始まりは終わりさ。違いますか?
「いってらっしゃい。がんばってね」
玄関で靴を履いているところ母親がどこからともなく現れてそう言った。全く面倒くさい。一体何を頑張れというのだろうか。たかが入学式でそんな大仰にしなくても良いのに。あれだけ入学式にはくるなと言ったのに本人は頑に行くらしい。もう止めるのが面倒くさいから何も言わないけれど。正直こないで欲しい。
「いってきます」
僕は母に聞こえるか聞こえないかの声量で呟き思いっきりドアを開けて家を飛び出した。
曇天模様のであった。全く神という生き物は僕の事なんぞちっとも祝福してくれないらしい。通い慣れた道と反対側の駅へと赴く。気が緩めばきっと中学校の方へいってしまうだろう。僕は確かに地面を踏んでやや傾斜になっている駅までの道を歩んだ。辺りの人間は見知っている人もいるが僕はその人間たちに気づかれない様にこっそりと気配を消して歩く。今出たばかりであるのにも関わらずさっさと帰りたくなった。
駅へ着き改札を通り電車に乗る。やはり通勤通学の時間帯であるから当然の如く座席には座れない。仕方がないので隅の方で立っていた。窓から写り変わりゆく景色を見てまた日常が始まってしまったと落胆する。桜なんぞは咲いておらず生々しい自然がただ生い茂っているだけである。薄汚い住宅や意味も無く高いビルが乱立している。果たしてこんなところに住んだところで、いやまずこの地球に住んでいて一体何が楽しいのかと時折疑問に思う僕であるがそれでも豊かな現在に安住しているのだから我ながら説得力がないというか全く情けないというか。しかしどうであろうか。この嘔吐したくなる様な嫌悪感が生きている実感であり時折感じる天にも登りたくなる様な幸福というのがナンセンスな時なのではないのだろうか。と、時々考えることがある。そう考えると僕なんていう男はいつも生きている実感を感じているといえよう。いや、正直な話この車両に乗っている全ての人間が今現在生きている実感を感じているのではないだろうか。そんなことは確かめようもありはしないが。
しばらくして乗り換えの駅に到着した。僕は人波に押されて押し出される様にプラットホームに出る。階段を周りの人間と同じ足取りで駆け上がりさて、乗り換えしなくては。ふと僕の視界の片隅に小さな本屋が見えた。僕はそこによって何か本でも買おうかと思った。作者順に見ていく。芥川龍之介、安部公房、有島武郎、石原慎太郎、泉鏡花、井伏鱒二、井上靖、遠藤周作、大江健三郎、大岡昇平、開高健、梶井基次郎、川端康成、国木田独歩、小林秀雄、佐藤春夫、志賀直哉、島崎藤村、太宰治、谷崎潤一郎、田山花袋、徳田秋声、永井荷風、夏目漱石、二葉亭四迷、堀辰雄、政宗白鳥、三島由紀夫、村上春樹、森鴎外、とざっくりと僕が普段読んでいる作家たちの小説の背表紙を目で追ってみた。何か良いものは無いだろうか。と、本棚の前で悩んでいる。しかし、時間が来てしまった。何も買わずに僕は本屋から立ち去りまた同じ様な違う様な電車に乗り換えた。
いつも全く乗らない電車に乗っている者だから当然のことながら辺りを見回しても知らない人間と知らない景色だらけである。建物なんてものはどこもかしこも同じだと思っていたが割と様相が違うことに今更ながら、つまり16年間生きてきて初めて知ったのである。そうだ。僕はまだ16年しか生きていないんだ。ということを知ることがたまにある。最もっと僕は長く生きてきたはずだと思ったのにまだ16年か。絶望を味わってきたから?それとも孤独を味わってきたから?とか、そう思うたびいろいろ考えるけでど結局出る結論なんてものはあってない様なものだから考えないのが一番良いのだが、そうは言っても思考というのは中々止められるものでは無い。
しばらく電車にゆられ降車駅についた。周りの制服を着た人間も降りる。そして僕も降りる。あいつらと友達にならなくてはいけないのか。全く男も女もアホズラである。何も考えていない。いや、唯一何かを考えているとしたら男はいかに女を口説き落として我ものにしてペットの様に扱うか、女はいかに男を騙してプライドをズタズタに破壊し金を巻き上げるかという考えでもう頭は一杯になっているだろう。そういう僕は?何を考えている?女に気に入られたい。ペットのように飼われたい。とどのつまり僕もあのアホどもと同じ穴の狢ということである。そうだ、あいつらとは仲良くなれそうだ。
並木通り。学園といえば校門まで並び立っている桜並木が定番であろうか。しかし、ここに立っているのは桜では無い。なんだ、これは。イチョウかな?特に僕には樹木や花に関する知識がないからなんとも言えないがここに立ち並んでいるのは少なくとも桜ではないことは確かである。僕はその樹木の本を歩く一人で。辺りを見るともう友人同士になっている人間が多そうだ。しまった出遅れた。と心の中では思ったが大抵入学式に仲良くなったやつとは疎遠になると相場がきまっている。別に悪いわけではないが。というか、僕も早く誰か気の許せる仲間を作りたいものである。
新入生と体育館裏に集まれというアナウンスが聞こえてきたので僕は校門に入って直ぐに見える大きな体育館の方へと赴いた。正確な位置こそわからないがまあそこらの人間についていけば自ずと目的地に到着するだろうと思ってついて行ったら案の定生徒たちがない列を作っていた。目の前の大きな用紙にクラスと名前が書いてあった。それを見るに僕は三組の27番ということなので何となく三組の列であろうところに並んだ。
体育館の中は正に黒山であった。拍手とともに些かの緊張感を持って入場する。視界の片隅に母親が映った。本当に来ているようだ。少し呆れた気持ちと共にやはり嬉しい。
全く気魄のかけらも感じられない校長の挨拶。どこの校長も何故にああだらしないのであろうか。
「ええ、入学おめでとう。諸君が本校に入学してくるのを大変心待ちにしていました。云々。」
詰まらないしどこにでもあるような言葉である。本屋にある『失敗しない入学式のスピーチ』という本の内容を丸暗記したかのようである。
やっと不毛な入学式が終わり順に体育館から退場する。そしてそれぞれのクラスに散らばる。僕は一階である。なるほど教室はきれいである。綺麗というか普通である。特にこれといって特徴はなく印象に残るものもない。番号順に座る。僕は後半の番号なので窓際である。小学生の入学式の時も窓際の同じ席であったことを思い出し。後の方。一番教師に当てられるポジションである。そう言えばあの時後に高橋が座っていたな。と思い出す。早速クラスの数名の男が騒ぎ出す。どうやらもともと見知った仲らしい。然し何故こういうときは決まって男が騒ぎ出すのであろうか。何故に女は騒ぎ出さない。女はもう少し頭を使っているのだろうか。まあ男たる僕もそちらの方が賢明に思える。女は静かに隣と自己紹介なんぞをしているだけである。
僕は窓から見える景色を見ていた。住宅街である。曇天に住宅街これといって楽しいものではない。少しばかり公園の林と並木が見えるだけで後は特に何もない。
「私、…よろしくね」
と隣の女が不意に話しかけてきた。名前が聞き取れなかったが僕は女の方を見て少しばかり笑う。
「うん、よろしく」
その時視界の片隅に一人の女が映った。僕と同じように詰まらなそうに空を見つめている女である。肌が白い。白すぎて後ろの壁に馴染んでしまいそうだる。美しい。瞳が大きく澄んでいることが遠目で見てもわかる。彼女の孤独でデカダンな雰囲気に僕は一瞬にして虜になった。この時代にフェルメールが又は小村雪岱が生きていたならば彼女を間違いなく絵にしていたであろう。そしてその絵は間違えなく世紀の大傑作になっているだろう。
僕は彼女の小さな体をじっとりと眺めていた。側から見たら完全に頭の狂った色情魔であるだろうが幸いなことにあたりの人間はそれぞれのお喋りに夢中になっていた。いや、もしかしたら僕の行動に疑問を持っている人間がいるかもしれない。しかしそんなことはもはやどうでも良いだ。僕は彼女を見ている現在に大変満足しているから色情魔となじられることを受け入れよう。
彼女は色々な色をしている。しかしそな中でもとりわけ純白と漆黒とそして薄い青色が似合う女であろう。僅かに紺色のブレザーがよく似合っている。まるで彼女はここにいるようでどこか他のところに大事なものを隠しているような雰囲気である。さて、男たる僕は彼女に話しかけようか。いや、そんな事が許されるのだろうか。
僕が逡巡している間に担任が入ってきた。そして僕は落胆した。
担任が話している最中も僕はチラチラと彼女の方を見た。どこの角度から見ても美しさに変化がない。それどころか違う角度によって新たな魅力を知ることができる。
「はい、じゃあ自己紹介。廊下側の列の人から」
担任がそう言うと廊下側の一番前の席の男が立ち上がった。待てよ。彼女は今廊下側の席の一番後ろから三番目の席にいる。と言うことは名は何だろうか。あ、い。もしかしたう。それ以上は根拠はないがありえない気がする。彼女の後ろがえ、か、おであろう。うだな。きっと。
彼女の番が回ってきた。彼女は優雅に立ち上がった。その際揺れた黒い髪から微かに良い匂いがする気がした。
「古海雪です。よろしく。」
彼女はそれだけ言ってめた美しく座った。他の人間は趣味やら何やら長々と喋っていたのに彼女はそれだけである。それで良い。彼女は声までも美しかった。まるで潮騒のように必然的に馴染む美しい声である。古海雪。なるほど彼女にぴったりの名前だ。
やがて僕の番が回ってきた。彼女に少しでも興味を持ってくれたら嬉しいな。そんな思い出立ち上がった。
「水谷純一です。読書が趣味です。よろしくお願い致します。」
彼女の視線を少しばかり感じた気がした。