接話す機会は得られなかった。

 それでも遠くから見ているだけで想いは募る。年頃になって、父親が貴族筋からの縁談を持ってくるようになっても、朱貴は首を縦に振らなかった。何とかして殿下のお傍に近づいて少しでも言葉を交わす機会がないものかと、必死になって見つけたのが立太子の儀の舞子選抜だった。

 直近、父親が息巻いて持ち込んだ相手は格上の家柄。その受けざるを得ない抜き差しならない縁談が、朱貴を王妃のもとへ女官召し抱えの嘆願に走らせた。王妃の差し金により、父親はまだ朱貴の居所を突き止められていないはずだ。


 ──朱貴の意識は、昨晩の東宮殿の寝所まで舞い戻っていく。


 朱貴が居住まいを正して座しているところに、太子のお渡りを告げる声が輪唱のように幾重にも聞こえた。朱貴はいよいよと思うと心臓が高鳴って仕方なく、胸に手をおいて息をした。

 衝立の後ろから現れた太子は、朱貴の想像以上に背丈が伸び、また、想像以上に鋭い眼差しをしていた。

 朱貴は震えそうな手に力を込めて、ゆっくりと頭を下げた。これから、殿下はどんな言葉を掛けてくれるのだろう。


「お務めご苦労」


 短い言葉と共に、太子は羽織っていた赤い上衣を取ると朱貴の前に置いた。

 次の言葉を待っている間は、朱貴にとって永遠かと思われるくらい長かった。しかし、ようやく朱貴の耳に入ってきたのは声ではなく、遠ざかる足音だった。

 一拍遅れて朱貴は顔をあげた。薄着の太子が背を向けて台から降りようとしている。


「お待ちください……!」


 朱貴は急いで後を追いかけた。もたつく裳裾を捌きながら台を降りて太子の衣に縋ろうと手を伸ばしたとき、何者かに袖を引かれた。それでも朱貴は振り向いてもらいたい一心で叫んだ。


「申し上げたいことがございます!」


 宦官が朱貴の身体をがっしりと掴んで後ろへ引っ張り返してくる。必死にもがくも、宦官は朱貴がしとねの上に大人しく座るまで手を緩めてはくれなかった。

 夏にしては冷え込んだ夜、朱貴は戦慄(わなな)くくちびるを噛みながら横たわり、露の降りる朝になるのをひたすら待つしかなかった。


 ──今頃、那梨が寝所に呼ばれる頃合いだろう。


 昨晩太子の寝所で一睡もできなかったため、午の間、眠りに落ちては覚めることをくり返していた朱貴は、夜になって脇几から重怠い身を起こした。


 夕刻には王妃陛下から付文があり、──侍女の景春陽とともに推挙し、約束は果たした──とのそっけない一文が寄こされた。ならば王妃陛下の推挙を覆した者がいる。他にも女官を決める権限を持つ人など、玉上陛下か、太子殿下か――。

 楊那梨は貴族ではない。後宮に強い後ろ盾など持っていないはず。しかし、もし、太子殿下の推挙があったとしたら? あの子を慈しむおつもりだとしたら? そんな考えが浮かぶ。

 せめて太子殿下の立ち去り際に、お慕い申しあげておりますと言えていれば。


 太子に付く女官召し抱えには、初夜が必ずしつらえられる。そして主は夜の寝所に上着を残して去る。それは女官と宦官らに示す、手付きとしなかったという印。

 形だけ残る習わしというのは知っていた。それでも、普段は近づくことさえできない太子に相まみえ、言葉を交わすだけの時間はあると思っていた。次の訪いがあれば寵を受ける機会があるとも聞いていた。

 しかし、太子の態度は否だった。訪いを期待するどころか、朱貴が会うことを願い出ても叶わないことを悟った。朱貴は、気持ちが舞いあがっていた自分を呪ってしまいたい気持ちに駆られる。


 一言、自分の気持ちを伝えておくだけで望外だったというのに。

 でも、この心と身体は、どうしようもなく、彼の眼差しと慰めの言葉を求めてしまう。


 同時に、那梨を妬む気持ちが込みあげてくるのを抑え切れない。今まで、他の娘に嫉妬を覚えたことはなかった。王子の傍に他の女人の影を見たことがなかったし、女人を近づけることはないのだと確証もなく漠然と考えていた。

 朱貴は那梨と修練をするうちに彼女の舞にどんどん惹き込まれた。好ましいとさえ思う。

 那梨が女官になりたいというのも、舞をしたいだけなのが痛いほど伝わってきた。その先の女官召し抱えの意味を知らないほどあの子は純粋だ。那梨をどうにかしてやろうとは思えないほどに。そんな彼女を今さら妬んでしまう自分に嫌気がさしてしょうがなく、自己嫌悪の念でますます心は濁っていく。


 だから、翌日、厠へ向かう廊下で那梨にばったり出くわしたとき、朱貴はとっさに踵を返した。


「朱貴、あなた、いったいどうしたの」

 

 那梨は、小鹿のように素早い足取りで駆け寄ってきて、朱貴の袂を掴んできた。


「やめて」


 考えるより先に、朱貴の手は、彼女を振り払った。


「あなた、とても顔色が悪いじゃないの」


 覗き込んでくる視線は、彼女がただ、落ち込む同輩を心配しているだけなのだと見て分かる。


「わたくしはただ……永璋さまに振り向いてほしかっただけなのです」


 朱貴は、絞り出すように声をもらした。那梨に、幼い頃から傍にいた春陽にもつぶさには話したことのない本心。

 もう心に押し込んでおくのは限界だった。

 ただ、ひたすらに吐き出したかった。



 * * *



 その瞬間、向かい合う那梨は、目の前の朱貴が吐き出した告白にしばし絶句していた。


「それじゃあ、女官になったわけって」 

 ようやっと朱貴に尋ねると、

「太子殿下にお目見えしたかったから、その一心です」と、彼女は答えた。


 朱貴の目は赤みを帯び、柳の葉のような細い眉は苦しげに歪んでいる。この可愛らしさを華奢な体躯に詰め込んだような少女が太子を追いかけて宮まで来たというのか。那梨には思いもよらない動機だった。


「純粋に舞を追い求めているあなたに知られるのは、とても、恥ずかしいことですわ」


 いつもの朱貴の自信に満ちた笑みは鳴りを潜めている。那梨は衝撃を受けつつも、はたと思いついた。

 朱貴の両肩を掴んで正面を向かせる。潤んだ瞳を見つめて問うた。


「それってたとえば、わたしは舞をしたい一心で宮に乗り込んできたわけだけど、あなたもそれに負けないくらいの殿下への強い気持ちでここまで来たということではないかしら」


 朱貴ははっとしたように顔をあげ、まなこに涙を溜め始めた。

 那梨は、泣きじゃくりながら積年の思いを打ち明け続ける朱貴の肩を、抱いてやることしかできなかった。


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