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動かない世界の中で変わるもの  作者: 唐草カナタ


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届かない[5]

 人が死ぬ、という事の意味を、ルドミラは初めて知った。

 アルドとジョットが死んだと聞いた時は、遺体を目にすることもなかったせいだろう、そこまで大きな意味を伴ってルドミラの中に浸透してはこなかった。例えば死んだのがリータだとかのよく言葉を交わす相手だったならまだしも、さして知らない相手だったということもあったのかも知れない。

 でもゲルハルトが死んだ今、ぽっかりと胸に大きな穴が開いたような気分だった。

 この気持ちの名前を、ルドミラは知らない。

 初めて目の前で人が、それも身近にいた相手が、死んだ。いつも笑いかけてきたあの姿も「ルルーさん」と呼ぶ声も、もう、ない。

「……ちが、う」

 ルドミラは呟いた。

 その声は、まるで自分のものではないようだった。

 違う、初めてじゃない。

 何重にも蓋をして、重石を載せておいた箱の中からあふれてくるものがある。

 嫌だ、──嫌だ。

 お願いだから、わたしを置いて行かないで。


 鏡を見るのが嫌いだった。

 大きな赤い帽子の下には、髪と同じ亜麻色の獣の耳がある。

 大きく膨らんだ長いスカートの中には、耳と同じ色の尻尾がある。

 そして記憶の中で優しく自分を抱き上げてくれるのは、全身を亜麻色の毛で覆われた二足歩行の獣──それが、ルドミラの父親だった。

 ケルブ。

 ヴァスラトゥーム王国より遥か北方の深い森に集落を持つ少数民族で、人狼のような姿の者たちのことをそう呼ぶ。全身毛皮に覆われたような姿だが人間と同じく二足歩行で言葉を操り、また高い身体能力や魔力を持つ。その姿や高い戦闘能力から人間たちに恐れられ、忌み嫌われていた。ケルブもまたそんな人間たちを嫌っていたが、圧倒的に数の劣るケルブは戦を起こして種が根絶するのを厭い、深い森の奥でひっそりと暮らしている、はずだった。

 いきさつは知らない、でも父は人間の母と愛し合い、彼女が生まれた。

 母はふんわりした茶色の長い髪とえんじ色の瞳の優しい女性で、ルドミラは両親が大好きだった。

 人里離れた森の中で、隠れるように暮らしていることも不思議とは思わなかった。幸せだった。


 母親が流行り病で倒れた時、ルドミラは両親の目を盗んで近くの村を目指し、森の中の家を飛び出した。

 父は食べられる植物や薬草にも詳しく、あらゆる手を尽くしたが、母の病状は重くなる一方だった。遂にはベッドから起き上がることもできなくなって、幼心にルドミラは、人里へ行ってお薬をもらってくるしかない、と考えたのだ。

 あっちへ行ってはいけないよ、人間がたくさん住んでいるから、ルドミラにはまだ危ないからね。

 そう口を酸っぱくして言い聞かされていたせいで、人の住んでいる村の場所は分かっていた。

 何がどう危ないのかなんて、知らなかった。

「お願いです、おかあさんが病気なんです、お薬をください」

 そう言って村の中を歩いたが、誰も彼女の言葉を聞いてくれようとはしなかった。知らない事だったけれど、この村も同じ流行り病に冒されていたのだった。薬も足りていなかった。

 誰もがピリピリと張り詰めてそれどころではない中に、異形の子供が入り込んできたならば、例え気の迷いが働いたとしても、その言葉を聞こうなどという者があるはずはなかった。

「ケルブのガキが!」

「入ってくんな、病魔が広がっちまうだろ!」

 泣きそうな顔で同じ言葉を繰り返すルドミラは、まだ父親譲りの耳や尻尾を人間が異質に感じるなんて知らなかった。

 獣の耳を持ち、スカートの裾から尻尾のはみ出た幼子は罵声を浴びせられ、石を投げられた。

 それでも諦めないでいると、村の男が斧を持ち出してきた。

「さっさと出て行け! さもないと……」

 斧が振り上げられた。

 脅すだけのつもりだったのだろうが、ルドミラはその鋭利な輝きに身を竦ませ、動けなかった。

 恐ろしくて目をつぶった。

 そして、彼女はふさふさの毛に全身を覆われた腕に抱き抱えられ、わんわん泣きながら森の中を家へと戻ったのだった。

 石をぶつけられた腕や足も痛かったけれど、誰も助けてくれない、冷たい視線が悲しかった。

 父はずっとルドミラの頭を撫でてくれていたけれど、一言も口を利かなかった。

 家へ帰ると、母はベッドの中から腕を伸ばして彼女の頭を撫でた。その感触は、優しい、というよりも、もう力が入らないから弱々しい、そんなふうに感じてまた悲しくなったのを覚えている。

 何があったのか、話さなくても母は理解したようだった。

 でも、母は泣きそうな顔で、ルドミラに語りかけた。

「ね……、ルドミラ。人間を、嫌いにならないでね。分かり合える人だって、きっといっぱいいるんだから……」

 か細い声だった。

 そんなことない。

 誰も分かってなんかくれないの、助けてなんかくれないの。

 でも母親をこれ以上悲しませるのは嫌だったから、首を縦にも振らない代わりに横にも振らずに、黙って母を見つめた。

 その日の夕方、母は息を引き取った。

 動かなくなった母親を、疲れて眠ってしまうまで、ずっと泣きながら呼び続けた。


 家から三日離れた場所に、石造りの建物があった。

 母を埋葬した翌朝から、父はルドミラを連れて森の中を隠れるように移動してその建物にやって来た。それが、オルトローサの館だった。

 同じようにケルブの血を引く者でありながら、彼女は「魔女」と呼び恐れられながらも同じくらい尊敬の念も受けていて、近辺の村の人間たちともそれなりの調和を保っていた。

 母が死んだ今、父は生まれ故郷に帰るのだと言った。

 本心を言えば連れて行きたいけれど、人間の血を引くお前はケルブの中でも歓迎されないかも知れない。それでもついてくることを選ぶなら一緒に行こう、でもお母さんの言葉も忘れないでほしい、自分は彼女以外の人間と分かり合える気はしないけれど、もしお前が人の中で生きようと思うなら、それでもいい、と。

 ……答えを、彼女は選べなかった。

 人間と分かり合えるとは思えない。

 でも、ケルブとも分かり合えるとは限らない。

 もしかしたら、自分を連れていることでおとうさんはケルブの中でも辛い思いをするかも知れない。

 それなら、どうしたらいい?


 結局、父はオルトローサにルドミラを預けて旅立ってしまった。

 その背中を見送りながら、大声で泣いた。涙も声も、涸れ果てるまで。

 でも父は、振り返らなかった。

 捨てられた、と思った。そうではないのに。結局は自分が選ばなかったことで選んだ結果がこうだったのに。

 でも子供だったからそんなの理解も納得もできなかった。

 あんまり辛くて悲しくて胸が張り裂けそうに痛くて、それまでの全部に蓋をして見えない場所に隠してしまった。

 辛いのも悲しいのもいや。

 楽しい事や嬉しい事なんて絶対、ない。

 そう思って全部捨ててしまった。……違う、持っていたけど見ないようにしていた。

 先生がずっとベールをかぶったままでいたのも、きっとその思い出を刺激しないようにするためだったんだろう。


 あの時と同じ。

 大事な人は、わたしの前からいなくなる。

 置いて行かないで、と叫んでも、絶対に振り返ってはくれない。

 みんな、手の届かない場所に行ってしまった。

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