第十話 水の檻を壊す術(2)
確かに瑞樹は、ニシキギを認識した。カナメの父親、セダム・グラブラの友人として。彼女の中で、ここは惑星ハルの地下都市ということになっている。ニシキギは特に訂正をしなかった。シオンの人格にそれを教えたところで何になるだろう、彼女はハルの地下都市ハデスで、既に死んでいるのだから。
彼女は心理学者であったらしい。遥か遠く、時間も場所も隔たったハルのことを、シオンは喜色を浮かべて話した。彼女の話は、当然ハル脱出のかなり前の時代の話で、ニシキギが知らない生まれる前のことをシオンは語った。
しかし、その話は瑞樹の口から語られている訳で……ニシキギは戸惑いを覚える。
大脳コンタクトも分解再生装置もない、不便だったころの地下都市ハデス。
最終的に、彼女が実験台として身を捧げることによって大脳コンタクトが完成したことも、そのせいで精神異常を起こした彼女から生まれた自分の子供が、分解再生装置を開発したことも、瑞樹の中のシオンは知らない。
惑星ハルは既に末期の状態で、シオンはそのことをいつも心配した。ハルはどうなっているのかと……。
「ところで、ニシキギさん、前から気になっていたんですけど、その腕はどうなさったの?」
ニシキギの右腕には包帯が巻かれていて、動かないように固定されている。
「……事故でね、怪我をしたんですよ」
ニシキギは苦笑する。瑞樹は覚えていないのかもしれない。それならばそれでいい、ニシキギはため息をつく。
瑞樹がガイアシティから帰還した時、大勢の人がアグニシティの到着ロビーに集まっていた。事情を知っている者、知らない者、雑多な人々が出迎えた。
正樹に支えられるようにして降りてきた瑞樹と、後ろ手に縛られて公安に囲まれたセルシス、虚ろな表情のイベリスと、カナメに支えられて降りてきたズタボロのエニシダ。一行はブラキカム率いる医療センターのスタッフに迎えられた。
ニシキギは瑞樹に駆け寄った。
「瑞樹、大丈夫なのか?」
しかし、瑞樹からの返答はなく、ただ正樹が眉間にしわを寄せて項垂れた。
「瑞樹?」
ニシキギは瑞樹の肩を掴んで揺さぶる。
「ニシキギ、とにかく医療センターへ」
痛みを堪えているようなカナメの声に、ニシキギは顔をあげた。頷いて瑞樹を抱きかかえるようにして歩きだした時だった。
「どうして?どうしてディモルフォセカなの?」
出迎えた医療チームの中にいて、金切り声をあげた女がいた。ネモフィラだった。
帰還した一行を見物に来ていた人達の視線がネモフィラに集中する。
ネモフィラはその日、帰還した人たちを救援するために集まった医療センターのスタッフの中にいた。ニシキギの後についてアグニシティにやってきたものの、アグニシティでのネモフィラの居場所は、地球のハル共和国以上になかった。
ここのエリアEはファームの民が、ほぼすべてにおいて管理を担当しており、森の民の、しかも力を使えない状態のネモフィラができることなど無いに等しかった。それでもクレジットを稼ぐためには何かしなければならない、そう考えたネモフィラは医療センターで下働きのようなことをしていた。
アーマルターシュが途方にくれるネモフィラに、その仕事を紹介してくれたのだ。ニシキギはあれから一言も口を聞いてくれない。事件が解決すればニシキギは地球に帰るのだろうとネモフィラは思っている。そうすれば、第二エリアEのあるハル共和国に帰れる。
どうして彼から離れられないのか。まるでストーカーのようにニシキギに拘泥してしまう理由が、自分でも分からなかった。
シーカスとは別人だと、そう何度自分に言い聞かせても、どうしても傍を離れる気になれなかった。そして今に至っている。
医療センターの仕事はあまり好きにはなれなかった。植物相手の仕事しかしてこなかったからかもしれない。人間相手の仕事は雑多で、騒々しく、血の匂いに慣れなかった。自分の体にも流れているだろうと言われれば、そのとおりなのだが、切ったら流れ出る禍々(まがまが)しい赤い血や、痛みの苦痛を訴える患者や、おう吐物や排泄物の処理……。すべてがネモフィラには耐えがたく、それらと向かい合うために、ネモフィラは日々格闘するはめになった。
ネモフィラの母親はアール・ダー村の医療センターのスタッフだったが、こんなことをしていたのかと頭が下がる。母親は森の民としては力がなく、それでも少しはクレジットを稼ごうと医療センターで働いていたのだった。父親はそんな母を見下していた。森の民の力が大きい方がアール・ダー村では優遇されていたのだ。
人並の森の民の力を持っていたネモフィラを母は誇りに思ってくれた。強い森の民の力を持った人と結婚して、幸せになりなさいと言うのが母の口癖だった。力を持たない森の民は、飛べない鳥のようだ。たとえその力が自らの命を削るものであったとしても、鳥には翼が必要なのだ。
力を手に入れるためにミズキ・ヒュウガという地球人を拉致した森の長老アドニス。今や彼は途轍もない悪者という扱いになっているが、ネモフィラにはアドニスの気持ちがよく解る。
彼は欲しかったのだ。
自分を支える為の誇りが、前進するための力が、森の民を率いるエネルギーが……
一般人やファームの民には恐らくこの気持ちは分かってもらえないだろう。しかも森の民は圧倒的にマイノリティなのだ。やりきれない思いでミズキ・ヒュウガを出迎えた。
森の民に力を与えられるらしいその地球人に会ってみたいと言う興味は強すぎる程あった。
なんとか医療スタッフの最前列に立つことができ、タラップを降りてくる一行に目を向けた。その途端、ネモフィラは凍りつくようだった。言葉を失い、ただ目を見張る。
その一行に足早に近づいたのはニシキギだった。白っぽい金の髪の後ろ姿が見えた。ニシキギが歩み寄ったその先に、虚ろな瞳の栗色の髪の女が、誰かに抱えられるようにして降りてきた。それはネモフィラが見間違うはずもない、ディモルフォセカ・オーランティアカだった。
気遣わしげにディモルフォセカに歩み寄って、大事そうに守るように肩を抱いたのはシーカスではないか?
ネモフィラの中で何かが弾けたようだった。
ネモフィラは夢中で、隣の医療スタッフが用意していた外科用医療バッグから刃物を取り出した。
「どうして?どうしてディモルフォセカなの?」
ネモフィラはそう叫んで瑞樹に走り寄った。
* * *
アール・ダー村で、ディモルフォセカが見つかったらどうするか……
失踪したディモルフォセカを村人や公安が捜している間中、ネモフィラは考えていた。きっとひっぱたいている。
どうしてこんなことをしたのか、自分に対する当てつけなのか、こんなことをしてまでシーカスの気を引きたかったのか。責める言葉は泉のように湧き出した。
しかしネモフィラの怒りに反比例するように、周囲はネモフィラから乖離していった、否、それどころかディモルフォセカに同情的になっていったのだ。
シーカスはディモルフォセカの心配ばかりするようになり、友人でさえネモフィラの配慮のなさに陰口をたたくようになり、ネモフィラの気持ちは、ぽつんと取り残された。
怒りは失望にそして絶望に変性した。
あの時、化石化して封印したはずの絶望が、息を吹き返したようだった。
別にディモルフォセカを殺してしまおうと思ったわけではない、ただ、シーカスから離れてほしい、それだけの気持ちだった。ディモルフォセカを狙った刃先は、瑞樹を庇ったニシキギの右腕に深々と突き刺さった。
* * *
被害者だったにもかかわらず、後になって、ニシキギはブラキカムからこってり絞られた。そういう事情の義妹になっていたかもしれない人を、何の援助もなしに放り出すとは何事だとブラキカムは怒った。
「じゃあ、どうすれば良かったんだ?」
傷の治療を受けながらニシキギは仏頂面で言った。
「彼女にはカウンセリングが必要だ。俺達医者が何のためにいると思っているんだ?人間は体だけじゃないだろう?心が伴って初めて人間だ。お前は瑞樹を何とかして治してくれと俺に言うが、ネモフィラだって同じじゃないか。なぜネモフィラを治してくれとは言わない?」
「……瑞樹は明らかに傷を負っている。俺にはそれが分かる。普段の瑞樹を俺は知っているからな。普段の瑞樹を知っていないものならば、今の瑞樹を、ただの無口で無表情な女だと思うかもしれない。それと同じだ。俺はいつものネモフィラを知らない。元々刃物を振り回す女だったかもしれないじゃないか」
「……」
ブラキカムは絶句した後、深いため息をついた。
「……んな訳ないだろう?」
「俺はシーカスじゃないし、あれは義妹でもない」
頑ななニシキギの様子にブラキカムは再度ため息をついた。
「もういい、わかった。あの子は医療スタッフだ、俺の仲間だ。俺が責任をもって治療する。君が傷害事件として告訴するつもりなら、俺が彼女の後見人になる」
ブラキカムは息巻いた。
「そんな面倒臭いことはしない。ただ瑞樹の近くには近寄らせるな。俺が望むことはそれだけだ」
治療を終えたニシキギは、ブラキカムにそう言い捨てて医療センターを後にした。あの後、ニシキギはネモフィラの姿を見なかった。腕の治療と瑞樹の見舞いとで医療センターにはちょくちょく来ていたが、姿を見ないところをみると、どこか別のところでカウンセリングとやらを受けているのかもしれなかった。
瑞樹の近くにいないのならば、それでいい、ニシキギはそう思っていた。
* * *
「痛むの?」
動かすとまだ鋭い痛みが走るのだが、ニシキギは首を横に振った。
「そう、なら良かった」
瑞樹はふわりと微笑んだ。
「……あなたには兄弟姉妹はいるんですか?」
突然湧いた疑問をシオンにぶつけてみたくなった。
「妹がいるのよ。フォボスで働いているからあまり会えないんだけれど」
「妹さんは結婚している?」
「ええ、もちろん。一家でフォボス暮らしよ。女の子が一人いるの。アナベルっていってね、かわいいの。私も女の子が一人欲しいわ。もちろんセルシスの次によ?」
シオンはニコニコと残酷なことを話した。
残念ですが次も男の子ですよという言葉を、ニシキギは苦労して呑み込んだ。
「もしもの話ですよ、もしも、妹さんが亡くなった後、その妹さんの旦那さん、つまりあなたの義弟が、あなたと付き合いたいと言ってきたら、あなたはどうしますか?」
「……でも、私にはセダムがいるし……」
シオンは当惑して言葉を途切れさせた。
「セダムが、仮に死んでしまったとしてでは?」
「考えられないわ、セダムが死んでしまうなんて……」
シオンは動揺して絶句する。
「じゃあ、セダムに出会う前に妹が結婚して、で、先に死んでしまうということにしましょう。で……」
「待って、待って、あなたの話には大事な前提が、一つ抜けているわ」
シオンは、ふわりと目で微笑んだ。
「誰が誰のパートナーだったのか、それは関係がないことでしょ?問題は、その人とあなたの問題なんだから。あなたがその人をどう思っているのか、それが第一の前提条件よ。それが一番大事なことなの。特に恋愛に関してはね、誰かのためとか、義理とか、義務とか、同情とか、そう言ったものは無意味だと私は考えているの。きっかけとしてでも、できれば避けたい動機だとも思っているわ」
シオンの言葉は明快だった。
「なぜなら、その時はよくても、それが自己満足に過ぎなかったと後になって気づく時が来る可能性が高いからよ。そうなった時には……最悪ね。きっとお互いに傷つけ合うことになるでしょうね。乗り越えるにしても、かなりなダメージを覚悟しなければならないと思うわ。初めから打算で、傷つけることに何の躊躇いもないのなら、問題はないでしょうけれど。でも、それはもう恋愛ではないわね」
シオンは、ふっと儚げに笑った。
「……」
ニシキギは静かに納得した。
ネモフィラに対する自分の気持ちの整理も、ディモルフォセカに対する自分の気持ちの整理もついたような気がした。
この母親の子供だったからこそ、カナメはディモルフォセカを守りぬけたのだとニシキギは同時に理解する。カナメは自分の気持ちだけに従ったのだ。そうでなければ、ディモルフォセカは逃亡先の地下都市で、あるいはフォボスの処罰場で、その元々短かったはずの生涯を更に縮めていたに違いないのだ。そして、この地で、僅かな時間だったとは言え、瑞樹の体を借りて、巡り合うことはなかったに違いない。
そこまで考えて、ニシキギはディモルフォセカの辿り着いた先が、カナメで良かったと初めて思うことができた。
* * *
「ブラキカム!」
廊下で呼び止められたブラキカムは、何事かとニシキギを見上げた。
「……その後、あいつはどうなってる?」
微妙に視線を逸らしながらニシキギは問いかける。
「あいつって誰だ?」
ブラキカムは眉間に皺を寄せた。
「……ネモフィラだよ」
ニシキギは少しイラついたように言葉を放り出した。
「急にどうした?今頃になって何か気になってきたのか?」
「俺は、確かに彼女に対して配慮がなさ過ぎたと思う。もし、何か俺で力になれることがあれば言ってくれ。協力する……シーカスの兄として」
神妙に言葉を紡ぐニシキギに、ブラキカムは、あっけにとられてピシリと固まった。
「なんだよ」
ニシキギは眉間に皺を寄せる。
「気味が悪い……なにか悪いことの前兆じゃないかと思うんだが……」
ブラキカムの脳内に、ナンディーが小惑星と衝突するイメージが浮かぶ。
「……わかった……聞かなかったことにしてくれ」
ニシキギは顔を顰める。
「悪かった、悪かったよ。そのうち助力願うかもしれない。助かるよ」
「……」
ニシキギは疑わしそうな目でブラキカムを見下ろす。
「ただ、彼女は……俺や、恐らくお前が考えているよりも、ずっと深く心に傷を負っている。正直、俺もどうしたらいいのか分からないほどだ。今はまだ落ち着くのを待っている状態なんだが……そうだな、そのうちお前の力が必要になってくるかもしれない。その時には頼むよ」
ブラキカムは弱く笑んだ。
「俺からも、ネモフィラのこと頼むよ。よろしくお願いします。ドクター」
「やっぱ、気味悪い……」
ブラキカムは首を竦め、ニシキギは再び渋面になった。