第一話 俺は肩ロース
俺はニック。生ける肩ロースだ。肩ロースが生きている、なんて馬鹿な事は信じがたいだろう。俺だって信じられないさ。だって、この世界では肩ロースってのは──言い方は悪いが、死んだ牛の一部なんだからな。
まあでも、俺はそんなに気にしていない。身分を証明できないからホームレスだけど、料亭とかの冷蔵庫に侵入していれば一晩は安心して寝られる。それに、近所のコンビニの優しい店長が特別に働かせてくれているのでお給料ももらっている。つくづく、俺は幸せな肩ロースだと思う。
「おはようございまーす」
冷蔵庫から出てきたばかりでまだ冷たい体を伸ばしながら、俺はコンビニの休憩室のドアを開ける。元からロッカーと机くらいしかない狭い休憩室は、店長が置く大量の書類やらゴミやらのせいでいつも物凄く狭く見える。身長、というか歩く時の高さが三十センチほどしかない俺にとっては、ダンジョンに等しい。
「ああ、ニックくん!おはよう」
大量のゴミの中から、店長が顔を出した。今日はいつもに増してニコニコしている。何だろうか。俺が少し不思議に思っていると、店長はそれを察知したのか聞いてもないのに話し出した。
「あのねぇ、新しいバイトの子を雇ったの!その子がすっごく出来がよくてね、商品を並べるのもすっごく速いし、レジ打ちももうプロかってくらいなの!」
店長はすごくうれしそうだ。俺にとっては、そいつの出来が良すぎて俺が解雇されるんじゃないかと怖くて仕方がない。
「今もね、朝から品出しやってもらってるの。そうだ!紹介しよう」
店長はニコニコしながら、その新しいバイトを呼びに休憩室を出て行った。しばらく待っていると、店長が細身の女性を連れてきた。なかなか美人な人だ。長いストレートの黒髪に、整った顔。色白の肌も相俟ってどこかはかなげな雰囲気がある。しかし、顔に全く表情がない。無表情どころではない。まるで一切の感情がないかのような、怖ささえ感じる顔だった。
「この人がね、今日から入った荒院和江さん!」
その荒院という女性は、まるで分度器で測ったかのようなとてつもなく正確なお辞儀をする。その一切の無駄やブレのない動きに、俺は少し驚いた。あくまで少し、なのは俺が肉なのに店員をやっているということが一番驚くべきことだと考えているからだ。そういえば、彼女は俺が肩ロースなのに生きているということに微塵も驚いていない。もしかしたら、気づいていないのか──。そう考えて、俺は彼女に自己紹介をする。
「はじめまして。俺、半年前からここで働いてるニックって言います。荒院さん、よろしくお願いします」
彼女は俺の方をじっと見つめる。その視線に、体が震えた。俺が感じたのは本能的な恐怖心だった。肩ロースに本能があるのかは知らないが、この荒院、という奴には近づいてはいけない気がした。俺は数歩下がって、荒院から目をそらした。
「ニックくん、どうしたの?」
顔のない俺だが、店長に俺が焦っているのが伝わってしまったようだ。
「いえ、大丈夫です!」
「荒院です、よろしくお願いします」
荒院は唐突に自分の名前を告げ、そしてまた恐ろしく整ったお辞儀をした。その冷たく、無感情な高い声は、なぜだか昔聞いたことがある気がした。
「んじゃあ、二人とも仲良くね!これからニックくんはレジ、荒院さんは品出しお願いできる?」
「OKでーす」
「分かりました」
俺が返事をすると、荒院もあわせて返事をする。俺は荒院のことを得体の知れない、恐ろしいやつだと思いながらレジ打ちに出る。荒院の機械のような顔をもう一度ちらりと見た。どうしてかやはり怖くて、なぜだか直視できなかった。
「お疲れ様でーす」
もうすっかり日も暮れたころ。俺は今日の仕事をすべて終え、休憩室のドアを開けて帰ろうとした。
「お疲れお疲れ~」
店長の声に俺は振り返り、軽く会釈して部屋を出る。夜の冷たい空気が俺を包んだ。さあて、今夜のお宿はどこにしようか──。俺は意気揚々と、レストランの多い大通りに向かって歩き出す。
「ニックさん」
つめたい声。ぞくりと背面が寒くなる。肩ロースに前後なんてないだろなんて言ってはいけない。
俺は恐る恐る振り返る。そこには案の定、例の荒院がいた。
「な、なんですか荒院さん」
「ニックさんにお願いがあります」
俺は一体どんなお願いをされるのか身構えた。もしかしたら今日食うものがないから体を半分くれとか、連れて帰ってオブジェにしたいとかそんなのかもしれない。もしかしたら、暴力団に連れていかれたりとか怪しい商売に加担させられたりとかするかもな。
「ニックさん、そこからほんの三十秒、三十秒でいいので動かないでくれますか」
俺はなんだそんなことでいいのかと若干驚き、安心した。しかし、その安堵も一瞬だった。
「混濁した世界よ、闇に覆われ、光を失った世界よ──」
声を低くし、何かを呟き始めた荒院。その瞬間、俺の足元が禍々しい紫色に光り始める。
「なんだこれ!!」
思わず叫ぶ。よく見てみれば、光を放っている部分は魔法陣のような模様を描いている。俺はただならぬ気配を察知し、それの外へと飛び出そうとした。しかし、それは無駄だった。まるで見えない壁があるかのように、いくら走っても走っても魔法陣の外に出ることはできなかった。
「クソっ……!」
俺は恨めしく思って荒院を見る。彼女は一瞬俺の方に冷たい視線をよこしたが、なおも何かを呟くことをやめない。意表を突かれた攻撃に戸惑う俺。どんどん紫色の光を右腕にまとっていく荒院。
「……我らが創造神の御力にて、彼の者を我らが世界へ送り届けよ!」
荒院が、今までよりも数倍大きな声で叫んだ。その瞬間、目の前が真っ白になった。
「何なんだ一体!!」
目いっぱい叫ぶが、どこかに伝わった気はしない。足元から地面の感覚が消えた。そして、どこまでも落ちていくような、そんな感覚が全身に伝わる。
「うわあああああああああああ!!」
断末魔のような悲鳴を上げる。
そこからの記憶はない。
涼しい風が、俺の表面に触れる。俺は何か大変な夢を見たような疲れをわずかに感じながら目を覚ました。そういえば、冷蔵庫にいるはずなのに寒くない。もしかして路上で寝てしまったのか……。
そう思いながら目を開けると、目の前に広がっていたのはどこまでも広がる草原だった。
「どういうことだ、これ……」
あまりに唐突すぎて、まったく理解できない。俺は無意識のうちに北海道にでも行っていたのか?
「やっと起きましたか」
上の方から冷たい声。声のした方をみて、俺はすべてを思い出した。
「荒院……」
そこには、相変わらず全く表情のない荒院がいた。紺色のドレスと銀の肩当をつけ、黒髪を後ろでかっちりと結い上げている。彼女はその感情のない目で、俺の方を見下ろしている。
「こちらの世界へようこそ、ニックさん。いや、お帰りと言うべきでしょうか」
そして荒院は、コンピュータで計算されたかのような完璧な笑みを浮かべた。