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龍の謡の響むるを  作者: 北条槇子
第一章 選抜試験
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(一)家出





化爲遙草 其葉胥成 其華黄 其實如菟丘

     ――郭璞『山海経伝』中山経より




 ――そして、彼女は瑤草の姿となった。

 その葉は旺盛に茂って重なり、その花の色は鮮やかな黄、その実は柔らかな兎毛(うのけ)のよう――





 * * *





 爽やかな風のそよ吹く初夏。


 風真国(ふうしんこく)の都城、狭眉(さび)の郊外を始め、国中の農民らが苗を手に持って田植えに精を出す季節である。


 しかし、泥まみれの重労働などは、今の都城の関心を惹くものではなかった。商魂たくましい都城の人々は、迫る立太子の儀を迎える準備に熱狂していたのだ。


 というのも、隣の炎国えんこくに遊学中であった太子となる第一王子が、隣国の稀有な物を多く携え戻ったので、それを一部民草にも分け与える、とのお触れが出されたからであった。


 とにもかくにも、狭眉の住民らは都城の大通りを赤、青、緑など色とりどりの鮮やかな布で飾り立て、儀式の日を今か今かと待ちわびていた。


 その熱気こもった狭眉の人々の行きかう都の大通り、四つ角の脇に立つ大店の裏庭で甲高い叫び声があがった。


「お父さまの分からずや!」


 今しがた地団駄を踏んだのは、すらりとした身体に、若緑の上衣に淡い桃の裳を合わせて身に着けた少女、(よう)那梨(なり)。歳の頃は数え十五で、肩より長く伸ばした黒髪を靡かせ仁王立ちしている。


「那梨、宮なんて行くものじゃない」


 向かい合うのは、肉付きのよい身体にゆったりとした衣を羽織り、濃く日焼けした顔が目を引く壮年の男で、少女の父親、(よう)貞元(ていげん)である。肩の隆起を見れば、けして弛んでいるわけではなく、そこそこ鍛えられたものだと察しが付く。


「なぜなの。昔から頭ごなしに言い付けるだけなんて卑怯よ」


「もちろん、危ない目に遭ってほしくないからだよ」


「それは何度も聞いているわ。わたしは何がどう危ないのか納得できるように説明してちょうだいって言っているの」


 那梨が詰問すると、父親は後ろめたげに目を逸らす。


「もう少し大人になれば分かるさ。わたしはこれから商談に行かなきゃならないから、大人しく家で待ってなさい。今日は珍しいお土産が手に入るかもしれないよ」


 そう言って那梨の頭を軽く撫でて、脇に控えていた家領の莞尤(かんゆう)を引き連れて出かけていった。父の貞元は屋主(おくしゅ)と呼ばれ、楊家の外商を統率している。この家は都城の中でも指折りの富商で、自分が何不自由なく育ててもらったことを、那梨は知っている。


 できれば親の承諾を得てからと思い話を向けたのだが、間もなく成人を迎えるというのに、相変わらずの子ども扱いには腹が立つし、つい激しく言い返してしまう自分にも苛立つ。


 那梨は貞元に触れられたつむじの辺りを何度か手で払った。いつもどおりであれば、那梨は自室に戻り、不貞腐れて寝込むのがお決まりだった。


 しかし、今日は違う。布団の中から前の晩にまとめておいた身の回りの品を取り出し、立太子の儀に合わせた商売の準備に大わらわの家人らの目を盗んで、誰にも何も告げず裏口から家を抜け出した。


 人々の流れに逆行して西通りを大股で歩く。


「お嬢さま! 待ってください! ああもうっ、那梨さま」


 後ろから追いかけてくる少女の叫びを振り切るように、那梨は視線を地面に落としてせっせと足を動かした。


「お嬢さま、待ってくれないとあたしが怒られちゃいます。お願いだからお屋敷へ帰りましょうよ! なんでそんなに足が速いんです? 追い付くのも一苦労です」


 加速してなんとか那梨を追い越した少女は、通せんぼの格好をしながら苦しそうに息を弾ませた。彼女は、唯一家出人を見とがめた楊家の侍女、正確にいえば那梨付きの侍女である。おちょぼ口のくちびるは横一直線に結ばれていた。


「そこを通してちょうだい、里宇りう


「できません。掌主しょうしゅさまからのきびしーい言い付けですから、いくらお嬢さまの言葉でも通せません」


 掌主というのは女主人の呼び名で、楊家では那梨の母にあたる。


「里宇はいつからお母さまに仕えるようになったのよ。わたしとの約束は嘘だったのね」


 那梨はじろっと里宇を睨ねめつけた。それを見た里宇が一瞬怯んだのを那梨は見逃さず、ぱっと右へ抜けて走り出す。


「那梨さまぁ、今回ばかりはあたしの言うことを聞いてください! 掌主さまが宮仕えは駄目だと、そうおっしゃったんですってば、もうっ。お嬢さまはあとで叱られる里宇のこと、可哀想に思わないのですか……」


 背後で、里宇の言葉尻がどんどん遠ざかっていく。


 まっすぐに走って門を一つ通過すると閑地があり、その内側にもう一つ門がそびえ立っている。門番に身分と用件を告げて通り抜けざまに振り返ると、里宇が外門に駆け寄ってくるところだった。しかし、里宇のような身分の者は主人なしにこの門は通してもらえない。門柱の裏からそっと顔を出して様子を窺うと、里宇はしばらく外門の前で行ったりきたりしていた。


「ああもう。お嬢さまのせいで、怒られなきゃいけないなんて!」


 諦めの叫びとともに引き返す里宇の背中を見て、一緒に育ってきた彼女に可哀そうなことをしたという思いが湧いてきた。けれども、今日は那梨にも譲れないものがある。ぐっと堪えて再び歩き始めた。


 辺りを見回すと、戸を大きく開け放した建物が連なっている。部屋の中では、薄青色の上衣を着た針子たちが数名ずつ塊になって座り、懸命に針を動かしていた。板葺屋根を支える柱と柱の間に細紐が渡され、目がくらむような鮮やかな赤、青、緑、まばゆく光を照り返す白、あらゆる色の布という布が、市場と見間違うほど大量に掛けられ、穏やかな風に吹かれている。


 ここは王妃を筆頭に高貴な女性が住まう後宮の辺縁を成す西宮さいぐうで、女官らの仕事場であるとともに起臥寝食の場だ。


 那梨は、針子の見事な手さばきを興味津々にちらちら見ていた。針が顔に刺さりそうになるのも構わず布にかぶりつく彼女たちの息を詰める声が聞こえてきそうだ。しかし、那梨が目指しているのは針子ではない。探しているのは高札で示されていた大中庭の広場で、そこでは――。


「そこの者。何をしておる」


 厳しい声が飛んできて、那梨は首をすくめた。


 目の前に、濃紺の上衣に暗紅色の裳を着て、花模様が彫り込まれた笄を挿して髪を結いあげた女が現れた。高官を示す出で立ちを見て、那梨はすぐさま頭を下げた。


「生家から戻ったところか? 針子らの集中した神経に触るような振る舞いをしてはならないと、各所で申し送られているはずだ」


 彼女はひどく機嫌が悪いらしく、眉根をぎゅっと寄せていた。


「申し訳ございません」


「立太子の儀の衣裳を台無しにするような事故があったならば、取り返しのつかないことになる。すぐにこの場を離れなさい」


 吐き捨てるように言って去ろうとしたので、那梨は一歩近づき頭を下げて呼び止めた。礼を失していないかしらとどぎまぎしながらゆっくり言葉を口にする。


「わたしは、この度の立太子の儀に合わせ募集されました舞子に志願しに参りました。大中庭の広場に向かいたいのです」


 高官の表情が幾分和らいだような気がして、那梨は勢いをつけて続けた。頬が熱をもち始める。


「殿下を舞によってお祝い申しあげたいのです」


「──広場は、あそこの角を右に曲がれば着ける。そこで選抜試験があると聞いている。これ以上、針子らの邪魔をせず行きなさい」


「ありがとうございます」


 那梨は頭を下げてすぐさま教えられた方角へと足を向けた。弾むように歩きながら、那梨は舞を習い始めた五つの頃を思い出す。


 父親は、姉や兄に詩歌管弦の才がないことを嘆いていたところへ下の娘が舞をしたがったので、張り切って私塾に通わせてくれた。それから間もなく両親に連れられ、遠目に見た今上陛下即位式の華やかな舞は、那梨の幼心を奪った。いつもの練習場とは違って、大勢の人々の真ん中に設けられた高殿。きらびやかな衣裳をまとい、一人として乱れぬ動きの舞子ら。息づかいまでもが舞となったような、そんな光景を見たのは初めてだった。


 ずっと西宮の舞子になってみたいと憧れ、しかし、両親の強い反対を受け続けて十二歳になってしまい、見習いにはあがれなくなった。父親は舞を習わせたがったわりに、宮仕えの舞子には理解を示さなかったのだ。その年ごろといえば親の言うことは絶対で、親の庇護なしに一人で行動するなど恐ろしくて考えもつかなかった。


 でも、成人を目前にした今となっては、なんで十一歳までに行動を起こさなかったのだという気持ちばかりが膨らんでくる。


 ――今回は特別だ。


 立太子の儀では人員を増やすために舞子を募集する。舞子に選ばれたら、あの場で踊ることができる。つい先日、母と話し込んでいたお客の話では、上の方々の目に止まればそのまま女官として召し抱えられることもあるという。次にこのような大祭が行われるのはかなり先のことで、そのときには那梨はどこかの商家の掌主に収まっているに違いない。


「楊那梨、これが最初で最後の挑戦よ」


 那梨は女の子ばかり集まった広場を前に気合いを入れ直していた。



  * * *



「申し訳ありませんっ」


 その頃、里宇はというと、楊家の屋敷の一角で額を床に押し付けていた。


「里宇は力の限りお嬢さまをお止めしました。けれどもお嬢さまが──」


「もういいわ」


 掌主はゆっくりと言った。もっと怒られると思っていた里宇は、拍子抜けして顔をあげた。


「最近は父娘喧嘩が少ないと思って油断していた。それがあの子の作戦だったのかしら」


 掌主はため息をついた。


「責められるべきは那梨であって、あなたではありません。むしろ、いつもとおかしい様子を見て、追いかけてくれただけでも褒めてあげたいわ」


「でも掌主さま……」


 里宇はもじもじと指先をこまねいた。


「女官になってしまったら、ずっと宮の中で暮らしていくのでしょう?」


「そうね。でも、今回は選抜されてもすぐ女官になるわけではない。まずは静観するつもりです。これでもし女官になってしまうなら、それは御神のご領分。わたしたちの手に余ることなのでしょう」


 掌主は床に視線を落とした。


「あの子は諦めていた。でも、最後の機会にぎりぎりのところで、自分を試したくなったのね」


 柔らかい声色は、どこか懐かしんでいるようにも聞こえた。


「そういえば里宇。あなた確かもう少しで十二になる歳よね」


「はい。そのとおりです」


「なら大丈夫だわ。女官見習いになって、那梨を見張っていてちょうだい」


 里宇はのけぞった。


「しょ、掌主さま、そんな無茶な。次の見習い試験は立太子の儀の後なんじゃ」


「すぐに手配するから、うまくやってくれるわよね」


「掌主さまぁ……!」


 いざというときの行動の速さはさすが母娘、血は争えないと里宇は思い知った。

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