When the music's over
マンションの今にも壊れそうなエレベータが開き僕の視界に一気に大量の光が入ってくる。その眩しさに目を細めた。しかしやがてそれも慣れいつもの見慣れた古いエントランスが眼前に広がる。往来に出ると数人の人間が歩いていた。車もまばらで静かな朝である。僕はこのまま駅の方へと力節歩もうかとも思ったが少し遠回りしていくことにした。やや傾斜になっている道を下っていく。その時僕は思い出したかのように携帯とイアホンを取り出した。携帯にイヤホンをぶっ刺し耳にいれる。シャッフル機能で果たして何の曲が再生されるか考えを巡らせる事が少しの興としている。まず流れてきたのアメリカのロックであった。瞬く音波を聞いていたがイマイチのれず曲をスキップした。次いで流れてきたのは日本のポップソング。それもスキップした。十回ほどスキップして今度は現代音楽が流れてきた。それもしばらく聞いたがイマイチのれず仕方がないのでイヤホンを外し綺麗に絡まらないようにまきポケットに突っ込んだ。
目の前に大きな鳥居が現れる。いつも素通りであるからたまには中に入ってみよう。木々が日陰を作りただでさへ寒い早春の頃の空気を一層冷たく、どうかすれば真冬に逆戻りしたと錯覚してしまうほど寒い。まだ早すぎたためかいつもは前を通ると子供たちの煩い声が気こるのだが今いるのは厚着のホームレスと散歩中の爺さん、婆さんそれと遠くを見つめている学生だけである。僕はそれぞれの人間の目の前をなるべく無関心を装って横切った。
神社の境内を出てしばらく歩くと丁字路を右に曲がる。道幅が広くなる。するといよいよ車の往来は先ほどまでとは変わって多くなる。エンジン音、クラクションの音、排気ガスの匂い、それらで厳粛で伝統溢れるこの街はカオスの空間に成り下がっている。車っていうのは全く馬鹿なものである。故に僕は車に乗らない。免許は持ってるが車は持ってない。しかしどうだろうか。ああいうのは僕が青春の頃必死に紙媒体ではない本を否定していたにも関わらず一度ネットで読める本を買ってしまったらその魅力に取り憑かれてしまった様な感じでいざ車を買ってそれに乗ってしまったら毎日でも好んで乗る様になってしまうのだろうな。
街のざわめきを通り抜けると明治時代の有名な画家の家の前を通る。今は記念館にでもなっている様だった。しかし近くに住んでいながらも一度も寄って見たことはない。別に嫌いと言うわけでもないが、殊更興味があるわけでもない。しかしこう言う偉人は大概のちに出会い何故早く出会わなかったのだろうかと後悔する様な偉人である。
その何某記念館の向かいには広大な池が大空と並行に横たわっている。横断歩道を渡りそちらの方を歩む。風に流された水面の冷気が少しばかり堪えるので、黒いマフラーをもう一度適切に巻き直す。すると幾分か暖かくなった。ハスは未だ花は咲いていない。立ち止まってハスを眺めて見たがただ得体の知れない物体が揺蕩い動くだけであるので少々気味が悪い。見頃にはまだまだである。
そのまま池の周辺を歩きながらふらふらと散歩すると中学生を見つけた。いや、あれは高校生だな。高校生のカップルを見つける。僕は少し離れた場所から二人の小さくて僕なんかよりよほど強大な力を秘めている背中を見つめる。暖かそうに寄り添って互いに手を取り合い何を見ているのだろうか。向かいのバカでかい景観を損ねているマンションであろうか。それともビルに隠された地平線を見ているのだろうか。幸せそうな二人を見ていたら何故だか風と共に記憶が僕の脳に襲ってきた。悔いているというか何というのかは分からない。ただ今みたいな時は往々にしてやらかしてしまった過去が思い起こされる。僕はその記憶を振り払いまたも歩み出した。少しばかり未だこべりついている恥ずべき記憶(いや、正確にはそれは時として輝かしく掛け替えのない記憶)を成るべく思わない様にしながら。
大きな公園内に入るとそこら彼処に植えられている未だ坂に桜の木々を見上げる。しかし早春の頃であるので僅かに蕾が点在している様に思える。花は今か今かと春という自分の舞台を待っている。文字通り華々しく終焉を迎えるために。僕は?何の為に、何のチャンスを求め寒空の下に生きている。その果てには華々しい終焉というものを迎えることができるのだろうか。そもそも現代の堕落し切り疲弊し、時が経って死ぬのを迎えるだけの世の中に一体華々しい死なんていうものがあるのだろうか。それは昔も同様である。果たして華々しい死とは何だ。と、あまり真面目に考えていただろう。昔は。しかし、今の僕にはあまりどうでも良い様に思えてならない。生きるとは、未だに答えの出ぬこの問いはいずれ死ぬの瞬間まで繰越し続けることだろう。
しばらく歩いて大きな駅に到着した。美術館はまだ空いていないのでこのまま帰るか。いや、もう少し遠くへ行くか。そうしよう。彼女に帰りが遅れることを連絡すべく携帯を取り出した。最も早く帰るとは言ったもののいつまでとは言わなかったから暗くなるまでに帰れば連絡する必要もないのだろうが一応寂しがりやの彼女を気遣う意を込めて彼女に電話をしよう。
「もしもし」
彼女はすぐに電話に出た。
『うん、どうしたの』
「ちょっと遅くなるかも」
『そうなのね。どこいくの?』
僕は別段どこへ行こうかという事まで考えていなかった。しかし先ほどの高校生カップルを見てしまった故か追憶に僕の脳は支配されていた。昔居た場所にでも行ってみようか、と思った。
「ちょっと遠くまで」
僕は答えを濁した。何故だか正直には言えなかった。
『そう』
と彼女は不服そうにしながらも特に責めるわけでもなかった。
『気をつけてくださいね』
「うん」
そう言って電話を切った。
僕は改札の方へと歩き出した時、数人のサラリーマンと肩がぶつかって悪態をつかれた。僕は何も言わずに駅のホームへと降り立った。