第十一話 トラップの発動(1)
瑞樹の人格を戻すための準備が整って、いよいよ次の日となったその日、ニシキギはナンディーのエリアEに来ていた。
「これが今日の収穫だ」
セージは果物の入った器をニシキギに手渡した。
「ありがとう、助かる」
シオン人格が消えた瑞樹は、命令に忠実に従うようになったが、異常なくらい食が細くなった。食べろと命令しても、少しずつ少量しか口にすることができない。無理に食べさせると吐いてしまう。
唯一、エリアEで実った果実だけが、多少無理をさせても大丈夫だと分かってから、ニシキギは毎日エリアEから果物を譲り受けて瑞樹に届けていた。
木に実ったものを食べる、命が生み出したものしか受け付けない、それは瑞樹の出自が地球であることの動かぬ証拠でもあるようだった。
「いよいよ明日なんだってな」
「ああ」
「うまく行くといいな」
セージは瞳を潤ませた。
「うまく行かせるさ。それよりもミントはどうなんだ?」
「そろそろなんだ」
セージは心配そうに言った。彼は反対したのだが、ミントは自然出産を望んでいる。母体のことを考えれば、早期に取り出して人工羊水で育てる方が安全なのだが、胎児にとっては自然出産の方が理想的だ。
「そっちこそ、うまく行くといいな」
「いくさ、行くに決まってるだろ!」
セージの声は言葉と裏腹に自信無げだった。心配な気持ちが透けて見えるようだ。セージは少し間を置いてから、
「ソーマの種は、君がくれたんだってな。感謝している」
と頭を下げた。
「俺も瑞樹からもらったんだ。ミントの役に立つのなら瑞樹は喜ぶだろう。ただ、ソーマは劇薬だ、取り扱いには注意した方がいい」
ニシキギの言葉にセージは神妙に頷いた。
* * *
「瑞樹……またこんなに残したのか?」
瑞樹はベッドの上に座って、夕食のトレーを前に途方に暮れているように見えた。食事は冷めきっている。ニシキギはトレーを下ろすと果物を取り出した。
艶やかな深紅のマリズベリーの粒を一つちぎって持たせると、瑞樹は緩慢な動作で口に入れた。一つ食べ終えるごとに次の粒を渡す。
「瑞樹……いよいよ明日だな。お前、無事に戻ってこいよ」
ニシキギは瑞樹の髪を梳くように撫でた。
セージにもらった果物の半分ほどがなくなった頃、瑞樹の緩慢な動作がさらに緩慢になってきた。ニシキギはため息をついて、残りをサイドテーブルに置いた。
「食べられるようになったら、ここから食べるんだ、分かったか?」
ニシキギの言葉に、瑞樹は神妙に頷いた。
「よう、ニシキギ、来てるんだってな」
ノックの音と共に正樹とカナメが入ってきた。ドアの外には常にトウキが見張っているので、関係者以外は入れないようになっている。正樹はすっかりハル人が板についていて、髪の色を染めてからというもの、半分以上の人が正樹のことをミドルネームのイブキで呼ぶようになっていた。
「瑞樹、元気だったか?」
正樹は、瑞樹の頭を両手でぐしゃぐしゃと撫でた。瑞樹が右に左に大きく揺れる。ニシキギが顔を顰めた。
「瑞樹の具合はどう?」
カナメはニシキギに問いかける。
「相変わらずだ。食事が摂れない」
ニシキギの言葉にカナメは顔を曇らせる。
「こいつ、昔っから食が細いんだよ。日向の小母さん苦労してたもんなー」
正樹はそう言って、器に盛られたマリズベリーをつまんで自分の口に入れた。
「おいっ、勝手に食うなよ。それは瑞樹のだ」
ニシキギは果物が入った器を取り上げる。
「うーん、やっぱり,なんか違うよなー。なんだろう?フレッシュさ?瑞々(みずみず)しさ?」
正樹は首を捻る。
「そんなに違うかな?」
カナメも手を伸ばして一粒口に入れる。
「おいっ!油断も隙もないやつらだ。食べたきゃエリアEでもらってこいよ」
「これ、わざわざエリアEからもらってきてるの?毎日?」
正樹が目を見張る。
「瑞樹が、少し無理をして食べられるのはエリアEの果物だけなんだよ」
カナメが説明する。
「悪い、俺、時々もらって食べてた。ここに置いてあったやつ」
「あんたが食べてたのか?なくなってるから瑞樹が食べたんだと思ってたのに……」
ニシキギが愕然とした表情で呟く。
「時々だよ、時々」
嘘だ。しょっちゅう食べていた。正樹は心の中で小さく舌を出す。
疑わしそうに正樹の表情を見ていたニシキギは溜息をついた。
「マッタク……」
ユダンモスキモナイ。こいつ……本当にイブキさんに似てる。そう思ってニシキギは吹き出した。
「あんた、イブキさんにそっくりだ」
とニシキギが言ったのと同時に、
「君、本当はイブキなんだろう?」
とカナメが呆れて言った。
「……イブキってミドルネーム入れたの、間違いだったかなって最近思ってるんだ。有効に使えるどころか、俺の前では、みんな油断しないように用心するみたいで、やりにくいことこの上ない。イブキってどんな人物だったんだ?」
正樹は肩を竦める。
「だから僕は有効に使えるかなって、最初に言っただろ?」
カナメが吹き出した。
「いよいよ明日だな……」
正樹が瑞樹の頭をぐりぐり撫でる。
誰に対しても、なすがままにされている瑞樹なのだが、正樹が瑞樹をいじっている時は、心なしか瑞樹の目が微笑んでいるように見えるのは、自分のひがみなんだろうかとニシキギは思う。
「明日は頼むよ」
正樹はニシキギを見つめて行った。
「あんたに頼まれなくたって、ちゃんとやるさ」
思わずニシキギは憎まれ口を叩いてしまう。
正樹はふふっと小さく笑って、親指を立てるガッツポーズをして見せた。
「じゃあ、瑞樹の食事の邪魔をしちゃいけないから、帰るよ。また明日」
カナメはニシキギに言うと、瑞樹の頬を柔らかく一撫でして、二人で出て行った。
その日は、その後、コブやアーマルターシュ、イベリスまでやってきて、瑞樹の病室は賑やかだった。
* * *
「今日はいろんな人が来たな。疲れてないか?」
瑞樹の顔を暖かいタオルで拭いてやりながらニシキギが話しかける。
「みんな、お前に戻ってきてもらいたいんだ……覚えておけよ」
ニシキギの言葉に瑞樹は了解の意思表示をする。
消灯時間を過ぎたので、自動的に照明が落とされ、常夜灯が灯った。さっき、見回りの看護師が来たが、なかなか帰れずにいるニシキギに、看護師は何も言わずに立ち去った。
「瑞樹、明日は頑張りましょうね」
とだけ彼女は声をかけた。
「……瑞樹」
薄暗い明りの下でニシキギは密かに瑞樹に話しかける。
「瑞樹……」
震える手で瑞樹の頬をそっと撫でる。
「俺は、本当のことを言うと……怖い。明日、俺はお前を失うことになるんじゃないかって思うと……怖いよ」
数日前、ブラキカムに確認してニシキギは呆然となった。前回、瑞樹が病気で死んでしまって、再生治療を行った後、瑞樹のタイプ検査をした。瑞樹が、森の民オリジンタイプだったディモルフォセカにそっくりになってしまったからだ。
その結果をブラキカムに問い合わせた。
瑞樹はマルチタイプ。つまり、今のハルの科学技術をもってしても、二度と再生することはできないタイプだったのだ。
森の民には、力を自分の意志で使えない、植物に操られるタイプの「オリジンタイプ」、自身の意志で力を操れる「マルチタイプ」、そして前者どちらかの力を被曝することによって力を使えるようになる「リセプタータイプ」の三タイプがある。そして、この三つのタイプのうち、崩壊しないで再生できるのはリセプタータイプだけだ。
瑞樹の検体は、再生した瞬間、光を放って消えたそうだ。
トラップを止められないのであれば、再生も不可能だ。やり直しが利かない、失敗は許されない。
「瑞樹……俺は、アール・ダー村を追放されたあの日、あのプラットホームでディモルフォセカとすれ違ったあの日から、ずっと……お前を探し続けていたような気がする。お前に出会う前から、俺はお前を捜してた。こんなこと言ったら、お前は馬鹿にして笑うんだろうな。めちゃくちゃだって……」
ニシキギは瑞樹の髪を梳きあげる。
「俺を……愛してくれよ……」
ニシキギは言葉を途切れさせ苦笑する。
「悪い、今のは無しだ」
自嘲したニシキギの頬に瑞樹がそっと口づけた。弾かれたようにニシキギは瑞樹を見つめる。
「命令されたと思ったのか?」
当然、瑞樹からの返事はない。しかし、彼女は流れるような動作で、もう一方の頬にも口づけた。
「ここにも」
ニシキギは額を指さす。冷たい瑞樹の小さな手がニシキギの頬を挟んで、額に口づけた。
「ここは?」
ニシキギが指した唇に、瑞樹は躊躇いなく口づけた。ニシキギはたまらず瑞樹を抱きしめて、口づけを返す。
「じっとしてろ」
初めてした深い口づけは、マリズベリーの味がした。
「……俺……最低だな」
瑞樹を離すと、ニシキギは腰かけていたベッドから立ち上がった。
「本当なら、こんなことした時点でお前に投げ飛ばされてるところだ。でも、俺はそんなお前に戻したいらしい。明日……必ず元に戻すからな」
ニシキギはそう言うと部屋を後にした。