約束は誓い[2]
数時間の仮眠の後、歩き出した二人はようやく街道のどこかに辿り着いた。
やっともうじき夜明けがくるらしい。森の中とは違い、辺りが容易に見渡せる街道からは、朝靄を通して次第に色を戻していく風景が見て取れた。
「多分、あれがポワンじゃないかしら」
白み始めた空とは逆方向、西の方角に霞んで見える町を指差し、エウフェーミアが言う。
「意外と近くて良かったな」
マウロは笑って頷くと、ポワンと思われる町のほうへ足を進める。
だが、しばらく歩いてからふと思い立って隣を歩く少女へと視線を向けた。
「そういえば、お前、家では何て呼ばれてた?」
「? エウフェーミア」
質問の意図が分からない、と首を傾げ、エウフェーミアは自分の名前をそのまま返す。
マウロは苦笑して首を振った。
「そうじゃない。愛称とか、そういうのはなかったのかって訊いてるんだ。安全が分かるまで、もしかしたら名前をそのまま呼ばないほうがいい場合もあるかも知れないだろ」
「……」
不安に顔を染めたエウフェーミアは、しばらく記憶を手繰っていたようだったが、やがて首を振った。
「うんと小さかった頃は、もしかしたら何かそうやって呼ばれてたのかも知れないけれど、覚えてない……」
「……そうか」
マウロは呟き、今度はこちらが考える。
エウフェーミアがポワンを離れてからは丸一日も経っていない。あれがポワンならいいが、多分、違う。船が見えない。
ポワンも、小さくはあるが港町だったはずだ。詳しくは聞かなかったが、恐らくは船を使ってビェリークからポワンまで移動したのだとマウロは思っている。例えそうでなかったとしても、港町であるポワンに船が一隻も見えないのはおかしい。
あの町がポワンじゃないとするなら、できるだけ彼女の正体は周囲に知られないように動くべきだ。
「そうだな、じゃあ……、ミーア。俺はお前をミーアって呼ぼう」
「ミーア?」
エウフェーミアの形の良い唇が、マウロの告げた呼び名を繰り返す。
「気に入らないか?」
問うと、エウフェーミアは少しだけ嬉しそうに首を振った。
「ううん、可愛いと思う」
「そうか、良かった」
マウロが笑うと、エウフェーミアは不意に真剣な表情になって彼を見た。
「あの、そういえば……、わたし、今まで貴方の名前を聞いてなくて」
「名前? 名前ね……ああ、うん。いや、名前は秘密だ」
元の場所に戻れる自信もないし可能性も低かったが、名前を告げてしまってはもしも自分が戻れた場合、後々おかしな事になるに違いない、そう考えたのだ。それならそれで適当に偽名を名乗ればいいものを、マウロはつい馬鹿正直に「言えない」と答えてしまっていた。
「……そう……」
途端、エウフェーミアは気落ちしたように表情を曇らせる。
「何か言えない理由があるの?」
「まあ、そんなところだ」
頷くと、エウフェーミアも困ったように笑ってそれ以上追及してくることはなかった。きっと、返る答えがないことも、相手を困らせるだけだということも分かったのだろう。
それっきり、二人は交わす言葉もなくなり、黙って町を目指した。
辿り着いた町は、やはりポワンではなかった。ポワンとは街道を歩いて約三日、離れているという。
追われて闇雲に森の中を駆け回っていたエウフェーミアと、突然森に放り込まれたマウロとが、長い距離を連なっているティラード山脈だけを頼りに夜の森を歩いた結果、本来目指す方向とは違う方面へ向かって進んでしまったのだろう。
街道を通らずに森を抜ければ一日でポワンへ辿り着けるかも知れないが、そもそも元来た道さえも既に分からない。迷う可能性を考えたら、遠回りになっても街道を通るべきなのは考えるまでもない事だった。
ポワンだと思っていたエウフェーミアは悲しげに吐息を漏らす。分かってはいた事だったが、マウロも一緒にがっかりしてやった。
夜明けと共に活動を始めた町は、それでもまだ人通りは少なく活気もそれほどには感じられない。
残り火がちろちろと燃えるだけの街灯にもたれ掛かり、マウロは懐から財布を出して中身を確認した。
スタンは個人の財布の中身まで差し出せとは言わなかった。『エジステンツァ』、要は山賊の頭目だったマウロは、多分人よりも財布の中身は多い。ここのところは使うような機会もあまりなかったから、余計だ。
ポワンまでは約三日、宿泊は必須だが、まあしばらく二人分の宿賃を出しても何とかなるだろう。三日経ってポワンに着いたら軍はもう引き揚げてました、とかいう事態を想定したとしても。
ついでにエウフェーミアの目立つ頭と服装を隠すために帽子と上着が要る。
屋内から飛ばされてきた自分も、せめて上着は欲しい。普段なら軽鎧の一つも身に着けているところだったが、それも割り当てられた大部屋に置きっぱなしだった。夏場の昼間に上着を羽織ってひたすら歩くのは暑かろうが、夜中に森の中で仮眠を取った時は肌寒かった。突然の雨に見舞われる可能性もあるだろうし、薄手の物を一枚持っておくに越したことはない、とマウロは考えたのだ。
だがこの時間じゃ、まだ服屋は開いていないだろう。
「とりあえず、宿を探して飯にしよう。ついでに少し休ませてもらえないか訊いてみよう」
マウロが提案すると、エウフェーミアは頷きながらもおずおずと自分の財布を差し出した。
「あの……、わたしも、あんまり多くないけど、自分でお金持っているから、その……」
マウロが自分の財布を覗き込んで難しい顔をしているのを見て、いたたまれなくなったのだろう。そもそも、彼女は別にマウロに金銭面でまで世話になろうとは考えていなかったに違いない。
「ああ、それじゃ、足りなくなったら頼もうかな」
答えてマウロは笑った。
足りなくなるという事態に陥ったら相当まずいが、まあ、何とかなるだろう。何しろ山賊で軍属だ。正規の軍隊ではないが。ともかく野山で生きるための知識には事欠かない。
とりあえず、食事と昼近くまでの休息を得た二人は、マウロの予定した通りに帽子と外套を購入し、街道をポワン方面へ向けて出発した。




