第九話 復讐と破壊と…そして願い(3)
セルシスは自室のベッドの上でぼんやりと天井を見上げていた。耳の奥にこびり付いて離れない甲高い笑い声。
開発したばかりの大脳コンタクトは、手入れの良いナイフのように母親の正気を容赦なく削り取って行った。 人は忘れる生き物だ。それは即ち自己防衛でもあるのだ。脳深層に蓄えられた記憶の海、それを忘却という頑強に作られた蓋で封じ込めて人は生きて行く。強固にできているはずのその蓋をこじ開けるその機械は、母を記憶の海に放り出した。その中で器用に泳ぎまわれる人もいるのかもしれない、しかし母は溺れてしまった。
「ママ?ママ、しっかりしてよ。どうしちゃったの?」
子供のセルシスに、そんな事情は分からない。
「セルシス、向こうに行っていなさい」
父の険しい顔。セルシスは怯えたまま部屋を後にした。
何度も繰り返し見た悪夢だ。セルシスは両手でごしごしと顔を擦る。しばらく見なくなっていたので、忘れていたのに……苦い気分のまま、体を起こす。
すっかり壊れて、何の表情も浮かべなくなった瑞樹は、あの時の母に少し似ていた。そのせいでこんな夢をみたのかと苦笑する。今日、アドニスに瑞樹を引き渡して仕事は終了だ。次は何をするかなと軽く首を回す。地球に行けばもっと簡単に仕事はできそうだ。大脳コンタクトなんてものの存在を地球人は知らない。
父親が創った忌まわしい機械を最大限悪用することが、セルシスの復讐になっていた。 自分から母親を奪い、息子である自分を顧みる事がなかった父親、そして父親に輪をかけて忌まわしい機械、分解再生装置などというものを造り出した弟を、セルシスは心底憎悪していた。
今回依頼された瑞樹に関して言えば、全くの無関係、最初はただの標的だったに過ぎなかった。
それが、最初のアプローチで、彼女が心の中で、弟により強く助けを求めた時は正直驚いた。カナメが瑞樹のことをどう思っているのかなどそっちのけで、復讐心のままに、いつもより余計に時間をかけて、いたぶってしまったのは事実だ。
しかし彼女は、なかなかしぶとかった。あんな小娘、一度か二度傷めつければ、すぐに思い通りになると踏んでいたのだが……彼女はそうはならなかった。彼女の性質の中に回復させる何かがあるように思い始めたのは、五回目のアプローチの後だった。あれほど痛めつけられていながら、他人を庇ったのだ。
普通の人間なら、まず自分を庇う。アドニスはカンカンに怒るし、もう手段は選べなかった。予定よりも時間がかかっていたからだ。
セルシスは思う。もし、母親が瑞樹のような性質だったならば、正気を失わずにいられただろうか……と。しかし、そんなセルシスの思考をストップさせたのは、廊下から聞こえてきた怒号だった。
「おまえらは何者だ!」
アドニスの怒声と、複数の靴が踏み鳴らす硬い音が遠くで響く。統制された靴音の硬さに公安だとすぐに気付いた。逃げるか留まるか、セルシスが迷ったのは、ほんの一瞬だったが、その選択肢は選ぶ間もなく消えうせた。ドアには鍵が掛けてあったが、何の役にも立たなかったからだ。
何故なら、ドアは綿飴のようにチリチリとあっけなく溶け去り、人が通り抜けられるくらいの大穴があいた。
「へぇ、随分簡単に分解できるようにしたんだな」
セルシスは後ろ手に縛られながら、感心したようにドアを眺めつつ、公安に連行された。
アドニスは声を張り上げていた。
「なんの権利があって、その娘を連れに来たと言うのかね!」
ここの部屋も同じくドアが溶かされていた。何とか威厳を保とうと必死に胸を張る男をカナメは見下ろしていた。これが森の民の長老、自分よりも遥かに若いはずなのに、その顔には深く刻まれた皺と、頑なになってしまった心が透けて見えるような暗い瞳の色があった。
「瑞樹を返してもらいにきたんだ」
カナメはその暗い瞳に話しかける。
「返す?何故君にこの娘を返さねばならないのだ?この娘は森の民だ。森の民のものだ。なんの権限があって、君はこの娘を連れて行くと言っているのかね?」
「瑞樹は自分の意志でここに来たわけではない。あなたたちが拉致したんだ。連れ返すのは当然のことだろう?」
カナメは呆れた様子で答えた。
「この娘の意志ではないなどと、どうして分かる?この娘に確認したのか?」
アドニスの自信ありげな言い方に、カナメは目を見開く。瑞樹の両脇をドクター・ヌンとカンナが固めている。瑞樹の瞳を見つめて、アドニスの意図している現実にやっと気がついた。瑞樹の瞳はガラス玉のように、現実を何一つ見つめていなかった。
「まさか、おまえら……」
カナメの緋色の瞳が一段と鮮やかになる。
「瑞樹に何をした?」
カナメはアドニスに銃口を向けなおした。
「議長殿、銃を下ろしたまえ。君のような立場のものが、武器を持たぬものに銃口を向けるという事が何を意味するのか分からぬ君ではあるまい?」
ドクター・ヌンがしたり顔でカナメに抗議する。ヌンの言葉にカナメは微苦笑した。
「議長の職は返上した。犯罪の現行犯であるものを兄に持つ僕が、いつまでもその任務を背負っていられるはずがないだろう?お陰で清々したよ。鬱陶しい仕事をこなさなければならないこともなくなったし、君みたいな卑劣な人間に心おきなく銃口も向けられる」
カナメはドクター・ヌンを睨みつけた。ドクター・ヌンが少しぎょっとしたのを確認するとカナメはアドニスに再度交渉する。
「瑞樹を大人しく返すんだ。そうすれば事件の真相を確認した上で、情状酌量を考えてやってもいい」
「だから先ほどから言っているだろうが。この娘に君と一緒に帰りたいか訊いてみるがよい。この娘はここにいることを望むだろう」
自信たっぷりにアドニスは言った。
「……こいつに何か訊くのは無理だな」
事の成行きを見守っていたカンナが突然口を挟んだ。
「瑞樹は完璧に壊れてしまってる。昨日から反応なしだ」
カンナはそう言うとドクター・ヌンの手を払いのけて瑞樹を庇うように後ろに立たせた。
「お前、何をやっているのだ」
ドクター・ヌンがだみ声を張り上げる。
「昨日、俺の目の前で壊された。俺、気づかなかったんだ。大脳コンタクトの器械も何も付けられてなかったから、瑞樹がそんなことされてるって、気づかなかった。申し訳ないカナメ、俺、瑞樹を守れなかった」
正樹は唇を噛む。
「お、お、お、お前何者だ」
ドクター・ヌンがカンナに掴みかかろうとしたところを、一気に距離を縮めたカナメの銃口が光を発した。軽い発射音とともにドクター・ヌンが撃たれた。ドクター・ヌンは驚いてその場に横倒しに転がったが、一瞬銃口からの光に包まれたヌンは、次の瞬間、髪も眉毛もまつ毛も服も、水分をあまり含んでいなかった部分すべてが分解されて消え去った。
周りを取り囲んでいた公安の人々から、その場に相応しくない忍び笑いの声がさざ波のように起こった。
「な、な、なんだーこれは」
泡を食って逃げ出そうとするヌンを公安があっさり拘束する。
「なんの権限でこのような事をするのだ」
アドニスは怒り心頭の様子で怒鳴り散らした。
「この裏切り者め!森の民が森の民を裏切るのか!」
アドニスの怒りは、カンナに変装している正樹にも向かった。
「悪いな、俺は森の民じゃないんだ。俺は瑞樹と同じ地球人だ。マサキ・I・カイヅカって言う。前に第二エリアEで会いましたよね。あんた、なんの権限で瑞樹を連れて行くのかって言いましたか?俺は瑞樹の両親からハル共和国にいる間、瑞樹の後見人になることを依頼されてます。これがその証文、瑞樹を連れ帰る十分な権利でしょう?」
正樹は瑞樹の両親のサインが入った証文を取り出して見せた。ナンディーに到着するのが遅れたのはこの証文を瑞樹の両親から取り付けるためだった。不安そうにしていた瑞樹の両親の顔が目に浮かぶ。
なんとしても瑞樹を元に戻さなければ……正樹は唇をかみしめる。
「……そんなもの、いくらでも偽造できる」
アドニスは、ぎりぎりと歯を噛みしめながら唸った。
「もちろん、いくらでも確認したらいい。これは本物だからな。でもあんたには渡せない。然るべき機関で調べて貰う分には全く構わないけどな」
アドニスは唇を噛みしめたまま項垂れた。
部屋の外で爆発音がしたのはその瞬間だった。
壁と言わずドアと言わず、辺り一面が瓦礫の山と化す。咄嗟に瑞樹を庇った正樹の上にも瓦礫の欠片が降り注いだ。
公安の一人が、突然気が触れたように持っていた手榴弾を投げたのだ。更に彼はショック銃を仲間の公安の人間に向けて乱発した。辺りをすっかり片づけてしまうと、彼は恭しく膝をついてセルシスを拘束していた手錠を解錠した。
「ご苦労だったね」
跪きショック銃を掲げ礼をとっている公安兵から銃を受け取ると、セルシスはにっこり微笑んで、その銃で躊躇うことなく彼を撃った。