錯覚と真実と[2]
その夜、食事と入浴を済ませた二人は隣合わせのベッドに入った。
入浴ついでに血まみれになった服も洗濯を終え、今は窓際にぶら下がっている。朝までに乾けばいいが。
「疲れたろ? ……おやすみ」
マウロは明かりを落とす。
返事はなかったが、目を閉じた。流石に、疲れた。
すると、しばらく経って隣のベッドから不意に声が聞こえてきた。
「ねえ……、わたしに似てるっていう、エウフェーミアって人のこと、好きなの?」
「……はあ!?」
マウロは思わず飛び起きた。
隣のベッドでもエウフェーミアが布団から抜け出し、座ってこちらを見ている。暗がりの中でも、カーテンの隙間から差し込む月明かりが菫色の瞳を映し出し、その真剣な眼差しをマウロに意識させる。
「ね、だから守ってくれるの? ……もしかして、恋人だった? あ、もしかして、だからわたしのことはエウフェーミアって呼べないんだとか」
「……」
マウロは右手でわしわしと頭を掻いた。
「説明しただろ、お前は目立つ。狙われてる今は、お前だとすぐに分かるような呼び方は避けたほうがいいって」
「……それは、そうだけど」
エウフェーミアは僅かに唇を尖らせて、少女らしい表情を見せた。
「そうじゃなくて、ねえ、答えてよ。その人に似てるから、守ってくれるの?」
「あのな」
マウロははあぁぁ~っと盛大に溜め息を吐く。まさかあれから町に着くまでこっち、そんな事ばっかり考えてたんじゃなかろうな。
「そのエウフェーミアとは、恋人でも何でもない! 「お兄ちゃん」は、困ってる人を見ると放っておけない性格なの!」
「……だったら」
エウフェーミアが少しだけ、身を乗り出す。
呟くように、言葉が滑り落ちる。
「だったら、わたしじゃ、駄目?」
「はい!?」
仰天して、マウロの声が見事に裏返った。
「わたし……、わたし、貴方が好きなの、好きになったの!」
必死の表情で、真っ直ぐな瞳で訴えるエウフェーミアの顔を、マウロはほんの数秒見つめて。
そして手を伸ばし、その頭を撫でる。
「好きなんて言葉、簡単に使うな。お前は、俺がお前を守って怪我なんかしたから、そう錯覚してるだけだよ」
できるだけ優しく穏やかに、少女が錯覚の恋をそれと気づいて傷つかなければいいと、そう思いながら。
「錯覚じゃないもの!」
言い返したエウフェーミアの手が、自分の頭を撫でるマウロの手をはね退ける。
小さな吐息を漏らし、苦笑してマウロは彼女に背を向け、ベッドの中に戻った。
「……バカな事、言ってんじゃねえよ。あんまり「お兄ちゃん」をからかうな。……明日も歩くんだぞ、お子様はもう寝ろ」
「……ばか……」
涙交じりのエウフェーミアの声がマウロの耳に届いたが、彼はもう振り向かなかった。
だが、しばらくしてごそごそと気配が動いたかと思うと、何と彼女はマウロのベッドに潜り込んできたのだ。
ぎょっとして目を剥いたマウロは、思わず振り返っていた。
「おい、何考えてんだよ!?」
だがエウフェーミアはふん、と小さく鼻を鳴らす。
「お子様だったら何とも思わないんでしょ。おやすみなさい、「お兄ちゃん」。明日もよろしくね」
その後は、うんともすんとも言わないし、当然自分のベッドに戻る気配もなかった。
しばらくして規則的な呼吸が聞こえてくる。
マウロは深々と溜め息を吐いた。
あまりに真っ直ぐすぎた、彼女の瞳も、気持ちも。
それが錯覚なのだとしても。
真っ直ぐで、純粋だから。
……だから、あんなんなっちまうのか、とマウロは心の中で呟いた。
ズィールの兵士長の家に生まれ、きっと本人が大きくなったら父親と同じ軍人になるのだと、信じて疑わずに育ったのだろう。そして領主と、それに仕える軍こそが正義だと信じて働き続けてきたのだろう。無理からぬ話だ。
でもこっちだって譲れない。
マウロが育ったのは山間の小さな村で、細々と作物を作り、狩りをして日々の生活を賄っていた。領主がジェローラモだった頃の、王都から言い渡されている正当な税でギリギリだった。バルダッサッレに代わってからの異常な額の税を言われるがままに納めていては生活が立ち行かない。
武力による強制徴税にやって来た兵士に、村の大人たちは訴えた。当然それが聞き入れられることなどなく、村人たちは連行されていった。その中にマウロの父もいた。父も他の人も二度と帰ってくることはなく、姿を見たのは連行されていく後ろ姿が最後だった。
母は父を連れ去られてすぐに体を悪くしてこの世を去った。村の男たちを捕らわれた彼の村もすぐに立ち行かなくなり、離散した。
だから、生きていくために、そして両親や村の人を奪ったバルダッサッレに少しでも反抗するために、『エジステンツァ』を立ち上げた。
それが正義だなんて思わない。だけど正当な理由だ。
それに彼女は、アルドやジョットの命を奪った敵対者の長だ。簡単に認めて許すなんてできない。
バルダッサッレこそが正義と、本当に彼女が信じて仕えているのかどうかまでは分からないことだが、それでもやっぱり相容れない。
……でも。
不意に、初めて遭遇した時に、彼女がこちらを見て驚いたような顔をしたことを思い出した。
そうだっただろうか? とびきりの美女はいつもいかめしい表情を崩したことがなくて……。
いつも何か言いたげな顔でこっちを見ていて?
……分からなくなってきた。
眠れない。
隣にある気配と、記憶の中にある女の瞳は同じ、真っ直ぐな視線で彼を射る。
名前を呼ぼうとして、分からなくて口をつぐむ。
──ああ多分、惚れてたんだ。
天啓のように、唐突に自覚した。
麗しの美女の瞳に惑わされていたんだ、最初から。
なら最初っていうのは。始まりは、どこ。いつ。
俺にとっての始まりは、あいつにとっての始まりは。
違うそうじゃない。
始まりがどうだって、そんなことは問題じゃない。
結局はあいつの指示で、アルドもジョットも死んだ。
マウロは起き上がる。
感情が混乱している。そしてどちらかを選べない。惚れているのも、恨みに思っているのも、どっちも本当だった。
それにどうしてだろうか、つい少し前まで一本の道としてあったはずの記憶が混乱しているような気がする。それでも考えたところでどちらが正しいのかすら分からずに、かえって混乱を深めているような気がして思考を放棄した。
隣のエウフェーミアは、こちらに背を向けたまま身じろぎしない。
疲れているのだろう。
カーテンの隙間から差し込む月の光が彼女の美しい銀の髪を輝かせている。
マウロは思わず、そこに触れた。
いとおしげに、しばらく彼女の髪を撫でて。
マウロはまた、溜め息を漏らした。




