SCENE 7『もうとっくの昔に狂っている』
一夜明けて目を覚ましても、まだ夢を見ているような気がした。今まで見ていたもの全てが夢で、目が覚めてから本当の現実が始まるのだと。
なんて、冗談みたいなことを思った。
本当はわかってる。
夢は終わったばかりなのだから。
「う……く、うぅ……」
身体を起こして背伸びをする。森の中にある土の上に寝転がっていたせいか、身体中がバキバキだ。我ながら、よくもまぁこんな場所で眠れるなと自分自身に呆れそうである。
凄く疲れていたからだと思いたい。
「ふぁ……」
その証拠に、大きな欠伸が出た。二度寝を誘う眠気が迫り来る。眠り足りないのか、はたまた疲れが抜けきっていないのか。両方かもしれない。
本能が嫌がってるけど立ち上がる。もっと大きめに背伸びをしたりして、身体中の凝りをほぐしながら、眠気を振り払っていく。とっとと起きろよ、私。
完全に覚醒した……ような気がしてきた。
ちょっとズレかけていた眼鏡の位置を直しながら、荷物収納用のアーティファクトを起動する。
昨夜まで、このアーティファクトの中には何も入っていませんでした。空っぽ。すっからかん。どっかの言語だとエンプティー。ようするに虚無ってことです。
それがなんということでしょう。
今となっては、食べられそうな加工済みの食品や水などで溢れそうではありませんか。これでもう空腹の心配はありません。
いやまぁ、水に混じって、大量の酒瓶が混じってるけど。
それはまぁ、いずれどうにかするとして。
あとは財布の中身も割と増えた。
これらは、昨日クズどもをぶっ殺して得たものだった。ようするに盗品である。
まぁ、以前私を嬲った時に散々搾取してくれやがったので、これで借金はチャラと言うことにして、許したということにしてやろう。もうぶっ殺したけど。
とにかく、これでしばらくは飢え死にしなくてすみそうだ。
私は朝食――パンに肉とチーズを挟んだ簡単なもの――を済ませながら、これからのことを考え始める。どうしようとか、どうやって生きようとか。
少し考えて、人目を避けるように逃亡生活を送ることにした。
昨日、街で私についての噂話を聞いた時から、薄々と思っていたのだ。私の存在がバレている。
かつて私は、度重なる陵辱に耐えられなくて逃亡した。その時に出来るだけ痕跡を残さないようにしたはずだ。
なのに、村に来た男たちは、私があそこにいると知ってやって来たのだ。いや、彼らのことだから、いてもいなくても略奪と暴力に勤しんでいたかもしれないが。
誰かが、私のことを見つけたのだ。そして、そこから情報が拡散して、拡散し続けて。
――そして、今の私の居場所に辿り着いた。
もう世間に、私の生存は知られてしまったと思ってもいいかもしれない。これからは私の身体や命を狙う人間が増えてくると思う。
以前もそうだったのだから。
私は彼らにとって、金を落としつつ性欲を処理できる都合の良い商品だった。過激な映像を販売すればヒットし、売春させれば権力者のコネが出来る。
それで彼らにとっては、万事上手くいっていたのだ。
そうやって良い気になっていたところを、私は逃げ出したのだ。プライドの高い連中のことだから、見せしめとして殺しに来るか、暴力を振るいながら嬲るに違いない。
私は、そう言った人間から逃げ切って、生きなくちゃいけない。死ぬのではなくて、生きると決めたのだから。
改めて荷物を確認し片付けて、フード付きの外套を羽織る。死体から剥ぎ取ったものだ。赤一色で血の色を連想させるのが、なんだか少し楽しい。
潰される前に、人を潰したばかりなのだから。
「もう、潰されて、たまるか」
歩き出す。
人の目を気にしながら、それでも前へ前へと一歩ずつ。足を動かし続ける。止まらない。止められない。
いつか止まってしまう時が来るまで、足を動かし続けるつもりでいる。逃げ切るために。
これが、人生二度目にして最後の最後になる、苦い逃亡生活の始まりだった――。
――なんて風に格好つけてから、数時間後。
逃亡生活初日に、私は死に損ないの男が道端に転がっているのを見つけた。
男は木に背中を預け、地面に腰を下ろしている。身体中は血塗れで、特に衣服の腹部あたりが酷いくらいに汚れていた。そこから血を流していたらしい。
嗅覚に意識を集中すると、どこからか焦げた臭いが漂ってきた。木を焼いた時のものと、肉を焼いた時のものが混じっているような気がする。傷口を火で炙って止血したらしい。
すごく痛かったんだろうなぁ。私にも経験があるから、よくわかるよ。
男は、死にかけだった。
呼吸はしている。声をかけてみると、ちょっと反応が返ってきたりもした。痛みを感じながらも眠っているらしい。
ただなんとなく顔が青くなっているように見える。出血しすぎて衰弱しているのかもしれない。
もう少しすれば死んでしまいそうだ。今から手当てや治療をしたとしても、手遅れだとわかるくらいに。
それにしても、この男は、どこかで見たような――。
「――あぁ、これは、夢かな」
男が、私のことに気が付いた。
顔を上げる。
見覚えはない。まったく。これっぽっちも。
でも、私は彼の顔をどこかで見たような気がして、なぜか、死ぬほど不愉快になる。
どうしてなんだろう。
そうして私が疑問に思っていると、男はとても寒そうに唇を振るわせながら、息を吸って、喉を鳴らして、声を――。
「……×××××、ちゃん?」
――思い出す。
数日前に、焼けてしまった村で、血塗れにされてしまった雑貨屋の中で。
私の顔を見て、何かに気が付いた客がいた。
その客は、冒険者らしい男で、こいつみたいな顔をしていて。
あの後だった。
街に噂が拡がっていたのは。私が生きているだなんて、知られたくないことが知れ渡ったのは。
そうだ。そのはずだ。
こいつが来てから、こいつが現れたから、私の何もかもがおかしくなってしまったんだ。
こいつだ。
こいつのせいだ。
こいつが、私をもう一度地獄に叩き落とした。
「あぁ……夢でも見ているのかな。×××××ちゃんが、僕の目の前に、いるなんて」
男が、私の姿を認識しながら言う。
死んだような目をしながら、それでも目の前の現実をしっかりと捉えているみたいに。
私のことを、私が捨てた名前で呼んでいる。
やめろ。囀るな。加害者が被害者に微笑むな。吐き気がする。気持ち悪い。
なのに、男は口を閉じることもせずに、まるで救いか何かでも見つけたかのように声を出し始まる。
それはどこか遺言でも口にしているみたいで。
そして、彼は。
「夢でも何でもいいや。ねぇ、×××××ちゃん。君にお願いがあるんだ」
――僕を殺してくれないか。君にはその権利がある。
なんて、狂ったようなことを口にした。
かつての加害者が、被害者に向かって何もかもを曝け出すようにしゃべり出す。
後悔の色を帯びた声で、これまでの自分の罪を曝け出すみたいに、罰を与えて欲しいみたいに。或いは、重い荷物を下ろすみたいに楽になろうとしたのかもしれない。
知ったことか、と私は思う。
お前がどんな罪を犯したか白状したところで、死んだ人はもう帰ってこないんだ。どうにもならない。
その懺悔は、独りよがりな行為に過ぎないんだ。気持ちを楽にさせるための、自分自身を慰めるようなものでしかない。
だから、その耳障りな声をやめろと思う。口を閉じてそのまま死んでくれれば良い。それが、お前が私に出来る最初で最後の償いなんだと。
なのに、私は彼の言葉を止められない。
――どうしてか。
「君は覚えてないだろうし、知らないと思うけど、僕は最初、あの店の常連だったんだ。覚えてないかい? それなりに賑わっていたあの街にあった、少し小さな店」
覚えている。
私が×××××だった頃に住んでいた街。そこにある一軒の薬屋。店と自宅がセットになった一軒家に、ポーションを作るのが得意だった女の子がいた。
今はもう、存在しない。
「最初に店に来た時は、冒険者の仕事中に転んで出来た腕の怪我をどうにかしたくてね。良い感じの薬屋があるって聞いて、君の店にやって来たんだ」
この人は、誰だったんだろう。
あの店に来てきたお客さんのうち、いつどこからやって来た人だったんだろうか。思い出せない。顔に見覚えがない。
「入り口から中に入ったら、少し驚いた。僕よりも幼い見た目の女の子がいて、その子がカウンターでポーションの調合をしていて、他の客が楽しそうに観ていた」
人の顔を思い出せない代わりに、過去の出来事を一つ思い出す。おぼろげで壊れかけの記憶だった。
あの時は、もっとお客さんが来て欲しくて、何か話題作りにとカウンターでポーションを調合する見世物を思いついた。
そして、決まったら即実行ってことでやって、最初の一回目は成功して……二回目はなかったはず。一回で飽きちゃったんだっけ。
でも、観てくれたお客さんは、楽しそうにしてくれて、ポーションの売り上げがしばらくの間良くなっていて、またいつかやろうと思ってた。
思ってたのに忘れていたのが、なぜか悲しかった。
「その女の子も、楽しそうな客に釣られたみたいに笑っていたんだ。今が幸せだって感じに。本当に、本当に、幸せそうに」
忘れたのは、私が不幸になったからだろうか。
幸せじゃなくなるまでに、数え切れないほど傷付いてきたからだろうか。わからない。わからなくなるほど、奪われてしまったような気もする。
今、私は不幸と幸福のどちらに立っているんだろう?
「――その笑顔を見た時、僕はこの店に通うって決めたんだ」
男の独白が続く。
気が付けば、どこか遠くにある遙か昔のお伽話を聞いているみたいな気分になってきた。それは本当に、かつて起きた出来事だったのだろうか。それとも誰かが観た夢幻か、書き綴った虚構だったのか。
もう、どうだって良い話だ。
あの物語は、悲劇で幕を閉じてしまったのだから。
「好きだったんだ……本当に、×××××ちゃんのこと、少し離れた場所から見ているだけで、幸せだと思うくらいに、好きだった、好きだったんだよ……うぅっ」
男は、私に告白しながら泣き崩れる。いつ死んでもおかしくない状態で、自分自身を罰してるみたいに苦しそうに泣いていた。
私はどうすれば良いのかわからない。
嫌悪感はあった。嫌いな相手から好きと言われるほど気持ち悪いことはない。
私は被害者で、彼は加害者なのだから。
ああ、でも、けれども。
誰かを好きになるという気持ちだけは、共感できそうな気がしてきたから。ほんの少しだけ許してしまいそうになる。
ああ、だから、もう何も言わないでくれ。
もう黙っててくれ。
「なのに、僕は――」
私の気持ちをよそに、男は勝手に罪を自白していく。
自分自身の気持ちを整理するために、楽になりたいがために、自慰行為みたいな言葉を撒き散らしていった。どんな悪いことをしたのか、どれだけ自分が罪深いのか。
要約するのは、簡単だった。
――私は、好きな女の子が犯されているのを助けずに、レイプする側に回った犯罪者なんです、って。
「気が付けば、おかしくなっていたんだ」
一通り罪を吐き出したところで、男がぽつりと呟くように言う。みっともない言い訳のように聞こえた。まるで、あの時が正気じゃなかったみたいに。
でも、私はそれを黙って聞いていた。
頭の中はグチャグチャで、何をどうすれば良いのかわからない。殺してくれと言っていたから、殺してやれば良いのか、それとも苦しみの中で死ぬように放置するべきか。
いや、そもそもそれ以前に、なぜ私はこの男の話を聞いているんだ。こいつは加害者なのに。私を犯した男なのに。殺して良い人間なのに、なんで私は彼を見下ろしているのか。気持ち悪い懺悔を聞き続けているのか。
わからない。
わからないまま、男の独白は続ける。
「君を男たちが陵辱しているって知った時に、なんて酷いことをしているんだろうって思ってた。だって普通に考えてみてよ。普通に薬屋を営んでいる、なんの罪もない女の子が酷い目に遭っているんだ。どう聞いても、犯罪だ。そんなのおかしい、助けなきゃって思ってた」
この世界には、罪と罰がある。
悪いことをしたら、必ず罰が下される。歴史が積み上げてきた文化と信仰によって、人々の間に根付いたはずの、人が人らしくあるためのルール。
そういうものがあった。
あったはずなのに。
「思ってたはずなのに――気が付けば、淫乱な君が望んでいたことだって、みんな思うようになっていた。どれだけ泣き叫んでも助けを求めていても、本心は違っていて、男たちに犯されるのが願いだったんだって。みんな、みんな、そんな風に信じるようになっていた。あはは、おかしいなぁ。本当に、おかしいよ」
男が泣きながら笑い出す。
圧倒的な理不尽に対して、笑うことしか出来ないみたいに。
「ねぇ、×××××ちゃん。教えてくれないかな。あれだけ好きだった女の子のこと、どうして僕は信じられなくなって何だい? 誰かに殴られているのも本人が望んでいる、だなんて他人から言われたことを、どうして僕は信じるようになってしまったんだい? 思いだそうとしてもわからないんだ」
「僕はこんなにも頭の悪い人間だったんだろうか。女の子が殴られてる、もう嫌だって泣き叫んでいる、誰か助けてって言ってる。なのに、僕はそんな女の子を見て……気が付けば、笑ってるんだよ。そんな姿を見て、欲情してるんだよ」
「見ているうちにやりたくなってきて、僕も混ぜてくれよって、君に暴力を振るうんだよ。仮にも好きだった女の子にだよ? どうしてそんなこと出来るんだ? 好きな女の子なら、大切にして、優しくしたい、って思うはずなのに、どうしてあの頃の僕は、君が壊れていくのが見たいって思っていたんだろう? 思い出せない。どうして、そういう思考になったのか、本当に思い出せないんだ。思い出せないくらいに、僕はおかしくなっていたんだ」
「本当の、ことなんだよ」
そして、その男の笑い顔は、完全にどこかが狂ってしまったまま戻らない人のように見えた。
私は、そんな男に対して、何かを言おうとして――何を言いたいのか、自分でもわからなくなる。
「そんなの……ただの言い訳じゃない」
ただポツリと、他人事みたいな言葉がこぼれ出た。
「そうだね。被害者にしてみれば、僕の言ってることは本当に言い訳だ」
その言葉に男は少しだけ正気を取り戻したらしい。
静かな声で、そう言った。
顔を苦しそうに歪めて、告白を続ける。
自分自身をいじめているみたいに。
「ここに来たのは、彼らを止めるためだったんだ。あの店で君を見つけてからは、謝りたいと思ってた……それで僕と同じように後悔している人に話して、どうしようかと相談しようとしていて……気が付けば、話が漏れていた。そこから、だんだん話が拡がっていって、もう止められなかった」
「僕はもうやめようよ、って言ったんだ。これ以上彼女を傷付けるのはって。そうしたら、この有様だ。たったそれだけで、斬られるなんて。ははは。酷いと思わないかい?」
「――ああ、でも、これで一つ天罰が下った気がするよ」
気が付くと、男の呼吸は先ほどまでよりも荒くなっていた。顔色も酷いくらいに悪くなっている。地面に染みこんでいる血も、先ほどより拡がっているように見えた。
彼はもう死ぬ。
それはもう、逃れられない終わりだった。
「本当に、ごめんなさい」
そして、彼は遺言を吐き出す。
痛みや苦しみに悶えながら、最後の最後まで命をすり減ってでも言葉を遺そうとしているみたいに。
「僕は許されたかったんだと思う。君に酷いことをした。好きになった女の子が、あんなに酷い目に遭ってたのに、僕はまわりの意見に流されてばっかりで、価値観も揺らいでばっかりで、君を、犯しても良いって思ってしまった。蔑んで、嘲笑ってばかりだった。何もしなかったんだ。それどころか加害者に回ったんだ。最低だ。本当に僕は最低だ。ごめんよ。本当にごめんなさい。許されなくたって良い。僕はそれだけが言いたかったんだ」
「どうして僕は、あの時間違ってしまったんだろう。間違ったことに気が付かないまま生きてきたんだろう。今になって許されたいだなんて思えてきたんだろう。本当にわからない。わからないんだ。あはは。なんだ僕は。どうして、こんなにも最低な僕が、この世に産まれてきたんだ。わかんないよ」
それは、完全に自慰行為そのものみたいな遺言だった。私の気持ちなんか関係ない。ただ楽になりたいがための。
ここでようやく、私は怒りを自覚した。
なんて勝手なんだろう。私はまだ苦しくても生きるのに。目の前の彼は気持ち良いまま死のうとしている。
もう遺言なんて聞きたくない。
気が付けば、私の両腕は動いていた。その首を掴んで、最後の最後は苦しみと痛みの中で死んで欲しいと。
首を両手で覆って、指に力を入れて、そのまま真っ二つにへし折ろうと――。
「――ありがとう、チーサさん。もう一生許されるつもりもなかったし、許してくれるわけないと思ってたけど、どうしてかな……本当に僕は、救われたよ」
安らかな顔をしないでくれ。
でも、そんなささやかな願い事は届かなくて、込めた力は急に止まってもくれなくて。
「殺してくれて、ありがとう」
そして、私は彼の首をへし折った。
なぜか気持ち良いことをしたような気がして、そんな自分自身が気持ち悪かった。
血塗れになった手を見つめながら少しだけ考えてみる。なんで気持ち良いのに、気持ち悪いと思うのか。答えはすぐに出てきた。
これが、私――チーサが、本当の意味で初めて『人』を殺したからだった。