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冬のあとさき  作者: 武蔵山水
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たった1日の日々

まるで緩い傾斜を下って行く様に目を覚ますと目の前にいる彼女は僕の方ではなく壁の方を向いて静かに眠っていた。僕は彼女が目覚めない様に注意を払いつつベッドから抜け出す。そして短い廊下を歩き洗面台で顔を洗い歯を磨く。廊下と寝室はまだまだ冷気が往来している。

歯磨きを終え判然しない頭を何度か震わすとようやく低速で動いていた脳が通常の速度で動き始めた。

ドアを開けると当然のことながらいつものキッチンが目前に広がっている。そして暖房をタイマーセットし忘れたと昨日微睡の中で思ったが彼女がすでにしていてくれた様だった。ありがたい。とても暖かい。

街が営みを始めるにはもうしばらく空白が必要である。3:58、デジタル時計の方をチラと見ると時間が少し動いた。見慣れているこの変哲のない空間も幾ばくか広く感じる。

僕は食卓の上に無造作に並べられている辞書やらパソコンやら汚い古本を眺めた。昨日のまま時が止まっているのである。僕はそれら静物の前に腰掛け一通り停滞した空間を見た。そしてパソコンを起動させいつもの様にキーボードを打ち始める。

パソコンのカレンダーは3/24と表示されている。納期までまだまだ時間がある。第一稿は今日中には完成させるつもりだったが無理だろう。早くとも明日、又は明後日であろう。さて、気合を出して進めよう。

4:50。ひと段落つき時計を見ると先ほどから一時間も経っていた。これは明日には終わらないな。僕は諦め冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の冷たさをいつもより感じた。

コーヒーが出来上がるしばらくの間の時間というのは全くやりたい様にはできない。僕のタイミングを僕が決めるのではなくコーヒーメーカに決められてしまっている。テレビでも見ようか。

『昨日午後7時ごろ…』『犯人の男は…』『△△内閣の…』『こちらは何と1万9ひゃ…』『学業の為休業していた□□〇〇さんが復帰する事を…』『今尚、世界中にファンが多数いる印象派の画家、フィンセント・ファン・ゴッホ。彼は激動の人生を歩んできました。彼の終焉に関する様々なことは今尚議論が続けられていますが今回研究チームが彼に関する事実を大きく変える様な発表をしました。それはCMの…』

テレビに暗黒に映る自分の姿をしばらく見つめる。全く酷く下らない。

コーヒを入れ少しづつ飲みながら昨日おいた汚い本を開く。あちこちに車線がひかれ果たしてどこが重要な部分なのだろうか。自分で引いたのにわからないとなるといよいよお手上げだ。

しばらく探してみたがもう諦めた。そして普通に読書を始めた。

『「もののあはれ」とは、万物の有限性からおのずから湧いてくる自己内奥の哀調にほかならない。客観的感情の「憐み」と、主観的感情の「哀れ」とは、互いに相制約している。「あはれ」の「あ」も「はれ」も共に感動詞であるが、自己が他者の有限性に向かって、他者を通して自己自身の有限性に向かって、「あ」と呼びかけ、「はれ」と呼びかけるのである。』

「…おはようございます」

あと数ページで終わり、というところで後ろから声がした。僕は本を閉じゆっくりと声のする方に顔を向けた。そこにはまだ些か眠そうな目をしている彼女が立っていた。彼女の特徴である長く綺麗な茶髪が少しばかり乱れている。

「純一さん、今日も早いんですね」

「うん」

僕はそう言いながら開きっぱなしだったパソコンを閉じた。そして本やら辞書やらを一箇所にまとめた。そうした後、彼女に笑みを浮かべ自分の膝を叩いた。するとゆっくり僕の膝の上に座った。

「あったかいですね」

「うん、まあね」

しばらくそうしていると彼女は眠り入ってしまった。

しばらくそうしていたらだんだんと足が痺れてきたので彼女の肩を叩く。するとゆっくりと目を開き微笑んだ。

「ごめん、寝てました」

彼女の笑顔につられて僕も微笑んだ。

お腹が鳴った。彼女はまた笑い僕の膝から立ち退いた。そして静かに食パンを取り出してトースターに入れた。彼女の小さな後ろ姿を見て何故だか懐かしい気持ちになった。

「いただきます」

彼女は元気よく目の前の皿に置かれている狐色に焼けたとトーストに向かって言った。そんな彼女を見て僕も小さな声で彼女を真似た。

もうずいぶんとこうして、二人同じ屋根の下で暮らしている事に気が付いたのはパンの固いミミが口内の奥の方に刺さった時だった。彼女は僕よりも早く食べ終わり僕が食べているのをじっくりと観察している。僕が時折彼女の目を見ると、まるで出会った日の様な熱く優しい眼差しを向ける。

恙ない話を終えた後僕たちは居間に隣同士に座ってテレビでも観ようかと電源をつけた。丁度、放送していたのは何度も見てしまう様なくだらないハリウッド映画だった。採掘場で敵と打ち合っているところであった。もうすぐ、終わってしまう。

7:30。僕はまだまだ寒い外へ出るために厚着をした。ズボンのポケットに無造作に選んだ文庫本を入れる。彼女に「どこへ?」と問われたので「ちょっと散歩を」と言い玄関へ行った。「いってらっしゃい」と彼女は言い僕にキスをした。「すぐに帰るよ」僕はそう言って彼女の茶髪を撫でた。彼女は微笑し少し顔が紅潮していた。

外はまだまだ北風が吹いていて雲の流れも僅かに早い。その為、青空がどこまでも高くそして広く膨張し続けている気がした。遥に見える富士の山も今日は少しばかり近く又、明瞭に見えている。マンションのエレベータを待っているときに見る景色がいつもより鮮やかに写った。


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