第十話 水の檻を壊す術(1)
『カナメ……セルを捜してくれないか?私は間違っていた。セルを見つけだしてくれ。頼む……』
乱れていた心音は更に大きく乱れ、やがて微かになり、そして途絶えた。父親が最後に残した言葉を、6才になったばかりのカナメは心に刻みつけた。
セルとは何か、ずっと疑問に思っていて、そして……ずっと捜していた。人に訊き、本の中を捜し、コンピューターの中を捜した。何かのプログラムのセルかもしれないと人にアドバイスされ、父親の作ったプログラムをしらみ潰しに探した。
お陰でコンピューターの扱いには慣れたが、それらしい……つまり間違いのあるセルを見つけだすことはできなかった。
それが人だとは、微塵も考えたことがなかった。まして、兄だなどと……
「あなた、セルは見つかった?」
カナメが医療センターの病室に入ってくると、瑞樹は嬉しそうにベッドの上で身を起こして、すぐにいつもの質問を口にした。カナメはイライラする。
この夫婦は……カナメは心の中で舌打ちする。そこで止めるから誤解が生じるのだ。きちんとセルシスと言えば、間違わずに済んだものを……
「瑞樹、僕は君の配偶者じゃないよ。何度も言っただろう?」
カナメのイライラした口ぶりに、瑞樹は腑に落ちない様子で小首を傾げると、声のトーンを柔らかく変える。
「セダム、疲れているんじゃない?無理をしては駄目よ?」
瑞樹は、ベッドの傍で途方にくれて佇むカナメの手を優しく握る。カナメはため息をついてベッドの傍にある椅子に腰を下ろした。
サイドテーブルには編みかけの作品が籠に入れられている。茶色のその物体は団子のようにも見える。何を作っているのかは教えてもらえなかった。今日見ると、上段の団子に耳らしいものがくっついていた。何かの動物なのかもしれない。
* * *
「恐らく、セルシスが大脳コンタクトを使っていたときに、瑞樹は彼の記憶の中にある君のお母さんのイメージを拾ってしまったんだろう」
ブラキカムはそう言った。
「どうしたら元に戻るかって?たぶんだぜ?正樹の言ったことを検証すると、瑞樹は一旦精神的に崩壊させられて、白紙のような状態になっていたんだと思う。そこに君のお母さんの記憶が飛び込んできた。ならば、記憶操作で時間を戻して白紙の状態になった瑞樹に戻すところまでは簡単だ」
ブラキカムはため息をついた。
「問題はその後だ。どんなふうに精神を崩壊させられたのか、おそらく大脳コンタクトで探ることも簡単だろう。ただ、それを引き出すことは瑞樹にとってかなりな苦痛になるはずだ。精神崩壊させられた過程をもう一度辿ることになるからな。しかも、さらに厄介なことがあるんだ」
ブラキカムは沈痛な面持ちでカナメを見上げた。
「こういう心理操作をかけるやつは狡猾でね。必ずと言っていいほどトラップを仕掛けておくものらしい。俺もそんなに診たことがないから、はっきりとは言えないんだが……いざとなったら、ターゲットが自ら口封じをするような暗示をかけておくらしい」
カナメは息をのむ。
「それは、つまり……」
カナメは言いよどむ。考え付くのは最悪なことばかり。
「いちばん簡単なのは自殺だ。ターゲットが回復すると同時に自殺するように暗示をかけておく。あるいは発狂するようにしておく、あるいは……」
「もういい!」
カナメは頭を抱え込んだ。
「だからどんなトラップを掛けられているのか、確認もせずに状態回復させるのは、とても危険なんだ」
「セルシスに訊けばいいじゃないか。悪事の張本人だ」
カナメは吐き捨てるように言う。
「もちろん訊いたさ。しかし暗示を掛けているとしたらヌンがやっているだろうと言うし、それは事実のようだ。トウキに確認してもらった。トウキでさえ、はっきりとは分からないと言っていたぜ。彼に大脳コンタクトを使うのは危険だ。剣の達人に真剣勝負を挑むようなものだからな」
「ヌンか……」
あの時逃がしてしまったのが悔やまれる。
「公安がヌンを捜している。回り道のようだが、ヌンが見つかるのを待ったほうがいい」
「それまでこの状態でいろと言うのか?白紙の状態まで戻したほうがいいんじゃないのか?」
「いいじゃないか。母親と妻と両方できたみたいなもんだろ?」
ブラキカムはニヤリと笑った。カナメはブラキカムをねめつける。
「それだけじゃないぜ?実際、このままの方がいいんだ」
ブラキカムは弱く笑んだ。
「白紙の状態に戻すと言うことは、命令に従順な状態になるということだ。元々その目的で精神崩壊させられたわけだからな。誰の命令にも従うようになるぞ。誰がどんな命令をするか、お前想像がつくか?医療センターにいるやつだって、いいやつばかりじゃないぜ。瑞樹は自分の身を守れなくなる。お前が四六時中傍にいて守ってやるのか?言い換えれば、おまえの母親の人格が瑞樹を守っているんだぜ?」
* * *
「ねぇ、セダム?毎日お見舞いに来てくれるのは嬉しいんだけれど、仕事は大丈夫なの?私はもう元気なのよ。ドクターにもそう言ってるんだけど、まだ家には帰れないって……」
瑞樹は不満そうにカナメを見つめる。
「まだ家には帰らない方がいいよ。それにここの方がエリアGに近いから、僕も様子を見に来やすいしね。仕事のことは気にすることないよ。時間なんて作ればいいんだから」
ドアをノックする音がして、ニシキギが顔を見せた。
「カナメ、ちょっといいかな」
ニシキギは部屋には入ってこないで、カナメを廊下に呼び出した。
「何?」
「フローティングシティのアオギリから連絡が入った。至急あんたに連絡して欲しいそうなんだが……」
「何かあったかな」
カナメは顔を顰めた。
「恐らく、シティ基底部の劣化の件だと思う」
「そうか……」
カナメは眉間に皺を寄せる。
「ビーナスは手強いな」
苦笑して呟く。
「女神は手強いに決まっている」
ニシキギはしかめっ面で言った。
「そうだ、君を瑞樹に紹介しておくよ。何かあった時には瑞樹の力になってやってくれないか」
「紹介すれば俺を認識できるようになるのか?」
ニシキギは複雑な顔で問う。
「もちろんだ。ただ、自分が瑞樹だとは認識していない。僕のことだって僕の父のセダムだと思ってる。本物の僕は彼女の中にはいない。まだ生まれていないらしいからね」
カナメは肩をすくめた。
ニシキギは深くため息をつく。瑞樹という人間は透明なガラスの器のようだ。色々な人格を易々とその中に受け入れて、その人格を正確に、損なうことなく透かし出す。ディモルフォセカ・オーランティアカにハル、そして今度はカナメの母親シオン・フォティニア・グラブラ。
「瑞樹、僕の友人を紹介するよ」
カナメはあくまでもシオンとは呼ばない。訂正する瑞樹に、瑞樹と呼びたいからと言い張った。心情的にこれを譲るわけにはいかないと思ったからだ。
「ニシキギだ。同じくエリアGで働いている」
「はじめまして」
瑞樹は屈託なく微笑むと、ニシキギに手を差し出した。
「…はじめまして…」
ニシキギは戸惑い気味にその手を軽く握った。
「以前のセダムの瞳の色と同じね」
瑞樹はニシキギの瞳を覗き込んで言った。
「きれい」
瑞樹は嬉しそうに言うとはんなりと微笑んだ。
カナメは自分の瞳の色のことを、事故で変化したと偽ってシオン人格に説明していた。まぁ、当たらずとも遠からずだ。
再生治療を繰り返して、限りなく薄くなってしまった銀色の髪と深紅の瞳。
『なんかの罰を受けたのか?』
と言ったセルシスの言葉は案外当たっているのかもしれない。カナメは苦笑する。
「瑞樹……」
ニシキギが苦しげに顔を歪めて、瑞樹の頬を軽く指でなぞる。瑞樹はびくりと身を引くと首を傾げた。
「どうしてみんな、私のことを瑞樹って呼ぶのかしら?私はシオンなのに……」
少し困ったように複雑な微笑みを浮かべる。
「……瑞樹、僕は急な仕事が入ったから、もう行くよ。僕がいない時に、何か困ったことがあったら彼に相談するといい。きっと力になってくれるから……」
そう言い残すと、カナメはニシキギと瑞樹を残したまま部屋を後にした。取り残されて途方にくれたニシキギに瑞樹が椅子をすすめる。
「何かお飲みになります?」
瑞樹は、そつのない様子で接客用の微笑を浮かべる。
「最近は番号を入力するだけで、飲み物や食べ物が簡単に出てくるのね。私、知らなくって……」
「瑞樹……」
ニシキギは更に途方に暮れた。