そして重なる[3]
「俺の名前を教えてあげましょうか、お嬢さん」
おどけた口調で歌うようにそう言いながら、マウロはフィクティラス砦の地下牢、一般の牢を通り抜けた先、更に階段を何段か下りた場所にある、最も奥まった牢屋の前に立った。
覚えているだろうか、十年前にほんの少しの間だけ、一緒にいた男のことを。
交わした約束を。
きっと覚えているだろう、だからずっと、あんな目をして彼を見ていた。
それでも緊張して、いつもより心臓の鼓動が速い自分を意識する。
自分にとっては彼女と別れてから今この場所に来るまで、ほんの少しの時間だった。でも彼女には自分と別れてから今この瞬間までに、十年の時が流れている。
牢の床に一枚敷かれた薄い敷布の上に座り込んでいたエウフェーミアは、マウロの声にちらりと一瞥をくれただけで、こちらを振り返ろうとはしなかった。
牢屋の鉄格子を広げた両手でそれぞれ掴み、捕らわれた銀の髪の美しい女の姿を覗き込む。
……こっちを見て。
「……『エジステンツァ』の頭目だったか。何の用だ? 私を笑いにでも来たのか」
その素っ気ない物言いに、微かな笑みと共に吐息を漏らす。
こっちを見て、そしてあの真っ直ぐな瞳で俺を射て。
「考え合わせてみれば、お前、最初から俺のことが好きだったんだなぁ」
あの、何か言いたげな視線の意味が、今なら分かる。そして、それを言葉にできなかった理由も。
似ている、そう思いながら、そんなはずはないと打ち消していたのだろう。だって俺はあの時、彼女より軽く十は年上だった。
名前も知らない男のことを、ずっと覚えていてくれた事が嬉しかった。
マウロの言葉にエウフェーミアはバッと顔を上げ、叫んだ。
「図に乗るな! 血迷ったか!? 誰が……、……!」
言葉は途切れ、息を呑む短い音だけが静かな地下牢に響く。
上げた視線の先にあったのは、マウロの左手の甲。
そこには、まだ新しい深く貫通した刀傷の痕がある。
菫色の瞳を大きく見開いたまま、エウフェーミアは身じろぎもせずにただ、マウロの傷を見つめている。
「ミーア」
マウロは石造りの床に膝を突き、視線の高さを合わせて囁くように名を呼んだ。
「どう……、して……」
「待たせてごめん。でも、約束、しただろ……? だから一番に、お前を迎えに来た」
震える声で呟くエウフェーミアに答えるように続けた言葉を乗せた声は、自分でも驚くほどに甘い。
傷痕と、それから石床に置いた、外套の裾で刃を包んだ剣とに交互に視線を移し、エウフェーミアは呟いた。
「……どうして。こんなことって……」
ゆっくりと膝立ちになり、鉄格子へと近づいてくる。
剣を握り続けた、女性にしては無骨な、でも細い指が、そっとマウロの左手に触れた。
その指に導かれるままに開いたマウロの掌の傷を、エウフェーミアは壊れ物を扱うかのようにそっと撫でる。
「覚えてる。私のせいね……まだ痛む?」
「いいや」
マウロは答えると、右手を伸ばして鉄格子の向こうのエウフェーミアの髪に触れた。
触れたらこの世のものとは思えないほど綺麗な音がきらきら鳴るんじゃないか。子供でもないのにそう思ったことがある銀色の長い髪は、触れてもただ、さらさらと流れるだけだった。
でも、自分はこの感触を知っている。
「大丈夫だって、言っただろ」
エウフェーミアが顔を上げる。
形の良い唇が、言葉を紡いだ。
「今度は、名前を教えてくれる?」
目を細めて、マウロは頷いた。
「マウロ」
告げた名前は実にあっさりしていた。元々勿体ぶるような名前じゃない。
でも、エウフェーミアは幸せそうに笑った。
鉄格子の間を通して、マウロが両腕を伸ばす。
同じように、エウフェーミアも両腕を伸ばし、二人は鉄格子越しに抱き合った。
華奢だと思っていた少女の体は、背も伸びて、年頃の女性らしい丸みと筋肉の感触とでしっかりした大人の女性に成長した事が伝わってくる。
闇に溶け込むような静寂を、破ったのはエウフェーミアの声だった。
「……本当は」
マウロが顔を上げる。
「ズィールがおかしいことなんて、ずっと知っていたわ」
言葉の続きを促してマウロが覗き込むと、菫色の瞳が少しだけ伏せられる。
「……だけど、貴方が、お前は変わらないんだって、そう言っていたから、ずっと同じ場所にいた。そうしたら、貴方がいつか迎えに来てくれるって、信じて」
「うん」
マウロは頷きを返す。
「だから、会えた」
でも、その代わりに失った。
人が死ぬことに、慣れ始めていた。でも親友のアルドや、ジョットの死で、その重さを思い出した。
アルドたちを殺したのはエウフェーミアかも知れない。そうでなくても、指示をしたのはエウフェーミアかも知れない。
十年前に在った短い時間、そんな事は何度も考えた。
でも、もう、離せない。
「……私が、そうして同じ場所に居続けて、奪った命の中に、貴方の大事な人もいた?」
エウフェーミアの声が、静かに問いかける。
「……ああ」
肯定の声は、かすれていた。
びく、と腕の中のエウフェーミアの体が小さく揺れる。
「親友も、ずっと一緒にやってきた仲間も、沢山死んだ」
声に出したことで、すうっと頭が冷えていく気がした。
不可解な事態に放り込まれて、混乱から高揚した頭の中が。
「でも」
芯の部分は強い熱を持ったまま、その存在感を強く示している。
「そんなのお互い様だ。それでも俺は、お前と一緒に生きたい」




