約束は誓い[1]
マウロはいきなり森の中に飛ばされ、エウフェーミアも男たちから逃げるために森の中を走り回っていたので、二人ともはっきりとした現在地は分からなかった。
ただティラード山脈が大きな影となって方角を教えてくれているから、大体の自分たちの居場所を予測することだけはできる。
「まあ、ティラードに向かいさえしなきゃ、街道のどっかには着くだろ。それからポワンに向かえばいいか」
マウロの提案にエウフェーミアは頷き、それからぽつりと呟いた。
「お父様が、まだポワンにおられるかどうか、分からないけど」
「……」
マウロはそっとエウフェーミアの顔を見る。
彼女は物分かりがいい。だからこそ、実の娘といえども部下の一人である彼女のために、兵士長という立場である父がいつまでも滞在しているわけがない、そう考えているのだろう。
「……真面目だな」
マウロは吐息交じりに呟いた。
真面目すぎるほどあまりに生真面目で、きっと真っ直ぐだから、女だてらに軍の中でも認められ、相応の役職を手に入れた。そこに至るまでには相当の努力が必要だったことだろう。そして真面目だからこそ、恐らくは自分の仕えるバルダッサッレが正しいと信じ、他のことが見えないのではないか。
「……何か、言った?」
エウフェーミアがマウロを見上げる。
「ん、ちょっとな」
マウロは曖昧に笑い、彼女の手を引いて歩き始める。
「手なんて握らなくても大丈夫よ。わたしはそんなに子供じゃないんだから」
やや怒ったように、そして少し照れたように言って、エウフェーミアは自分からマウロの手を離す。
その様子にマウロは苦笑する。
エウフェーミアに歩調を合わせながら、マウロはふと訊いてみたくなった。答えを聞いたところでどうというわけでもないし、どうすることもできないと思いながら。
「……なあ、お前は領主のジェローラモに仕えてるんだろう。この先領主が代替わりして……」
そこまで言って、やっぱりこんな問いは無意味だったと気がついた。
「そうだな、別に何も変わらねえよな」
「……そうね」
マウロの言葉の意図など、彼女に分かるはずもない。それでも途中までのその言葉を受け取り、少しだけ考えた様子でエウフェーミアが答える。
「確かに、今はジェローラモ様に仕えているわ。でも、わたしたちはジェローラモ様のために在るわけではなくて、ズィールの人たちが安心して暮らせるために在るのだもの。例え仕える相手が変わっても、何も変わることはないと思うわ」
……ズィールの人たちが安心して暮らせるため、か。
マウロは冷めた瞳を伏せる。
何という皮肉だろうか。近い未来、その軍隊は領主が私腹を肥やすためだけに在る。逆らう領民を牢獄へ送り、罰を与えるために。そして時折は見せしめのように領民の命を奪い、他の人々を恐怖で支配するために。最後には全てを他国へ売り渡すために。
「もし代わった領主が強欲で民を苦しめるだけの存在だったら」
口を突いて飛び出た言葉は自分でも驚くほどに早口で、それでいて低かった。
「……どうしたの?」
驚いた様子でエウフェーミアは足を止め、マウロを見上げる。
どうしたの? ……分からない。
今彼女にこんな事を言ったところできっと彼女は変わらない。真面目だから、真っ直ぐだから。
十年先にはフィクティラス砦の守備隊長となり、自分たちに剣を向ける。そして彼は、失う。
ああそもそも、自分たちが必ずしも正しいなんて事はない。きっと未だにバルダッサッレに従う者たちにとってはそれが正しいと信じた道なのだ。そういうことなのだ、彼女は彼女の正義を貫いているに過ぎない、きっとそうなのだ。
心根と同じ真っ直ぐな、白銀の長い髪。意志も気も強そうな菫色の瞳。すらりとした長身を白地に黒の縁取りを施した軍服に包み、当然のことだがいつもいかめしい表情をしていた、はっとするほどの美しい女。
全部の事情を抜きにして、いい女だと思ったことがないわけではない。
とびきりの美女で、それなりの地位にもいるエウフェーミアは、バルダッサッレの愛人だという噂を聞いたことがあった。
だから、ある町の酒宴の席であちら側から寝返ってきた兵たちと話をした時に、会話の流れもあって尋ねてみたことがある。
「あのエウフェーミアって女は、バルダッサッレの愛人ってな本当の話なのか?」
単なる興味から出た質問だった、多分。
「いや……、バルダッサッレが彼女を愛人にしたがったのは本当のようだが、すげなく断られたって話だな」
「訓練で一緒になったことが何度かあったが、頭もいいしそこらの男なんかよりよっぽど腕も立つ。なのに地方の仕事を転々とさせられてるのは、そういうことなんじゃないか?」
「大体、あの女は男どころか恋愛のれの字も知らないんじゃないか?」
「潔癖すぎるよな」
そう話した兵たちは、酒が入っていることも手伝ってかどっと笑った。
「どうもしない」
怯えのようなものが混じり始めた視線で見つめてくるエウフェーミアにやっと目を合わせ、マウロは少しだけ笑った。誤魔化すつもりの笑顔ではなかったが、ちゃんと笑えていたかどうかはよく分からない。
「きっとお前は変わらないんだ」
目を細め、それから少女の銀色の頭をぽんぽん、と軽く叩く。
「悪かったな。忘れていいよ。さっきも言っただろ、ちょっと色々あって動転してるんだ」
視線を前に向け、止まっていた足をゆっくり動かし始める。
数歩先で立ち止まって振り返ると、不安と不審の入り混じったような表情で立ち尽くしていたエウフェーミアは、やっと頷いた。
「……分かったわ」
そして隣までやってきたので、マウロも再び歩き出す。
しばらくの間は下草を踏み分ける二つの足音だけを発して進んでいたが、ふとマウロは思った。
「ところで、月があの辺りに見えるってことは、まだ真夜中にもなっちゃいねえよな?」
「ええ」
頷きに、マウロはまた立ち止まる。
「どうしたの?」
向けられたのは先ほどと同じ問いの言葉。
「……いや。俺はこの辺りは詳しくないんで何とも言えないんだが、森の深さと山脈の位置から考えると、近くの町に着くのも相当かかりそうな気がしてな」
今度は簡単に答えが出た。
「……そうかも知れないわ」
エウフェーミアも頷く。
兵学校を出たばかり、親も兵士長とあっては恐らくグルビナ生まれのグルビナ育ち、彼女もこの辺りに土地勘はないのだろう。
マウロはぐるりと首を巡らせ、周囲の様子を確認する。
背もたれ代わりになりそうな木には不自由しないし、下は草だから地面にそのまま腰を下ろすよりはいくらかマシだろう。
食べられそうな物も……ちょっと時季外れではあるが、青い果物が生っているのが目に入った。軽く火であぶって塩でもかけてやれば……いやいや流石に塩は持ってない。でも何も腹に入れないよりいい。
「仮眠しよう。俺も少し疲れてるし」
提案すると、マウロは相手の返答も待たずに手近な木の幹を背に座り込む。
自分は多少の強行軍では参らない自信があったが、兵学校を出たばかりの十四の少女ではそうもいかないのではないかと思ったのだ。
「……でも」
先ほどの男たちが追ってくることを警戒しているのだろう、エウフェーミアは渋ったが、マウロは安心させるように笑う。
「近くまで来りゃ分かるから、安心しろよ。あんな形相で追っかけてくるような奴らが気配を殺して探してるとは思えねえし」
「……そう、ね……」
完全に納得したわけではないのだろうが、エウフェーミアはやっと頷いて腰を下ろす。
代わってマウロが立ち上がった。
「腹は減ってないか?」
「そういえば……、少し」
自分の胃の辺りを押さえ、少女は苦笑した。




