連れ出す手[2]
三十代を後半に入るか入らないかといった風体の、短い焦げ茶色の髪の男はスタン、と名乗った。鉛白色の金属で作られた軽鎧は、そういう類の物を書物でしか知らないルドミラが見ても相当に年季が入っていることが分かる。黄土色の外套も、あちこち擦り切れていた。
男の食欲は凄まじく、先日近くの村でゲルハルトが買ってきた食糧はあっという間に目減りしていく。
「ゲルハルト、出て行く前にもう一度買い物に行ってきてよ。君が連れてきたんだから」
ルドミラはスタンと名乗った男の食べっぷりに呆れ果てている。
「あ、それで、その話なんですけど」
ゲルハルトが思い出したように口を開いた。
ルドミラがオルトローサと暮らしている森は、ヴァスラトゥーム王国のかなり北側に位置している。そして王都から離れた地域は、それぞれ古くから国王に任命された家系の者が代々領主として統治していて、森を含むこの辺り一帯の広範囲、ズィール領を治める領主は五年ほど前に代替わりしたらしいという事は、森から出ないルドミラでも知っていた。
心ゆくまで食糧を食い荒らして人心地ついたらしいスタンがゲルハルトの説明に口添えした。
「その、五年前に代替わりしたバルダッサッレって領主だが。エサスカラムと繋がっていて、どうも良からぬ事を企んでいるって話だ」
エサスカラムはズィール領と国境を接する隣国の名前だ。
「断言するんだね」
思わずルドミラが言及すれば、スタンは迷いなく頷いた。
「エサスカラム、というよりは、ズィールと隣り合ってるあちらの国のルグレ領だな。バルダッサッレに謀反を起こさせて、うちの国からズィールを切り離し、取り込む算段らしい。既に何人か間者を捕らえて、口を割らせた」
どちらもそんなに利口じゃなさそうだけどな、とスタンは続ける。
「異常は前から報告されてた。ズィールじゃ国の決めた税金の倍以上を民に強要、逆らえば牢獄行き。働き盛りの男は次々牢獄に放り込まれ、人手の少ない村は食糧難に喘いでる、でも馬鹿げた金額の税金は納めなくちゃならねえ。このままじゃ民も減る一方だ。だってのに、その違法に集めた税でバルダッサッレは戦を起こそうとしてる。国を相手にな」
「……だから?」
ゲルハルトの用意したコーヒーのカップに口をつけ、ルドミラはスタンを見た。
「この辺りはバルダッサッレの住んでるグルビナからは少し離れてるから支配もやや甘いようだが、いずれグルビナ近辺の町や村から税金を搾り取るのが難しくなって、こっちも同じ状況になるだろう。そして、きっと近々戦地になる」
スタンは説明を続ける。
「こんなナリだが、俺は女王直属の小隊を預かる部隊長だ。戦を止めるために、それが無理でも、本格的な開戦前には奴をどうにかするために、各地で協力者を募りながらグルビナを目指してる」
「……協力者を募りながら? 女王がこの事態を把握してるっていうなら、正規の軍をもっと動かして正面から戦えばいいじゃないか」
ルドミラの言葉にスタンは渋い顔になる。
「多分、バルダッサッレのほうは、王都に筒抜けだとはまだ思っていない。ギリギリまで正体を隠して、油断を突きたいんだ。協力者でも、一部の人間しか俺達の素性は明かしちゃいないしな。できる限り、重税に苦しむ民の内乱の体を取りたい。ともかく三ヶ月ほどこうして動いてて、バルダッサッレの支配する地域の半分は味方につけた」
「ふーん」
興味なさそうにルドミラは呟いた。
「僕はこの国の人間じゃないけど、そんなに悪い人は許せないと思うんです! 僕が魔法が使えるって話したら、スタンさんがぜひ力を貸してほしいって言ってくれて……」
「好きにすればいいじゃないか」
勢い込んで口を挟んだゲルハルトに、ルドミラはあっさりそう言った。
途端、ゲルハルトは気落ちしたように肩を落とす。
「……まあ、三ヶ月もそんな運動やってて、味方も増えりゃそれなりに広いっつっても自分の領内の事だ、バルダッサッレだってそろそろ下々で何か動きがあるくらいには気づく。小競り合いが増えてきたところだ」
スタンは二人のやり取りなど気にしていない様子だ。
そして、ルドミラを見て続ける。
「お嬢さん、あんたも魔法が使えるんだってな? だから、あんたにもぜひ力を貸してほしくて……」
スタンの言葉に、ルドミラは思わずゲルハルトを睨みつけた。
「嫌だ」
にべもなく言い放つ。
「わたしには関係ない。わたしは一生この森から出るつもりはないし、食べ物だってわざわざ村に出なくたって森で全部賄えるんだ。外の人間がどうなろうと、わたしの知った事じゃないよ」
「ルドミラさん……」
ゲルハルトが悲しげに顔を歪める。
「このままバルダッサッレの支配が続けば、いずれこの森だって戦地になる可能性があるんだぜ? そうじゃなくても森を開拓して、農地にしようとするかも知れない。あるいは、お嬢さんのような魔法使いを配下に置こうと捕らえに来るかも知れん」
スタンが更に言い募る。
「……どっちにしろ、魔法で追い払うまでだよ」
ルドミラは小さく鼻を鳴らした。
「バルダッサッレの部下の人数がどれほどか知ってて言ってるか?」
スタンは片眉を上げる。
「魔法ってのは、精神力を消耗して普通の人間にはできないような力を使うんだって話だろう。お前さんがどれほどの魔法使いか知らないが、向こうが総力で来なくとも、並の魔法使いじゃ恐らく何日も持たんと思うぞ」
「……」
ルドミラは食卓に置いたカップに視線を落とす。まだ飲み終わっていないコーヒーの表面は、揺らぎもせずに室内の明かりを反射している。
「……だったら、別に無理して生きる必要もない」
ルドミラは呟いた。
この館で暮らし、読書や魔法の練習に明け暮れる生活が楽しいなんて一度も思った事はない。でも外の世界に出たいなんて思ったことも一度たりともなくて、魔法の練習だって他にする事がないからやっていただけだった。
「駄目です! ルドミラさん、そんなの……、駄目です」
ゲルハルトが涙声で叫んだ。声は次第に歪み、言葉にならなくなっていく。
「どうして君が泣くんだよ」
ルドミラは呟いた。
ゲルハルトと話していると、調子が狂う。人と関わりを持ちたくないと思い、そしてその通りに生きてきた。食事を与えてすぐに追い返すつもりだったのに、彼はそのまま居着いたばかりか、冷たいとも取れるルドミラの態度を気にした様子もなく、楽しそうに一緒の生活を続けている。
ずっとこのまま、何の変化もない暮らしを続けて、やがていなくなってしまえればいいと思っていた。それなのにゲルハルトの存在が、それを掻き乱す。変わりたくないのに、ゲルハルトのせいで変わりつつある自分に気づいていた、それは歓迎すべき事態ではないはずなのに、──ああ、面倒臭いな。そう考えることで、全部に蓋をした。
「例えばの話でしょ」
ルドミラの呆れたような言葉に、だがゲルハルトはぶんぶんと首を振る。
一度大きく息を吸い込み、呼吸を整えてから彼は言った。
「だけど、このままだったらそうなる可能性が高いってことじゃないですか! 僕はルドミラさんにそんな事になってほしくない。一緒に行きましょう、森の外に出たら、何か変わるかも知れないじゃないですか!」
そう言って、ゲルハルトは右手をルドミラに向けて差し出し、笑った。
「……嫌だ」
ルドミラは小さく首を振る。
「ルドミラさん……」
悲しげなゲルハルトの声にかぶせるように、ルドミラの呟きが重なる。
「わたしは森の外に出たくないんだよ。出たらきっと嫌な目に遭う。だから、……行きたくないんだ」
「僕がルドミラさんを守ります!」
人の話を聞いているのかいないのか、力強くゲルハルトが言った。
「……」
呆れたようにルドミラは短く息を吐く。
それでもどれだけ説得されたところで、森から出るつもりはなかった。……頭の片隅に仕舞い込んだ古い記憶の中で、とても悲しくて恐ろしい目に遭った事を、思い出す。そしてそれを、すぐに元の場所に片づけて思い出さなかったことにした。