第十三話 海の宝玉 蒼穹の欠片(4) 完結
水平線に口づけを始めた太陽が、空を赤く染めあげているサンセットビーチは、かなりの人で賑わっていた。
潮騒の音が耳に心地よい。タウンバスを降りた瑞樹は浜辺まで駆けだした。
「転ぶなよ!」
後ろからニシキギの呆れた声が追いかけてくる。
久しぶりに帰ってきた地球の空気は濃密で、雑多な匂いで満ち溢れていた。海と大地と植物と動物が発する匂い。瑞樹は胸いっぱいに夕刻の涼やかな空気を吸い込む。
「あー、久しぶりの海―」
赤く大きくなった太陽のやわらかな日差しを堪能する。
「おねーさん、おねーさん」
突然片言のハル語で話しかけてきた人がいた。
「おねーさん、あの時、パラソル買ってくれた人だね?」
瑞樹が声に振り向くと、パラソル売りのサンボが立っていた。
「あー、あの時の……」
サンボは破願した。
「おねーさん、あの後パラソル忘れて行ったね」
「ああ、そうだった」
カフェテリアのテーブルにかけたまま、あの場を逃げ出してしまったのだった。白い花柄とイルカ柄の二本のパラソル。
「こないだ、あのおにーさんを見かけた時に、私、パラソルを渡そうとしたね。そしたら、おにーさんはそんなパラソル知らない言ったよ。おねーさんと一緒にいたおにーさんは双子か?」
「あー、まー、そーかな」
トウキは、私が渡したパラソルのことを他のトウキに秘密にしていた?ぼんやり考えていた瑞樹の耳に、突然、サンボが口を寄せて囁いた。
「おねーさん、この前のおにーさんとは別れたか?今度はあのおにーさんとデート中か?」
サンボはニシキギを目線で示して言った。
「な、何を言ってるの?トウキとはデートなんてしてないよ」
「トウキ?どっちのおにーさんの名前か?」
サンボはニヤニヤしながら声を潜めたまま話した。
ニシキギが怪訝そうな顔をして近づいてくる。
「瑞樹?どうかしたのか?」
不機嫌そうなニシキギの声に、サンボが首を竦めた。
「パラソルは今度会った時に返した方が良さそうね」
「……」
「おねーさん、デートはね、おねーさんが本当に心から愛している人とした方がいいね。その方が楽しいし、後始末も必要ないしね」
サンボはワザとらしく、しかつめらしい顔を作って言った。
「だからー、トウキ……前のおにーさんとはデートとか、そんなんじゃなかったんだってばー」
瑞樹はムキになって言い返す。ニシキギが隣にやってきた。
「おにーさん、このおねーさん、前にビーチで忘れ物をしたね。私預かってるよ。それを伝えたかっただけね」
サンボの説明に、ニシキギは納得したような納得できないような複雑な表情をした。
「何を忘れたんだ?」
ニシキギは瑞樹に問いかける。
「この前トウキとビーチに来た時に、パラソルを忘れたんだよ」
瑞樹の説明に、ニシキギは納得した表情をした。
「あー、あの時のな。なるほど……」
「……」
サンボは少し気が抜けたような顔で肩をすくめた。
「君……そのパラソルは今すぐ持ってこれるのか?」
「私はカルロって言います。パラソルはカフェテリアの店に置いてあるよ」
「じゃあカルロ、ホテルのフロントまで届けておいてもらえるか?エウオニムスの名前で予約してあるから」
ニシキギはそう言うと、カルロにチップを渡した。
「了解ねー」
カルロはニッと笑って、親指を立てたガッツポーズを作ると、瑞樹の背中をぽんぽーんと軽く叩いて走り去った。
カルロは再び善からぬそーぞーを巡らせて、そんな行動をとったに違いなく、瑞樹は誤解を訂正しようとして口を開きかけたまま静止した。だって……なんて言い訳をする?食事をしにきただけなんだよ?なんて言い訳をする方が逆にあやしいじゃん。瑞樹はがっくり肩を落とす。
「瑞樹、手」
砂に足をとられそうになったところで、ニシキギが伸ばした手にありがたく掴まった。波打ち際を二人で手をつないで歩く。
トウキは、どんな想いであのパラソルのことを秘密にしたんだろうか。瑞樹は切ない気持で砂浜に佇んだ。
「トウキは……私が壊してしまったトウキは、たった一人だけのトウキだったよ」
誰に言う訳でもなく、ポツリと零れてしまった言葉に、ニシキギは何も言わずに瑞樹の頭をポンポンと軽く叩いた。
しばらく沈黙が続いたあと、ニシキギが問いかけてきた。
「ずっと聞きたくて、でもずっと聞けないでいたんだが……おまえ、精神崩壊していた時のことは、何も覚えていないのか?」
瑞樹は視線を彷徨わせる。
「……ところどころ、すっぱり抜け落ちている所もあるみたいなんだけど、たぶん、ほとんど覚えてる……と思う」
「……シオンのことは?」
「もちろん覚えてる。シオンがいたころは、自分の体を誰か別の人が運転してるみたいな状態だったよ。自分は助手席に座って見てるみたいな……」
「……」
「シオンがいなくなってからは、私自身は深い水の底にいるみたいで、そこにただ居て、命令を待っているって感じだった。命令されたことしかしてはいけないって、そういう状態だった……」
「命令されたこと……」
ニシキギはすごく戸惑っているように見えた。
「じゃあ、俺がシオンに話したことも、お前に命令したことも……全部覚えていると言うことか?」
「……」
ニシキギの戸惑いの理由が分かる気がして、瑞樹まで戸惑ってくる。
「俺が、愛して欲しいと言ったことも?」
「……うん……」
「……その後、お前はカナメと意識が繋がったんだよな?」
「ああ、そうだね」
ニシキギの戸惑いの理由は瑞樹が考えているものと少々ずれているような気がして、瑞樹は首を傾げた。
だからなのか。ニシキギは一人納得して眉間にしわを寄せた。
地球に戻る直前、ナンディーのカフェテリアでカナメと会った時のことだ。
「地球に戻ったら、サンセットビーチのホテルで食事をする約束をしているんだって?」
ランチのトレーをニシキギの隣に並べながらカナメが話しかけてきた。
「瑞樹から聞いたのか?それとも自動的にわかるのか?」
「瑞樹に聞いたんだ。もう瑞樹の意識と僕の意識は遮断されているよ。気にしてた?」
「その割にはよくコミュニケーションがとれているようだな」
ニシキギはしかめっ面で言う。
「近くにいるときは、小まめに接触しておかないと意識が微妙にずれて、しょっちゅう嫌な思いをすることになるもんでね。それに……娘をもつ父親の気分なんだ。悪いやつにだまされていないかとか、辛い状況になってないかとか、色々気になってね……」
カナメはニヤリと笑んだ。
ニシキギは大きな溜息をつく。最近、この二人を見ていると、微妙に似てきているようで、時々不安になる。同じセリフを同時に口にしたり、同じ動作を同時にしたり、しょっちゅうハイタッチをしていたり……親子だと言われても、兄妹だと言われても、二卵性の双生児だと言われても納得しそうだ。
「瑞樹を……頼むよ。大事にしてやってくれ」
「そんなことあんたに言われなくたって、大事にするさ」
ニシキギのふてくされた言い方にカナメは苦笑すると、視線をトレーに落とした。
「……僕はね、相手がどんなやつであれ、瑞樹を渡す時には、後悔や喪失感や嫉妬心を感じるんだろうと……ずっと思っていた。ディムを盗られた気分になるんだろうと……そう思っていた」
メインの肉にフォークをグサリと突き刺しながらカナメは言った。
「……違うのか?」
カナメがナイフでゴリゴリと肉を切り分けているのを、引き気味に見つめながらニシキギが問い返す。
「違うな。誤解を恐れずに言うと…僕は君が好きだ。あれ?なんで離れるんだ?」
ニシキギはトレーごとカナメから離れていた。
「俺はそう言う趣味はないぞ」
「失敬な。僕にだってそんな趣味はない」
カナメはむっとした表情で、トレーごとニシキギに接近する。
「だったら、そんなに近づくことないだろう?」
体を離すニシキギの耳元にカナメは口を寄せて囁いた。
「最近気づいたんだが、瑞樹が好きなものは僕も好きになるし、僕が好きなものは瑞樹も好きになる傾向があるようなんだ」
「……」
ニシキギは怪訝そうにカナメを見つめる。
「言っている意味が分かるか?」
「……」
ニシキギの背中を嫌な汗がつたう。
「僕が君を嫌いになれば、瑞樹も君を嫌いになるかもしれないということだ」
カナメはにやりと鮮やかな紅い瞳を細めた。
ブルリとニシキギは身震いする。
俺の気持ちも瑞樹の気持ちも把握したうえで、やつはそう言ったに違いなく、一番性質の悪い人物に弱みを握られているらしいということに、ニシキギは悄然とする。
「あー、空がすごーく広い!」
隣で瑞樹が寝転んで叫んでいた。ニシキギは瑞樹の声で現実に引き戻される。
「ニシキギも寝転んでみなよ。すごーく広くて、いい気持ちだよ?」
瑞樹に言われるまま寝転んでみる。夕焼けの空はどこまでも広がっていて、果てがないように思われた。
「……俺にとっては、あまりいい気持ちではないな。なんだか、屋根のない飛行機に乗せられているようで落ち着かない」
不安で落ちつかなくなる。
「そうなの?かわいそー」
ニシキギは体を起して、水平線を見つめた。どこまでも広がっている空が海と交わっている。逆にニシキギは瑞樹の上に覆いかぶさって、見下ろした。
「俺はこっちの方が眺めがいいな」
瑞樹は微笑んで、ニシキギの顔に手を伸ばした。
「青空の欠片ー」
「?」
色素を失って、昼間の青空を見られなくなったと嘆いていたのが、もう随分昔のことみたいだ。
「青空の欠片?」
「うん、ニシキギの瞳」
「ひどいな、俺は海の宝玉だって言ってやったのに、俺のは欠片か?」
「欠片は欠片でも青空のだよ?瞳なんだよ?欠片じゃなかったら、どんだけ大きな目なんだしー」
ふくれっ面で文句を言う瑞樹にニシキギは小さく笑んだ。
「瑞樹、水平線を見たか?」
「?」
「空が海を抱きしめている」
そう言うと、ニシキギは瑞樹を抱きしめて口づけた。幾度となく落とされた口づけに、瑞樹は頭の中がじんわりと痺れていくのを感じていた。
だから、気づくのが遅れたのだ……
ざざーっと大波が、瑞樹の背中を這い上がり、戻っていく波に足元の砂がさらわれて抉られていく。
「きゃあー」
「わぁ!」
慌てたニシキギが瑞樹を引き起こしたが、時すでに遅く……全身ずぶ濡れの瑞樹はがっくりとうなだれる。恨めしげに、ニシキギをちら見すると、彼は膝下を濡らしただけのようで、膝についた砂を払っていた。
「ねー、ずぶ濡れじゃあ、ホテルに入れてくれないよね」
栗色の髪の先からポタポタと滴が落ちる。
「さあな」
ニシキギは肩を竦めた。
「さあなじゃないでしょお?どうしてくれんのよー」
今日のホテルの食事は、海で取れた新鮮な魚介料理と島で採れる南国フルーツのデザートが売りで……瑞樹は、それは、それは、とーっても楽しみにしていたのだ。
「おい、寄るな。俺まで濡れる」
瑞樹はニシキギに飛びついてゴシゴシ体をこすりつける。
「ニシキギも一緒にずぶぬれになろーよ。っていうかー、元々ニシキギのせいじゃん!」
「おまえが勝手に寝転んだんだろ?放せ!」
「放さないよっ!」
浜辺で延々と追いかけっこを繰り広げる二人のお腹は、空しく減っていくばかりなのだった。
* * *
カナメはラウンジで一人、メムシンのソーダ割りを楽しんでいた。ナンディー程ではないが、ガルダβは比較的大きな造りの宇宙船で、人工重力も働いているので快適だ。
ガルダβは火星の衛星フォボスで建造された。今ガルダβが目指しているのは女神ビーナス。金星だ。
今頃、瑞樹は地球に着いているのだろう。自分の中に二人をつなぐ扉がある。何をしているのか知ることも可能だ……おっと、いけない。お互いの領域に侵入しない。これは二人で決めたことだ。僕が決まりを破ってどうする?カナメは苦笑する。
「なんだ、ここにいたのかー」
背後から聞き慣れた声がした。
「なんで君がここにいる?地球に戻ったんじゃないのか?」
振り向くと正樹が立っていた。
「ビーナスに会いに行きたくなったのさ」
「やっぱり地球が恋しくなったって泣いたって、この船は地球には寄らないぞ?」
「泣くか」
正樹はむっとした様子で隣に腰をおろした。
「泣いてるのはあんたの方じゃないのか?瑞樹をさらわれてさ」
正樹の言葉に意外なことを言われたかのように、カナメは片眉を上げた。
「瑞樹をさらわれたと思っているのは君の方だと思っていたよ」
「……いや、不思議とそうは思わなかったな」
扉を……瑞樹を飲み込んだ扉を渾身の力で開いていたニシキギの姿を思い出しながら、正樹は言った。
「俺は、守り人降板だ。そうだな、どちらかと言うと、肩の荷が下りた気分かな」
「なんだか、ひどい言われようだ」
カナメは顔を顰める。
「ひどくないさ。瑞樹は生まれつきのトラブルテイカーだ。きっと今頃、またトラブルを拾ってるさ。海に落っこちるとかしてなー」
「ありそうだ」
二人して、くつくつと笑い合う。
「金星のフローティングシティは過酷だよ?君は気に入らないと思うな」
「遊びに行くわけじゃないぜ?」
「そうなのか?」
「女神のご機嫌を伺いに行くんだ」
正樹はメムシンのロックが入ったグラスをカラカラと鳴らした。
「なるほど……女性はイブキの専門だからな」
「あんたは男専門なのかよ」
カナメは正樹の言葉に目を見開く。その昔、イブキと似たような会話をしたことがあったからだ。ハルで……今はもうない、あの惑星で……
「なんだよ」
正樹が怪訝そうにカナメを見つめた。
「いや……そうだな、君がいれば心強いよ」
カナメはそう言うと破顔した。
そうだ……今はハルにいたときとは違う。太陽系を見捨てるために闘っているわけじゃない。拓くために闘っているのだ。
それに、この青い空と蒼い海の宝玉、地球を…どこまで守れるのか挑戦するのもいいじゃないか。
決して変わろうとしない『頑固な過去』、どうなるのか見当のつかない『得体のしれない未来』、その間に挟まれて右往左往する『悩み多き現在』
例え、未来の得体が知れなくても、君たちが一緒なら、それもまた楽しみの一つだ。
未来へ……ガルダβは飛翔した。
〈了〉
惑星ハルシリーズ第二弾「海の宝玉 蒼穹の欠片」これにて完結です。読んでくださった皆様、拙い招夏の作品に、貴重な時間を割いてくださいましたこと、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。2009年7月20日(月) 招夏