第一話 秋にやってきたハルの使者(7)
惑星ハルから脱出する少し前、カナメとディモルフォセカはハルの地下に広がるハル連邦唯一にして最大の地下都市ハデスで暮らしていた。
ハルには三つの種族がハル政府の管理の下、それぞれがその血を混ぜることなく暮らしていた。惑星ハル、最後の文明を担っていたのは三種族、地球人とそっくりな『一般人』、見かけは一般人と変わりないが植物を操る能力を持つ『森の民』、そして葉緑体を持ち緑色の肌をした『ファームの民』だった。
ハル大災害以降、一般人とファームの民は地下都市ハデスで暮らしていたが、森の民は、唯一残された一握りの地上の森、アール・ダー村で暮らしていた。中でも特に森の民は厳しく管理されていて、一切の現実から切り離されて暮らしていた。現実……惑星ハルに残っている森はアール・ダー村だけだということ、惑星ハルが公転している恒星ジタンが間もなく寿命を迎えること、地下都市でハル政府が科学技術力を駆使してエクソダスを計画していることなどの一切を何も知らされずに森の民は暮らしていた。
人口管理も厳しく行われていて、森の民の力を絶やさぬように婚姻にまで政府が介入し、決定権を行使した。だから、政府の定めた婚姻を拒否して地下都市に逃げ込んだディモルフォセカ・オーランティアカは国家反逆罪という立派な罪名を持った犯罪者だった。出会うはずのなかった二人だった。
お尋ね者の森の民ディモルフォセカと一般人のカナメが一緒に暮らすことになったのは、全くの偶然に過ぎなかった。その偶然の出会いからハル脱出の時まで、カナメはディモルフォセカを守ることに終始するはめになる。
たくさんの嘘をついて、たくさんの情報を隠して、地下都市生活のことなど何一つ知らないディモルフォセカをカナメは守って来た。だから、カナメが嘘をつく、もしくは本当のことを教えないということは、ディモルフォセカに危険が迫っているというサインだった。
そのことを瑞樹は遠い昔の記憶として知っていた。ディモルフォセカの記憶をすべて持っていたからだ。時々自分でもわからなくなる。自分は日向瑞樹なのか、ディモルフォセカなのかと。少なくとも、かつてディモルフォセカだったくらいの現実感をもって、彼女の人生を内包していると感じていた。
危険が迫っているのだ。瑞樹は静かな気持ちで納得した。
「ねぇ、瑞樹、このクッキーの残りを貰って行ってもいいかしら?」
アーマルターシュは瑞樹の家のリビングでソファーにもたれていたが、階下に降りてきた瑞樹を見て言った。
「もちろん、いいよ。持って行って。包んであげるね」
瑞樹の両親も一緒にリビングにいたが、呆然自失の状態で座り込んでいる。心配して付いてきた正樹ちゃんがパパにウイスキーのロックを勧めていた。
「ねぇ、私、ハルに行って来ようと思うんだけど……」
瑞樹がキッチンでクッキーをラッピングしながら話し始めると、両親ともびくりと体を震わせた。正樹は難しい顔をしたまま身動き一つしない。
「でもね、後、二か月くらい待ってもらったら二学期が終わるし、それまで待ってもらうことはできないかな?」
「二か月……微妙ね。どう?」
アーマルターシュはラークスパーを見つめた。
「トウキを残せば大丈夫ではないかと……あまり延ばしたくはありませんがね。もし何か異常があればすぐにでも出発してもらうという前提でですが……」
ラークスパーは思案顔で言った。
「わかったわ、そのかわりトウキをここに寄こすわ。それでいい?」
アーマルターシュは瑞樹を見つめた。
「なんでトウキ?」
瑞樹は府に落ちない顔をする。トウキはセキュリティー部門を担当しているハルのアンドロイドだ。
「何かあった時の為よ」
瑞樹は目を見開く。ここにいてさえ、何か起こるかもしれないと言っているのだ。
「なぁ、あんたら日本語しゃべってても意味がよくわからないんだけど……トウキって何?」
正樹が眉間に皺を寄せて訊いた。
「トウキはボディガードみたいなものです。瑞樹に何か異変が起こった時に彼なら適切な処置ができるでしょう」
アーマルターシュは両親を安心させるように穏やかに微笑みながら言った。
「そんな急に何か起こることがあるんでしょうか?」
父親が心配そうに言った。
「それは誰にもわかりません」
ラークスパーが答える。
「それなら一刻も早くハルに連れて行った方がいいのではないですか?」
瑞樹の母親がラークスパーを縋るように見つめた。
「あのねぇ、ママ、私にだって都合とゆーものがあるのよ」
緊張感溢れたその場の雰囲気を瑞樹ののんびりした声が緩める。
「なにのんびりしたこと言ってるの? あんたの都合なんて大したことないでしょ!」
母親が瑞樹を睨みつけた。
「ママ、私ね、もう病気では死なないって思うんだ。だから、その点では安心しといてよ。でも、ハルに行ったら、またしばらくここに戻れないと思うよ。だったら、身の回りを整理してから行きたいって思うでしょ。文化祭だってあるし、期末試験だっていい成績とっとけば、三学期少しばかり休んだって大目に見てもらえるかもしれないじゃない。受験はまだ諦められないから、できれば受験までには帰りたいって思ってるけど……」
瑞樹の静かな声にはある種の決意のようなものが感じられて、両親も正樹ちゃんも口を噤んだ。
今の時点で、いつここに戻ってこれるのか、無事に帰ってこれるのか瑞樹にはさっぱり見当はつかなかったが、少しでもまともな未来を考えていると親に思わせたかった。普通の娘らしいことを何一つしてこられなかった今までのお詫びに……。
「じゃあ、決まりね」
アーマルターシュが話を切り上げるように言い放った。瑞樹はラッピングしたクッキーをアーマルターシュに手渡した。
「ありがとう。このクッキーは本当に気に入ったわ。ハルの国菓にしようかしら」
アーマルターシュはにっこりして言った。
「はぁ? 何? 国菓って」
瑞樹が素っ頓狂な声を出す。
「国の菓子でしょ? 国菓」
「そんなのないよー、ねぇ、正樹ちゃん?」
「ドイツのバームクーヘンとかオーストラリアのティムタムとかそう呼ばれていることがあるけどな…」
正樹も脱力して返事をする。
「へぇ、そうなの?」
瑞樹は感心する。
「ハル共和国は誕生したばかりだから、色々な細々したことがまだ全然決まってないのよ。国花は誰かさんのせいで決まっちゃったから、他のも色々考えて行きたいんだけど……。国花の他って何があるの?」
アーマルターシュは邪気のない顔で問う。
「さぁ、そう改めて訊かれるとなぁ。国歌とか国旗とか国鳥とか……なんでもありじゃないの?」
正樹ちゃんが呆れたように返事をした。
「ほーら、国菓だってありじゃない」
アーマルターシュは勝ち誇ったように言う。
「それはそんな無理に決めなくてもいいんじゃない?」
アーマルターシュと瑞樹のやりとりに、みんなの笑顔が戻って来た。ハル共和国の行く末をみんなが案じ、意見を出し合い、これからの発展を祈った。国を一つ新しく作るということは、想像以上に大変で、想像以上にわくわくすることに思えた。
暇を告げたハル人三人を見送って、瑞樹と正樹は小学校へ向かって歩いていた。この小学校は瑞樹と正樹と皐月が通った小学校だ。小学校が見えてきたところでアーマルターシュが振り返った。
「ここまでで結構よ。送ってくれてありがとう」
「ここまででって、こんな所で帰り道わかるんですか? 駅とは反対方向ですよ?」
正樹が不思議そうに言った。
「もちろんよ。じゃあ、瑞樹、ハル共和国で待っているわ」
「うん」
瑞樹はアーマルターシュを見てにっこり笑った。
「俺……瑞樹と一緒にハルに行きたいって思うんですけど……」
正樹ちゃんがアーマルターシュを見つめて言った。
「そう言ってくれると思っていました」
アーマルターシュは破顔した。
「ええー? 小父さんと小母さんは知ってるの?」
瑞樹はびっくりして言った。
「知ってる訳ないじゃん、今決めたんだし。でも留学先が米国からハルに変わるだけだ、そう問題もないだろうよ」
正樹ちゃんは覚悟を決めたように言って、晴々と笑った。