SCENE 6『欠けた月は、夢見る私を嗤っている』
ふと頭上を仰げば、月が嗤っていた。
三日月だ。
口を開かずに唇だけを歪めたように見える。暗い色に染まった空に、星々という数え切れないほどの徒党を引き連れて、ニヤニヤ笑っている。
独りぼっちになった私を馬鹿にしているみたいだ。
まだ泣いている私を嘲笑っているみたいだ。
でも、私は月に対して反論できない。する気力がない。殺されてしまったみたいに感情が止まっている。
動いているのは身体だけだ。
運命なるものから、永遠に逃げ切るために。
――どれだけ歩けば、運命から逃げられるんだろう。
夜闇に覆われた森の中。
私は自分自身に問いかけながら歩き続けていた。答えは出ない。自分を納得出来そうな薄っぺらいものは出てくるのに、本当の意味で正しい答えが出てくる気配は無かった。
やはり、私にとって都合の良い展開は起こらない。
理不尽だと感じて、ますます涙が滲み出てくる。
すぐ涸れると思っていた涙は、まだ止まってくれなかった。頭の中がガラクタだらけの部屋みたいに、感情のコントロールが出来ていない。悲しい気持ちが壊れそうなくらいに走り続けたままだった。
ふと、思い出したように自殺したくなる。
生者は生きている限り、死者に追いつけない。死んでしまった彼らの下にたどり着けないのだから。もう一度会いたい。だから、死にたくなる。
――でも、私は、生きて逃げると決めてしまった。
まだ死ねない。生きるかどうかを選択しなければいけない瞬間まで、生きなくてはならない。呪いみたいだ。
私の生は、呪われている。
足の裏に痛みが走った。
豆でも出来たのか、はたまたそれが潰れてしまったのか。どちらにせよ、痛いという事実は変わらない。
木々に背中を預けて、その場に座り込んだ。深呼吸を繰り返して酸素を取り込んでいく。少しだけ楽になったような気がした。
ふと周囲を見渡す。
ここは森の中だ。先ほどまでいた村から、街へと向かう道――から外れたところにある。
耳を澄ませると、虫の鳴き声が聞こえてくる。ぶんぶんぶん。鬱陶しい蠅の音だ。虫刺されは、いつどこでも嫌なものでしかない。こんなところ、とっとと抜け出してしまいたかった。
でも、逃げるためには仕方ない。
草の匂いを吸い込みながら、私は身体を休ませ始める。気が抜けたせいか、肉体が不調を訴えてきた。
全身が気怠い。足が棒のように動かない。汗が気持ち悪い。腹が減った。口と喉が渇いている。
気が付けば、死ぬほど疲れていた。
無理もない、とは思う。ずっと歩き続けていたのだ。何もかもを燃やしてから、休むことなく逃げ続けた。精神の安定を図ったりも、何かを口にしたりすることもなく。
ほぼ半日くらいは歩いただろうか。今が何時頃なのかわからない。時計の類いは忘れてしまった。行き当たりばったりのまま、どこともつかない場所に辿り着いてしまった。
腹の虫が鳴った。どうやら、今の私は空腹らしい。意識してみると、なるほど確かに胃の中が空っぽだ。
最後に食べたのは何だったろう。
思い出した。
雑貨屋の奥さんの手料理だ。
朝はしっかり食べなさいと言われて、無理のない範囲で舌鼓を舌鼓を打ったことを思い出す。美味しかった。
――でも、奥さんは死んでしまった。
もう奥さんの料理は食べられないんだな、って、どうしようにもなく悲しくなってくる。本当に悲しかった。
悲しい。それは本当の感情のはずだ。私は悲しい。悲しんでいる。胸が痛む。心臓が締め付けられたみたいに苦しい。だから、きっと悲しいんだと思う。
だけど、どうしてだろう。
私は、私自身の感情が嘘臭く思えた。悲しいという気持ちは本物なのに。今感じている痛みは本物のはずなのに。どこか客観的に感じているところがあるような気がして。
深く息を吸う。
もう少しだけ落ち着いたような気がして、欠片ほどの正気を取り戻す。どうやら、今の私は空腹や疲労でおかしくなっていたらしい。感情に振り回されるのも仕方なかった。
何か食べるものはないだろうか。
色々と収納可能なアーティファクトの中身は空っぽだ。慌てていたので何も買っていない。予備の食糧や水くらいは入れておいた方が良かったかもしれない。もう遅いけど。
こうなっては仕方がない。
わずかな希望や奇跡にかけて、周囲を見渡してみる。夜目がきく方なので、ぼんやりと景色が見えた。
そこには夜闇に染まった植物しかなかった。数え切れないほどの樹木と草だけ。他には何もない気がする。
いや、よく見ると白いきのこらしきものがある。疲れた身体を引きずって手に取ってみた。臭いを嗅ぐ。毒きのこっぽい怪しい白色なくせに、割と良い匂いがする。
ちょっとだけ囓ってみた。毒きのこ特有の苦みは感じられない。食べられそうな気がする。見覚えがあるし。
気が付くと、食べていた。
一口で頬張って、咀嚼する。私の冷静な部分が、おいおい本当は毒きのこだったらどうするんだ、死にたいのか、死ぬつもりなのか、というか腹減ってるからって、怪しいもの食うなよな、とかツッコミを入れてきたけどもう遅い。
きのこは割と美味しく感じられた。匂いも悪くない。抵抗感なく、ごくんと飲み込む。小さじ程度に胃袋が満たされた気がするようなしないような。どちらでもいい。
今の私は、どうでもよかった。
問題ないきのこでも、毒のあるきのこでも。この空腹を少しでも癒やせるのならば。
ちょっとやけくそになっている。
それに、毒きのこを食べるのは少し慣れていた。
学生時代に薬作りの役に立つのではと自分自身の身体で人体実験じみたことをしたのは良い思い出だ。若かった。
――他にも毒きのこを食べたことがあるけれど、そっちは思い出したくない。
何はともあれ、少し落ち着いてきた。余計なことを思い出せる程度に余裕が戻っている。死ぬほど空腹なのは変わらないけれど。
落ち着いたら、気が滅入ってきた。
これから私はどうすれば良いんだろう。答えの出ない問いかけが、脳にへばりついたみたいでほどけない。
何も考えていなかった。
何も計画なんか立てていなかった。
ただ、もう誰もいない、あの場所にいたくなかったから逃げただけ。逃げたいという気持ち通りに、身体の方が限界まで動いてくれただけだ。
その先のことなんて、何も考えていない。
手にしていた未来は、もう消えてしまったのだから。
「……っ!」
気が付くと、両手が震えていた。
とても、寒い。
指先から爪先までが、骨の髄まで凍り付いてしまったみたいだ。冷たくて寒い。壊死してしまうんじゃないかって気がしてくる。さっきまで暑いと感じていたのに。
思い出して、現実を直視してしまったからだろうか。
もう私の故郷は無い。
気を許していた知人たちも、好きだった家族も、愛していた人も、愛そうと決めた我が子も。
もういないんだ。
私の未来だったものは、もうどこにも。
そうだ。あれは未来だった。
苦しい経験を終えて、救いを求めるように死なないようにしているうちに手に入れた、あれは、私のものだった。
私の望んでいた未来だった。
願いだった。
希望だった。
救いだった。
手放すつもりのない、宝物のような現実だった。
でも、もうそれはどこにもない。
――今の私の現実は、寒くて苦しかった。
「……っ」
何もかもが寒かった。全身が氷になったみたいだ。指が動かない。痛いくらいに目眩がする。世界がぐるぐる回ってる。平衡感覚を失ったみたいだ。気持ち悪くて吐きそうになる。
それもそうだ。
何せ、この現実は狂っているのだから。いきなり死ぬほど寒くなるのもおかしくはない。世界は弱者に厳しいのだから。この周辺の気候が、私だけを痛めつけるように急激に気温を下げてもおかしいことじゃない。
あはは。そう考えてみると、この世界に神様がいるみたいじゃないか。どこか遠いところから世界を操作して、私を嬲り者にしてる。そうじゃなきゃ、いきなり滅茶苦茶寒くなるなんてあり得ない。つまりはいるんだね。神様。
どこにいるのかなぁ、神様。
いるんだったら返事して欲しいなぁ。男の子かな。女の子かな。私と同じ女の子だったら、両足潰して二度と子供産めないようにしてやる。男の子だったら、ちょん切る――と思ったけど潰すことにしてあげよう。それで許してあげるんだから、大人しく出ておいでよ。
ねぇ、神様。早く出ておいで。
なんだか、頭の中が痒いんだ。蛆虫とか蚯蚓とかが、頭蓋骨の内側にいるみたい。うねうね、ぐにょぐにょ。脳みそを食われてる気分。どこか懐かしい気がするのは錯覚だ。記憶でも食われているのかもしれない。
だから神様が出てきてくれたら万事解決なんだ。復讐は記憶が継続しているうちにやっておくに限る。私が私でいられるうちにやっておきたいんだ。
だからかかって来いよ、神様。
ぶっ殺してやる。
徹底的に潰して、痛めつけて、苦しませて、生きていることを後悔させてやる。生きてなかったら、それはそれだ。何にせよ絶対に這いつくばらせてやる。
そして、神としての力を全部奪って、時間を巻き戻すこととか、人を生き返られるようになって。
そんなことが出来るようになったら、きっと、きっと――。
「チーサさん」
――愛した人の声が聞こえた気がした。
凍え死にそうな自分自身を抱き締めながら、顔を上げて、閉じかけていた瞳を開けようとする。
少年、そこにいるのかい?
「チーサさん」
開いた視界の中に、少年の姿があった。
私のすぐ目の前にいる。
手を伸ばせば届きそうだ。
ああ、ひょっとして、本当は死んでなかったんだろうか。死んでなかったから、こうして私を迎えに来たんだろうか。全部が全部、私を驚かそうとした芝居だったのではないか。
そうだったら、酷いじゃないか。
「チーサさん」
なんてね。
酷い冗談とは思うけど、別に怒ったりなんかしないよ。生きているんなら、それだけで許してあげる。
絶対だよ。約束だってするよ。
だからさ、他に何か言って欲しいな。
――本当に生きているのなら。
「チーサさん」
ああ、うん。わかってた。
これは夢だ。夢なんだ。
私にとって都合の良い幻覚なんだ。
記憶の中から自動再生された虚構でしかない。
薄々わかってたけど、泣きたくなるくらいに苦しいよ。
――ああ、また寒くなった。
「――」
気が付けば、息が出来なくなっていた。
でもあんまり苦しくない。どうしてだろう。私が変なことでもしたからだろうか。変なことって何だろう。
きのこは食べたけど。
そういえば、あの白いきのこは一体何だったんだろう。
ちょっと見覚えがあるようなないような。どっちだ。記憶を引っ張り出そうとしてみる。
でも、だんだん眠くなってきた。意識が少しずつ止まっていく。このまま死んじゃうような気がするほど穏やかな感覚だった。ああ、でもその前に思い出さないと。
思い出せ。眠い。眠いけど思い出さないと駄目だ。でないとおちおち眠れない。でも眠いのは仕方ない。おやすみしたい。幸せな夢を見たい。だから、その前に思い出さないと。何を思い出さないといけないんだっけ。忘れそうだ。
そうだ、こういう時は嫌なことを思い出そう。そうすれば眠気とか吹き飛んでくれるかもしれない。ちょうどそれっぽい記憶のストックも思い出してきたし。不愉快だけど。
本当は思い出したくないけど。
あれはたしか、少年と出会うより前の出来事で、どんな嫌なことがあったのかというと、たしか、たしか。
思い出さないと駄目?
駄目なら、嫌だけど仕方ないね。
麻薬中毒者の巣窟に連れてこられて、乱交パーティーの準備と称して、怪しげなきのこを食わされたのが、嫌な思い出で――。
あ、思い出した。
つい先ほどに私が食べたのって――あの時に食わされた幻覚きのこと同じやつだったわ。
……思い出すのが遅いっての、私の馬鹿。
「――」
そこで、視界が真っ黒になった。
まるで失明したみたいだ、と思う。
少年は、こんな世界を生きてきたんだろうか。周囲を見渡そうとしても何も見えない。全てが塗り潰されたみたいだ。
そして、私は夢を見に行くみたいに、底の見えない眠りの海に沈んでいく。もう一度浮き上がることが出来るかはわからない。でも、そうなっても良いような気もした。
ただせめてと。
意識が完全に途切れてしまう前に、願う。
(また、君の夢を見たいよ――少年)
そして、私は夢を見る。
あの日、あの夜、あの瞬間。
脳内に保管されている情報を断片的に抜き取り、それらしいものに構築した記憶――夢と呼ばれるものを、私は見ていた。目を閉じて、眠りの中で。
夢だとわかっているのに、見続けている。
少年と初めて結ばれた後に、どんな言葉を交わしたかを。
「チーサさん。僕たちが、初めて出会った時のこと――覚えてますか?」
性行為を終え、息を整えながら気持ちを落ち着かせたところで、少年は脈絡も無くそう言った。
思い出話でもするみたいに。
或いは、秘密を告白するみたいに。
少年は私の反応を待たずに言葉を続けていく。
「僕は、覚えてます。目に見えなかったけれど、あの時のことを、ハッキリと。チーサさんが何を言って、何を言わなかったのか……今でも、ずっと」
そして、少年は語り出す。
自らの醜さを剥き出しにするみたいに。
「ねぇ、チーサさん。僕はですね、チーサさんと出会うまで、ずっと息苦しかったんだ――」
――それは本当に、息苦しい話だった。
僕の人生は、ずっと息苦しいまま終わるのだと思っていた。
正常に呼吸しているはずなのに、酸素が足りないみたいに少し胸が苦しい。優しく首を絞められているような感覚が、いつも纏わり付いてくる。もどかしい。でも、痛みというほどでもない。曖昧な痛み。
いつから、それを感じるようになったのか。
原因を探ってみようと記憶をほじくり返す度に、流行病で光と彩りを永遠に失った時のことを思い出す。苦い気持ちごと思い出すって、わかってるのに。
あの日を迎えるまで、僕には当たり前のように光と彩りがあった。
目に映るもの全てに、形と色があることが当たり前だった。
母さんの作る食事。雑貨屋のカウンターにある椅子。本の背表紙。宝石のように綺麗なポーション。使い方がわからない奇妙な形をしたアーティファクト。
外側から見た自宅。通りがかりに挨拶してくる住民の顔。踏みならされて雑草の気配がない土。村の所々に見える成長しきった雑草。誰かの家の庭に生えている木苺。たまに見かける虫の死骸。村の近くにある森。風に揺られる洗濯物のシーツ。
僕にとって、目に映るものは全てだった。
これが世界なんだ、世界の一部なんだ、と目を開ける度に実感するから。世界には色と形がついている。
だから、色と形がある僕も、世界の一部なんだって。
僕も生きているから色があるんだって。
それが当たり前なんだって。
――あの日までは。
目が覚めた時から、苦しかった。全体的に頭が痛くて、視界はぐるぐると回り続けていて、胸は締め付けられたみたいで、喉は熱くてたまらない。
最初は、誰かによって火炙りにされているんじゃないかと思っていた。本当に燃えているわけでもないのに。きっと、あまりの苦しみに、大げさに感じただけなんだと思う。
でも、死ぬほど苦しかったのは本当だ。
もしかしたら、今ここにいる僕は幻覚で、本当はとっくに死んでしまったのかもしれないけれど。
冗談だって、言い切れない。
あの時、僕は死んだと思ったんだ。苦しみが延々と続いて、現実を見ようとしても目が開かなくて、何かを食べようと口を開いても胃が拒絶する。痛みと吐き気を交互に繰り返しながら、僕は死ぬんじゃないかって怯えていた。
悪い夢も見た気がする。
僕は死んで魂になる。魂になっても意識は残ったままだ。いつの間にか、僕はぷかぷかと雲みたいに宙を浮いていて、僕の亡骸にすがりついて泣き続ける両親を見下ろしている。声をかけようとしたけど届かない。
やがて、神様の使いとやらがやって来て、「若くして死ぬなんて可哀想に」と一方的な善意を押しつけてきながら、記憶を抹消させて、別の何かに転生させようとしてくる。
僕は、助けて、助けて、と悲鳴を上げようとするが誰にも助けて貰えない。二度目の死を経験するんじゃないかと思えて、僕は神様に祈りを捧げる。助けてください。僕はまだ死にたくないんですって。
何かに祈り続けていたところで、夢は終わった。
唐突に。
――そして目を覚ますと、僕の視界は真っ黒に塗り潰されてしまっていた。
最初は、まだ深夜なのではないかと思っていた。太陽が沈み、世界が夜闇に覆われたのだと。ランプなどの明かりもついていないから、こんなにも視界が真っ暗闇なんじゃないかと。逃避するみたいに思っていた。
でも、違っていた。
暗闇に慣れようと目を開いたのに、全然何も見えてこない。本当に何も見えなかった。いつもなら輪郭くらいはなんとなくわかってくるのに。
朝を迎える度に、よく耳にする鳥の鳴き声が聞こえてきた。やっぱり朝だ。もうすでに太陽が昇っている時間帯だと確信する。でも、それならどうして僕の視界は真っ暗なんだろう。何も見えないや。
そんな逃避を磨り潰す現実が近付いてくる。
誰かの足音と、扉を開く音が聞こえた。
どこの扉が開いたのかわからない。
僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。
母さんの声だ。
でもどこにいるんだろう。
真っ暗でわからないよ。
今度は父さんの声だ。
二人ともどこなんだろう。
おーい。僕はここにいるよ。おーい。おーい。どこにいるんだよ、父さん母さん。
どこだ。どこにいるんだ。僕はここなんだ。ここにいるはずなんだ。いるのなら、ちゃんと教えてよ。このままじゃ、独りぼっちになりそうなんだ。だから、早く。父さん。母さん。僕はここだよ。
「――」
また、僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。
誰かが僕の肩を掴む。強い力だ。指先からほんのり温かさが伝わってきて、少しだけホッとする。でも、力が強すぎて少し痛いよ。大丈夫。今起きたから。
ところで、今僕に触れているのって、父さんと母さんのどっちなんだろうか。どっちが正解なんだろう。早く答えて欲しいな。
「――」
また、僕の名前を呼ばれた。
そこで僕は夢から覚めたみたいに、逃避から引きずり出される。眠り続けたくても、身体がそうしてくれないから。
どうか、と少しだけ思った。
悪夢でも良いから、僕を眠りから覚めさせないでくれと祈る。願うように。救いを乞うみたいに。
都合の良い眠りは、訪れてくれなかった。
そうして、僕は見ていた世界の一部を永遠に失ってしまったのだ。もう取り戻せないくらいに、永遠に。
――永遠。
それからの僕は、出口を求めて永遠に彷徨い続ける迷子の子供みたいな存在になったんだと思う。
生きているだけで息苦しいと感じるようになった。
深く息を吸って吐いて、新鮮な空気をどれだけ取り込んでも、締め付けられているような苦しさが止まらない。
視覚を失ってから、僕は色んな人に迷惑をかけてきた。父さんに母さん、かつて友達だった子供たちや、知り合いの近所の人とか、そういった両手の指で数えられないくらいの人たちに。
心配をかけられたり、親切にされたりした。甘くて柔らかい優しさだった。まるで砂糖菓子みたいに。
でも、僕はその優しさが怖かった。こうやって優しくされていると、いつかしっぺ返しがあるんじゃないかって。
風の噂で聞いたことがあった。
僕を失明させた病気は、他の集落でも流行っていたんだと。それの被害は段々拡大していき、数多くの健常者を視覚障害者に変えていったのだと。
そして。
僕のような障害者と化した子供たちを、人里離れた限界集落では殺すようなことが起きたのだと。
事件を扱った新聞記事に出ていたネルガ博士曰く、田舎では情報の伝達が遅く、正確な情報が入ってこないことがあり、伝わったところで偏見を拭うのは難しいと。
そして、ただの病気を、神のような存在の祟りか呪いであると本気で信じている者が、まだいるのだと。
ある集落で、子供を殺した老人がこう言ったらしい。
「神様はわしらを区別してくださったのじゃ。光を失った者と、そうでない者と。失った者は、呪われておるのじゃと、殺した方が良いのだと、そう教えてくださったのじゃ。ああ、ありがたや。ありがたや。やはり、神様はわしらを見守ってくださっておる。神様が呪われし者を、殺すべき者を、わかりやすく選別してくださったおかげですじゃ……本当に、ありがたや」
老人は、理性を失っておらず正気だったそうだ。
他の集落でも、このような老人が数多くいたらしい。多くの人間が罰せられたそうだ。
幸いなことに、僕が住んでいるこの村には、そんなことを言う老人はいなかったけれど。
とにかく、僕は生き延びたのだ。
――でも、生き延びてしまった、とも思う。
あれから色んな人に優しくされる度に、僕は申し訳ない気持ちばかり浮かんでくるようになった。
失明した子供に対して、色々な感情に負荷をかけながら、壊れ物に触れるみたいに、優しく包み込もうとするみたいに、優しくされてきた。
僕にはもう、普通の子供みたいに何も出来ないのに。
何も見えないということが、こんなにも不安になるだなんて知らなかった。感覚できる情報が足りなすぎる。僕がこの世界にいるのだろうかどうかさえ、時々わからなくなった。
もう僕は、まともに生きられないのに。
父さんと母さんは、僕に色々と教えてくれた。今では、そこそこ一人でも日常生活を送れるようになったと思う。
でも、それでも誰かの手を借りなきゃいけなくて。
僕は、ますます申し訳なくなってしまう。本当なら一人でも生きていけるようになるのが普通なのに。
僕の知っている大人は、だいたい一人でも生きていける人たちばかりだったから。
それに比べると、僕はいつまでも子供のまま。
なのに、優しい人は、優しいままで。
僕は、真綿で首を優しく絞め付けられているような、そんな人生を送っているような気がしたんだ。
そうやって、申し訳ない気持ちを抱えながら、息苦しい人生から目を逸らしていた――そんないつも通りの日だったかな。
チーサさんと僕が初めて出会ったのは。
「――うん、私も、覚えている」
「私は、ほとんど全てを捨てて、逃げてきて、とりあえずどこかに住まないとと思って、この村に辿り着いた。それから、村長さんに、空き家を貸して貰えるようになって」
「それから、ご近所にある雑貨屋の店長さんに出会って、奥さんにも出会って。それから、それから――」
「あなたに、出会った」
――あの時、私は運命に出会った。
――あの時、僕は運命に出会った。
「私は、久々にまともそうな少年に出会ったなと思っていた。今までが今までだったから」
「ここから逃げるまでに見てきたのは、私を嬲りたがってる人たちばかりで、なんというか」
「――子供みたいに笑う、男の子を久々に見た気がした」
僕は、子供連れの女の人が、こんな村に来るなんてと思っていた。少し怪しいと思っていた。
でも、それも挨拶の時の声を聴いて、怪しいとはあんまり思えなくなってきた。今でもわからない。
――どうして、あの時、彼女は僕と似ているかもしれないって思ったんだろう。
「それから少年と関わるようになって、ちょっとずつ仲良くなってきて、だんだん心地よくなってきた」
「少年は自覚してるのかな。君は、私と一緒にいる時に、ふと楽しくなった時に笑うんだ。くすくすって、日だまりみたいに笑っちゃうんだ。まるで楽しそうに。優しそうに」
「私は、その笑顔が好きだった。私も釣られて笑いたくなっちゃうくらいに、柔らかくて、胸がぽかぽかとあったかくなって、好きだなぁ、好きなんだなぁ、って自覚しちゃうんだ」
「だから、少年は男だけど、私にとっては少年は少年で」
「恋かもしれないって、思ったんだ」
チーサさんと一緒にいる時、僕は独りぼっちにならないって言われているような気がした。
チーサさんは、僕みたいだった。どこか大事な箇所が深く傷付いているみたいで、時々声が震えていたりして、バレバレの空元気で平気そうに振る舞っていた。
どんな苦痛を受けたのか、僕にはわからない。わかりたいと思うけれど、本当の意味ではわからない気もする。
だから、チーサさんは怖がっていた。大事にしようと思っている赤ん坊に対して。愛したいけど、愛して良いのかわからないみたいに。
それでも、感情をグチャグチャにさせながら、愛そうと頑張ってて、怖いのにそれをどうにかしようとしていて。
僕は、彼女をほっとけないと思ったんだ。
――そして、私たちは結ばれた。
――そして、僕たちは結ばれた。
「ねぇ、少年。私はあなたと結ばれた時に、本当の意味で運命を手に入れたんだと思ったよ。好きになって、好きだと思われて、抱き合って、一つになって」
「私はやっと、幸せになれるんだって思った。ハッピーエンドで終わる物語みたいに」
「少女チーサは幸せでした」
「めでたしめでたし、って終わるような、そんな運命を」
僕もそう思っていた。
僕たちは出会って、結ばれて。
これからも、ずっとずっと幸せに生きていく。
そういった運命を手に入れたんだって。
本当に、そう思っていたんだ。
――でも、僕はもう死んでしまった。
「――やめてよ」
チーサさんが、制止する声が聞こえてきた。
自分の内側から聞こえてくる。心臓からか、或いは脳からか、はたまたそれ以外のどこかからか。
いずれにしても、もうどうしようにもない。
都合の良い夢は、もうおしまいなのだから。
「やめてよ、少年。やめて……」
本当の僕は死んでしまった。
ここにいる僕は、ただの幻覚だ。
怪しげな幻覚きのこが記憶から再構築した、もう終わってしまった都合の良い夢でしかない。
そうだ。チーサさんは、夢を見ていた。
現実から目を背けるみたいに。
「やめて……もう、やめて……」
チーサさんは、泣きじゃくる。
子供みたいにうずくまって、自分自身の身体を抱き締めて、感情に振り回されながら、泣けるだけ泣こうとしている。
もうとっくに涙が涸れたはずなのに。
「やめてってば……」
やめない。
やめないと、チーサさんはここで止まってしまう。
それはいけないことなんだ。
チーサさんも、本当は自分でもわかっているはずだ。
あなたは、まだ死んじゃいけないんだって。
「やだよ、もう、やだ……!」
チーサさんが、子供みたいに首を横に振る。駄々をこねる子供みたいに。
悪夢のような現実を見たくないからこそ。
「だって、もう少年はいないんだ!」
そして、呪いみたいに叫んだ。
それはどこか心が破裂する音のようだった。
「私が好きになったあの子は、あの少年は、もうこの世にはいない! もう二度と触れられない! 抱き締めてくれない! 言葉を交わしてくれない! 笑ってくれない! もういないんだ! いないんだよ、本当に、もう、どこにも、いないんだっ!」
それは泣き声のようで。
「いないんだぁ……」
やがて、もう逃げられなくなって、萎んでいった。
夢を見ていられる時間は終わる。
強制的に現実に戻るのだ。どれだけ酷い悪夢でも、目が覚めたら終わってしまうように。
「待って、待ってよ、置いてかないで……」
これから彼女は、少年のいない世界のどこかへと歩いて行かないといけない。生きていかなくちゃいけない。
でも、僕は祈ったり願ったりしながら信じたいと思う。信じて送りだそうと思う
チーサさんが幸せになれますようにって。
「わたしをひとりぼっちにしないで!!」
大丈夫だよ、チーサさん。
――少年と結ばれた証が、まだ残ってるんだから。
そして、私は唐突に目が覚めた。
頭が痛い。視界がぐるぐる回っている。世界が回ってるみたいだ。自分がどこにいるかわからない。まるで迷子だ。
吐き気がしたので、その場でえずく。げろげろげろと女の子が出しちゃいけないものを出そうとした。出ない。無理して吐く。少し遅れて、きのこらしきものの残骸が出てくる。
それをぺっと吐き捨てて、踏みつけて、靴の裏でぐりぐりと地面にめり込ませていった。これでよし。
いや、よくない。
頭の中がくらくらしてきた上に、腹の中が空っぽで死にそうになってきた。
思い出した。私は空腹だった。
空腹だったせいだろうか、さっきまで夢を見ていたような気がする。現実から逃避しようとしていたところを蹴り飛ばされたような。幸せなことを反芻していたような。
あのまま夢の中に沈んでいけば良かったかもしれない。そんな気が多少する。根拠はないけど多分。
もし、今の状況から逃げ切ったところで、どうにかなるものだろうか。
わからない。自信もない。不安しかなかった。
ただ、それでも、私は生きると決めてしまったのだ。
まだ死ねない。死ぬわけにはいかない。
ふと思うことがあって、下腹部をさすった。少年との証はここにあるだろうか。わからない。でも、信じたい。
私は立ち上がった。
とにかく腹が減った。暗闇で何も見えないけれど、何か食べないといけない。
少なくとも、きのこはアウトだと悟った。幻覚きのこに誤爆しそうなので。昼間ならともかく、夜に探すのはキツい。真っ暗だし。
灯りの魔法とかあればなぁ。
あれ、でも、今の私って魔法使えたはずでは。
……どうやら、今の今まで自分の使える魔法を忘れてしまっていたらしい。うっかりであった。あはは。
――私の間抜け。
さてさて。気を取り直して、食えるものを採取することにしよう。灯りの魔法を発動して……おおっ、久々に使ったけど、結構明るいなぁ。
そういえば、今の私は回復魔法を使えるのだろうか。思い出そうとしてみるけど、上手く浮かんでこなかった。頭のどこかが壊れたみたいに、断片的なものしか出てこない。
代わりに解毒に効く魔法を思いだしたので詠唱する。今日はあと何回魔法が使えるかわからないくらいに、へとへとの身体だったけれど、上手く発動してくれた。
体内に残っていた幻覚きのこの成分が抜けきった……ような気がする。少しだけ楽になったのは確実だった。
肉体を回復させる魔法で、今思い出せるのはそれくらいだった。傷を癒やすようなものが出てこない。
魔法を使わなかった間に忘れてしまったのか、それとも以前受けた拷問の際に脳が傷付いたのか。後者のような気がする。酷い気分だ。
ふと、もしもあの時に回復魔法が使えたら、と思う気持ちが沸き上がってきて――次の瞬間には萎んでいった。
もう終わってしまったのだから。
あの人たちは、とっくに死んでしまった。私は間に合わなかった。全ては手遅れで、どうしようにもない。
それで、この話は、もうおしまいなんだ。
――理不尽だと思うくらいに。
「――おい、なんだ、あの光?」
誰かの声が聞こえた気がして、その方角に視線を向ける。
灯りの魔法がバレたんだろうか。いや、でも私は物陰に隠れてるので、お尻が光る虫……じゃなくて、蛍か何かと勘違いしてくれるはず。蛍が出てくる季節じゃないけれど。
「蛍か?」
「んな季節じゃねぇよ」
ほら見ろ。
バレるのも時間の問題だと判断して、それまでにと私は彼らの観察を開始する。開き直りであった。
「なんだよ、薄気味悪い」
「さっき村に向かった奴らの生き残りか?」
そこには馬車に乗った男たちがいた。数十人くらいがひとまとまりになって動いている。
そのうちの何人かには見覚えがあった。
かつて私を嬲り者にした――まぁようするに人間のクズ。
「ひょっとして、幽霊だったりして」
「やめてくれよぉ、ただでさえ×××××ちゃんとやれなかった上に、リーダーたちが殺されてるって確認したばかりなのによぉ」
どうやら、私が殺した連中の後続だったらしい。様子を見たので退却しているといった感じだ。
それはそれとして、彼らの馬車の中に何かがあるのが見えた。あれは……食糧だろうか。
「せっかく食糧詰んできたのに、×××××ちゃんぶっ壊しパーティー出来なかったなぁ」
「家に帰ったら、別の奴隷でやれよ」
やっぱり食糧だったらしい。
それなりの量があることから、飲み食いしつつ、長時間やらかすつもりだったらしい。
やっぱこいつらの倫理観狂ってる。死ねば良いと思うよ。
「ひょっとして、あの光って×××××ちゃんだったりして」
「もしそうなら、パーティーの開催だな」
「そうじゃなかったら、男ならぶっ殺そう。女ならいたぶってやろうぜ、ひゃっはー」
それにしても、彼らの悪趣味っぷりは相変わらず吐き気がする。以前と比べても変わっていないようだ。
何で彼らが生きてるんだろうって、腹が立ってきた。どうして村人たちじゃなくて、こんな人たちの方が長く生きてしまうんだ。理不尽だ。
でも、ま、いっか。
私は、今日の魔法があと何回か使えるか確認する。うーん、十回くらいはやれそうな気がする。勘だけど。
ついでに攻撃に使えそうな魔法も思い出してみる。そちらの方は思った以上に、すらっと記憶から引き出せた。
つまり準備は整ったわけで。
――私のやるべきことは、もう決まっていた。
「私の飯よこせ、死ね」
こうして、私は魔法を駆使してクズ男どもをぶっ殺し、手を血で汚しまくってから、久々の飯にありついたのであった。
罪悪感はない。微塵も。ちっとも。
達成感は……ちょっとだけあった気がする。
でも、そんなことはどうでも良かった。
私には、決めたことがあるのだから。
「――私は生きる」
まだ死なない。
まだ生きてみる。
下腹部をさすって、一縷の望みに縋りながら。
「それで良いよね? 少年――」
――私はまだ、死んだ少年のことを愛している。