第十二話 時空の狭間で(3)
「コアツェルヴァト」に関しては、後書で、少々ウンチクを語るつもりです。よろしかったらおつきあいください(*^_^*) 招夏
カナメと瑞樹は、完全な闇の中を上昇していた。地面の上にあいた穴に入ったのだから、落下するものだとばかり思っていた瑞樹は、息を呑む。しかし、言葉を発することはかなわず、ただ、ぼんやりとした意識だけが、そこには存在した。
幽かな音をたてて落ちた小滴、コアツェルヴァト……生命の起源
まさに、二人は大海に滴り落ちた一粒のコアツェルヴァトだった。カナメと瑞樹は、自らが、周囲を取り巻く溶液から様々な物質を取り込んでいるのを感じていた。次いで、獲得した、頼りなくグニャグニャとした個体。
上に行きたい、その思いだけが体を上昇させる。隣のカナメが、全く同じことを考えていることが手に取るように分かった。
やがて闇は、薄墨のように徐々に薄くなり、逆に意識はそれにつれて濃く、はっきりとしていった。
上へ、もっと上へ……それは進化の系統樹を上っているような気分だった。
何も考えられなかった単細胞の生き物から多細胞生物へ、やがて脊椎を持つ生き物へ、海を離れ陸へ、巨大化し、体温を調節し、空を飛び、手を使い、複雑なことを考えられるようになる。
薄墨は更に薄く、やがて無色透明になり、いつしか二人は白く輝く光を目指して飛翔していた。
それは永遠のことのようであり、一瞬のことであるようだった。
まもなく我々は樹の先端に辿り着く。
* * *
「くっ」
ニシキギが絶望的に呻いた瞬間、大きな光の塊が、僅かにあいた隙間からすべり出て、ニシキギをなぎ倒した。その途端に、扉は重々しい音をたてて閉じ、轟音と共に地面を揺らして崩れ去った。その衝撃からくる震動は、扉が見えていないものにも感じられるほどで、僅かな間ではあったが、ナンディーに乗っているすべての人々を震え上がらせた。
「なんだ?この揺れは?」
ブラキカムは、慌てて近くに置いてあった医療器具を積んだワゴンを手で押さえた。あちらこちらで医療スタッフが悲鳴をあげる。
「ブラキカム、カナメと瑞樹の自発呼吸が回復しました」
揺れが収まった直後、人工呼吸器を担当していた医師が告げた。
瑞樹は白い天井を見上げていた。ここが樹の先端なんだと心の中でぼんやりと思って、はっと気づき辺りを見回した。緑色の瞳のトウキと目が合う。
「瑞樹、お帰りなさい」
トウキはにっこりと微笑んだ。
「トウキ……」
じんわりと涙が溢れてくる。トウキ一号は私が破壊してしまったんだ。そしてはっと気づく。
「ニシキギは?正樹ちゃんは?アーマルターシュは?イベリスは?エニシダは?みんな無事なの?」
「みんな無事ですよ。ニシキギは隣のベッドにいます」
瑞樹のベッドの隣はパーテーションで区切られていて、ニシキギはその向こうのベッドにいるらしかった。瑞樹は慌てて起き上がろうとしたが、すぐに眩暈を感じて再びベッドに倒れこんだ。
「無理をしないで、パーテーションをどけましょうか?ニシキギに確認してからね」
トウキは向うに消えて、すぐにパーテーションが除けられた。
「瑞樹……」
ニシキギは右手を包帯でぐるぐる巻きにされていた。横たわったままでお互いの瞳を見つめあう。
「ニシキギ、ありがとう。ここに戻してくれて。大丈夫なの?」
ニシキギはゆっくりと起き上がると、瑞樹のベッドに近づいた。
「大丈夫だ、利き手じゃないし……ブラキカムが、いつでも元に戻してくれると言ってた」
「元に戻すって……どうなったの?」
瑞樹は慌てて起き上がろうとするが、ニシキギは、やんわりとそれを押し戻した。
「指先の神経が麻痺しているだけだ。リハビリで戻るかもしれないし、もし戻らなくても部分再生すればいいことだ。そんなことよりも、お前はなんともないのか?」
ニシキギは包帯を巻いていない方の手で、瑞樹の髪を愛おしそうに梳きあげた。瑞樹は絶句する。
なんともないと言えば、なんともないのだが、問題がないかと言えば、それは、ないとは言い切れなくて……。
「どうした?」
「……扉の向こうで、ハルに会ったよ」
瑞樹の言葉にニシキギは目を見開く。
「私たちをこっちの世界に帰してくれたの。でも、その時に、少し問題があって……」
瑞樹は言いよどむ。
「どんな問題だ?俺にしてみれば、お前がここにこうしているだけで、問題なんて何もないんだがな」
髪を梳いていた手をゆっくりと下ろし、ニシキギは指先で頬を優しく撫でる。額にキスをして、両頬にもキスをする。
「ニシキギ、やめて、ダメなの。私、ニシキギにそんな風に言ってもらう資格がない」
瑞樹の言葉に、ニシキギが驚いて見つめる。
「俺が嫌いになったということか?あの時扉に吸い込まれていくお前が言った言葉は、嘘だったのか?最後のリップサービスだったって訳か?」
ニシキギが掠れた声で言った。
「そうじゃない、そうじゃないよ。だけど、ハルが作ってくれた脱出トンネルは完全体じゃないと通れないからって……私、カナメと一つにならなきゃならなかった。どうなるか分からない、どこかがくっついちゃうかもしれないってハルは言ってたけど……こんなことになるなんて思ってなかった。私、ニシキギに会いたくて帰ってきたのに、もうニシキギに抱きしめてもらう資格がない」
瑞樹はわぁっと泣き出した。ニシキギはあっけにとられる。
「お前、言ってることがさっぱり分からないぞ。きちんと分かるように説明しろ」
「だって、だって……カナメだって困るに決まってる。私はもう誰にも愛してもらう資格がないよ……」
取り乱した瑞樹の説明は、益々謎めいていて、ニシキギは唖然とする。
「もういい、カナメに訊いてくる」
泣きじゃくる瑞樹に業を煮やして、ニシキギは荒々しくドアを閉めると病室を後にした。
カナメは、別の部屋で、白い天井を見つめていたが一つ大きくため息をつく。やれやれ、またトラブルだ、心の中で呟く。
廊下を歩く荒々しい音が聞こえて、ノックの音と同時にドアが開いた。
「カナメ、起きてくれ、瑞樹が変なんだ。あんた、あいつと何があったんだ?」
「もう起きてるさ」
カナメはベッドの上に起き上がっていた。
「ニシキギ、その前にお礼を言わせてくれ。君のお陰で戻ってくることができた」
カナメは手を差し出した。
その手を軽く握りしめながら、ニシキギは微笑んだ。
「礼を言わなければならないのは俺の方だ。瑞樹を連れ戻してくれて、感謝している」
ニシキギは言い終わると眉間に皺を寄せた。
「それはさておき、瑞樹がさっぱり訳が分からないことを話すんだ。あいつ、何があったんだ?ハルに会ったとか完全体とか……」
「本当にハルがいたんだよ。扉の向こうは時間も空間も存在しない場所だった」
カナメは向こうでの出来事を話して聞かせた。
「帰る道はそこしかないと言われたんだ。完全体でないと通れないトンネルだ。そこで僕たちは、たとえ接合したとしても軽度で済むようにと、手をつないでトンネルに入ったんだけど……」
「手はくっついていないようだよな」
「瑞樹は僕の心配をしていたかい?」
カナメの問いかけにニシキギは記憶を辿る。安否を尋ねた人の中にカナメの名前はあっただろうか……ニシキギは首を傾げる。
「いや、よく覚えていないが……」
「彼女は僕の心配なんてする訳がないんだ。なぜなら、無事でいることが分かっているからね。何をしているかも分かっているはずだ。僕にも瑞樹が今何をしているかがはっきり分かる。泣いていて、今トウキが戻ってきて事情を聴き出している。瑞樹は言えないって、また泣いてる」
ニシキギは瞠目する。カナメは続けた。
「君、さっき瑞樹にキスしようとして拒否されただろう?」
ニシキギは眉間にしわを寄せる。
「君の左手が何をしているのか右手には分かるように、瑞樹が何をしているのか僕には分かるし、瑞樹も僕が何をしているのか分かるんだ。だから心配する必要がない。瑞樹が君とのキスを拒否しなければ、僕は君とキスした気分になっていただろう」
カナメは肩を竦める。
「なん……だって?」
ニシキギは、あっけにとられて言葉が出ない。
「簡単にいえば、僕と瑞樹は、脳……というか、意識が接合してしまったらしいんだ」
カナメはがっくりと項垂れた。
「……どうするんだ?」
呆然としたニシキギがカナメを見つめる。
「さっきから考えているんだけど、自分の中にシールドを張るしかないだろうと思ってる。大脳コンタクトで常につながっている状態を考えればいいんだからね。だけど、急にすべて遮断することはできないから、徐々にだな」
カナメはため息をつく。
「つまり……あんたたちは、今、二人で一人になっていると言う訳なんだな」
ニシキギも溜息をつく。
だから、トラブルテイカーだって言っただろ、そんな正樹の声が聞こえた気がした。
「……分かった。あんたのシールドが完成して、許可が出るまでは瑞樹に何もしない。抱きしめるくらいはいいのか?」
「……君の心の広さは宇宙並みだな」
カナメは感心したようにニシキギを見上げる。
「俺があいつのことを、どれだけ捜して、待ち続けたと思ってるんだ?おいそれと諦められるか」
「執念深さも宇宙並みだ」
カナメはため息をつく。
「ああ、ダメだ!」
カナメが突然鋭く制止した。
「何だ?」
ニシキギは眉間にしわを寄せる。
「今、瑞樹がトウキを巻いて、部屋から逃亡した」
カナメの言葉にニシキギは目を見張る。
「そんなことも分かるのか?」
「便利なんだか、不便なんだか分からないね」
カナメは苦笑する。
「行き先なら俺にだって分かるぞ」
ニシキギは渋面で言う。
「エリアEだよ」
とカナメが、
「エリアEだろ」
とニシキギが、同時に言った。
「離れれば離れるほど意識が薄くなっていくな。距離が離れていれば、お互いにあまり干渉しなくなるのかもしれない……」
カナメは目を閉じた。瑞樹の混乱が、瑞樹の哀しみが、瑞樹の切なさが伝わってくる。自分への思いも、ニシキギへの思いも、ディモルフォセカへの思いも……。分かっているのは、自分には何もしてやることができないということだけ。
「でもまだ感じる。泣いてる……」
カナメは目を開けて、怪訝そうに首を傾げた。
「おい、早く行けよ」
ぼんやりしている風情のニシキギが、はっとした顔で頷いて部屋を出て行った。
読んでくださってありがとうございました。
さて、「コアツゥルヴァト」についてのウンチクです。と言っても、以下、「元素からみた地球」島 誠著からの抜粋なのですが……(^^ゞ
ソ連(現ロシア)の科学者オパーリンが唱えた説で、「コアツェルヴァト」と言われる小滴が、生命発生の一つの道筋として、大きな役割を果たしたとする説
(例として)ゼラチンとアラビアゴム液を混合すると、その中で極めて小さな液滴が分離され、その結果溶液が濁って見えるようになる。この小滴がオパーリンの名づけた「コアツェルヴァト」で、これは一つ一つが互いに分離しながら、周囲の溶液からいろいろの物質を取り込む力があると言われている。つまり、まわりの溶液に有機物があれば、それをとらえて成長することができる。ここに生命のスタートがあるのではないかと言うのがオパーリンの主張する「生命の起源」説である。
へぇぇぇ…(@_@)と感心し、小説ネタとして使わせていただきました。以上