錯覚と真実と[3]
翌朝、目を覚ますと外は土砂降りの大雨だった。
昨晩の事で気まずい二人は食堂で黙々と朝食を口に運んでいる。
そんな二人に、宿の主人が声をかけた。
「お客様、今日はどちらへ?」
ポワンに向かうのだ、とマウロが答える。
すると、主人は眉をひそめて窓の外に視線を向けた。
「ポワンへ行くには途中で橋を渡るのですが、生憎のこの大雨です。川が増水して、橋を渡れないかも知れません」
その時だった。つい今しがた宿に着いたらしい旅の男がタオルで全身を拭いながら食堂に入ってくると、大きな声で話し始める。
「いやあ、参ったぜ。夜通し歩いてきたってのに、もう少し遅かったら橋の手前で往生だったよ」
確かに、宿の主人の言う通りのようだ。この分では雨が止んでもしばらくは待たないと橋を渡ることはできなさそうだ。
マウロは軽く息を吐き、男に声をかけに向かおうとしていた主人を呼び止めた。
「もう一晩、泊まれるか?」
「ええ、もちろんです! そのままお部屋をお使いください。後で清掃を入れますね」
マウロの申し出に主人は顔を輝かせて頷く。
「あ、ちょっと」
何とかもう一部屋取れないか、そう訊こうとしたマウロだったのだが、主人はそのまま男のほうへと挨拶に向かってしまった。
どのみち、この大雨では足止めを食らう者も多いだろう。新しい部屋を取るどころか、下手したら泊まることさえできなかったかも知れない。部屋を確保できただけマシか。
マウロは嘆息し、エウフェーミアに視線を向けた。
「……だとよ。飯食ったら、一旦部屋に戻るか」
エウフェーミアは、黙ったまま頷いた。
そういえば、と思い立ち、部屋に戻る前にポワン方面からやって来たらしい先ほどの旅人に声をかけた。
ポワンに軍の人間が残っているかどうか。
それとなく尋ねてみたところ、どうやら軍の人間は昨日の時点で既に引き揚げた後だったらしい。
部屋に戻ると、エウフェーミアは悲しげに吐息を漏らし、ベッドに腰を下ろした。彼女は置いていかれたのだ。もしかしたら、事情も知られず軍の規律を破った者として処罰されるかも知れない……。
かける言葉も見つからず、マウロは昨日男から奪った剣を書き物机から取り上げた。
昨晩のうちに血は拭ったが、これからしばらくこいつと付き合っていかなけりゃならない。彼が日頃愛用していたのは槍の先端に鎖をつけたりと、奪うことに対して特化させた相当に改造した武器だったので、武器を扱っている店があったとしても簡単に手には入らないだろう。改造するには金も時間もかかる、現状を考えたら馬鹿馬鹿しかった。
剣は得意じゃないから、手入れの方法もあまりよくは知らなかったが、そのあたりは様子を見てエウフェーミアに訊けばいいだろう、と考え、外套の裾を引き裂いて巻いた布を外した。
「……ねえ」
黙って見ていたエウフェーミアが口を開く。
「あ?」
マウロが生返事を返すと、エウフェーミアは続けた。
「これから、どうするの?」
マウロは顔を上げる。
「どうするって、お前を父親の元に連れていくんだろ」
「……でも。お父様は、ポワンにはもういないわ」
「そうだな、だから、明日は元来た道を戻って、今度はビェリークを目指す。ビェリークにいなくたって、結局グルビナまで行けば家には帰れるだろ」
マウロは剣の柄を持ち、薄暗い部屋の中に灯された明かりに刃をかざした。
「じゃあ、その後は?」
エウフェーミアは問いを重ねる。
彼女を送り届けた後、マウロがどうするつもりなのか、それを聞きたいのだと、マウロは理解した。
視界の中で剣を一回転させながら、口を開く。
「あ~、そうだな……。とりあえずは、帰る、かな」
「……どこに?」
呟きに近い答えに、エウフェーミアはまた尋ねた。
「さてね。……帰れるかどうかも、よく分からん」
「何よそれ」
エウフェーミアは不満そうに口元を曲げる。
だが、マウロは答えない。
仮に答えたくとも、答えようもない。
しばらくまた、二人は黙ったままだった。
刃こぼれなどはないようだし、とりあえずいいか。明日出る前に、念のため鍛冶屋に寄ろう。
そう考えて刃に布を巻き直し、マウロは剣を書き物机の上に戻す。
エウフェーミアがまた口を開いた。
「……帰れるかどうか分からないなら、一緒にいてよ……」
マウロは振り返る。
「まだそんな事言って……」
「錯覚でもいい! わたし、貴方が好きなんだもの!!」
そのままベッドから飛び降りてきたエウフェーミアは、マウロの腰に抱きついた。
「おい、ミー……」
名前を呼びかけて、マウロは途中で言葉を失う。
不安に揺れる菫色の瞳。単に置いていかれて弱気になっているだけだ、そう思う、のに、向けられる視線はただ真っ直ぐに彼の胸を射抜く。
昔から、この目に弱い。
真っ直ぐなこの瞳に。
何か言いたげな顔でこちらを見ている時も、巷を騒がす山賊『エジステンツァ』として──敵対する相手としてこちらを見ていた時も。
意味が分からなくて、でも何か不思議な気持ちを覚えて、いつも彼女の前から逃げ出した。
あれ本当にそうだったか? 武器を手に戦うことに長けているのはどう贔屓目に見ても相手のほうで、面倒な事になる前にいつもとんずらしたんじゃなかったか。混乱する記憶を顧みる余裕も、今のマウロにはない。
追い討ちをかけるように、エウフェーミアが叫んだ。
「わたしのこと、少しは好きでしょう!?」