最後の夜
その日は朝から雷雨に見舞われていた。
沙恵は参考書から目を離すと、窓の外を見つめた。
彼女は雨の日が嫌いだった。
誰かの泣き声のような気がするからだ。
こんな日はいつも、訳も無く切なくなった。
『今日も1日、雨なのかな…』
果てなく広がる黒い空を見上げ、思った。
コンッ…
「?」
ドアの辺りで何かが動いたような気がした。
しばらく息を潜めていたが、それきり何も音は無かった。
『気のせいか…』
こんな雨の日だし、多少いつもと違う音が聞こえてもおかしくない。
「……」
沙恵はなんだか心がざわついた。
思わず、ドアを開いた。
「!!」
ドアの横に座り込んでいたのは、猛流だった。
「どうしたの!?」
答えを聞く暇は無かった。 急いで部屋へと運び込んだ。
体中から汗が噴出し、息も絶え絶え。 顔面蒼白。
明らかに緊急事態だった。
「猛流! しっかりして!!」
彼はベッドまでたどり着けず、リビングで倒れこんだ。
「ごめ…」
「何言ってんの!」
沙恵はどうにかして彼を助けたいと思った。 だが、その背には深々とナイフが刺さっていた。 根元までグサリと入ったナイフの柄が、猛流の息と共に大きく上下していた。
「もう…無理…」
「あきらめちゃダメ!!」
沙恵は、閉じようとする猛流の目を覚まさせようと、その頬を何度も叩いた。
猛流はその手をギュッと握った。
「猛流!!」
「…俺…お前のこと、ずっと守ってやりたいと思ってたけど…寂しい思いばっかりさせて…」
沙恵はフルフルと首を横に振った。
「もう足を洗おうと思って、最後の仕事…失敗しちまった…」
「たけ…」
「来年は、盛大に誕生日…祝ってやりたかったけど…ごめん…ほんとに…ごめ…」
猛流の頬に、汗か涙か分からないものが伝っていた。
沙恵は、迫り来る恐怖にただ震えるしかなかった。
腕の中に居る猛流が、遠くに行ってしまう恐怖。
それに立ち向かえる術は、もはや彼女には無かった。
猛流は、震える手で沙恵の頬を絶え間なく流れ落ちる涙を拭った。
「沙恵、お前は俺の生きがいだったよ。…ありがとうな…」
頬をなでる猛流の腕が、力なく落ちた。
しばらくの間、部屋の中を雨の音が包んだ。
そして、堰を切ったように沙恵は泣いた。
冷たくなってゆく猛流の身体を抱きしめ、泣き続けた。
涙は止まることを知らないかのように、猛流の身体へ滴り落ちた。
言えなかった。
「行かないで」と。
伝えたかった。
「ありがとう」と。
雨は、いつまでも窓を叩いていた。
沙恵は雨の日が嫌いだった。
誰かが泣いているようだからだ。
沙恵は知った。
雨は悲しみを流してはくれないことを。
数日後、沙恵はアパートから姿を消した。
誰にも何も告げず。
部屋には、開きっぱなしの参考書が机の上に寝かされていた。
今も生活をしているかのように、全てのものが残っていた。
只1つ、リビングに残された血痕だけが、不似合いに染み込んでいた。




