第八話 砕け散る翠玉(3)
「瑞樹、逃げ出したんだって?」
セルシスは面白そうに虚ろな瞳の瑞樹を覗き込んだ。
「おかしいなぁ、どこにそんな気力があったんだろう。あれだけ痛い目に遭ったのに、まだ自分の意志で逃げ出そうとか、逃がして貰うように頼もうとか、逃がした人間を庇おうとかできたの?」
セルシスは少し声のトーンを落とした。
「お陰で、アドニスはカンカンだ。実はね、今回は僕もかなり怒ってる。もう手段は選んでやれそうにないよ」
セルシスは瑞樹の顎に指を当てて上向かせて視線を合わせると、威嚇するように暗い瞳で睨みつけた。
その時、ドアをたたき割るような勢いで入って来た人がいた。
『瑞樹!大丈夫か?』
入って来たのは正樹だった。
「正樹ちゃん?」
瑞樹はセルシスの手を振りほどいて正樹に駆け寄った。その途端にセルシスの暗い、嘲るような声が響きわたる。
『まだ逃げようと、助かろうと、考えているのかい?』
瑞樹は踏み出した足を恐怖で凍りつかせた。何故なら、目の前で正樹が血を吐いて倒れたからだ。
「きゃあー、正樹ちゃん!」
瑞樹は、硬直する自分の体をなんとか前に進めると、震える手で正樹の背中に触れた。そこには鋭い刃物が深々と背後から刺さっていて、鮮紅色の血がドクドクと流れ出している。
「正樹ちゃん?正樹ちゃん。嘘だ……こんなの嘘だよね……」
正樹は倒れたままぴくりともしない。ただ、赤い血が瑞樹の指を赤く、赤く染めあげて行く。
「誰か、誰か……正樹ちゃんを助けて。エニシダ!イベリス!ドクターを呼んで!」
血塗られた手でドアを叩くと、いつもならばびくともしないドアが勝手に開いた。瑞樹はさらに戦慄して息をのむ。ドアが開いたその先の通路に、無数の人々が倒れていた。
「いや……嫌、こんなの嘘だ……」
瑞樹は、子供のようにしゃくりあげながら一人一人確認して行く。
「パパ?ママーっ、イベリス?エニシダ!なんで?なんでこんなことに?嫌だ、アーマルターシュ?目を開けてよ!」
倒れている人が流す血が通路中に広がって、辺り一面血の海だった。瑞樹は一人その中で放心する。自分の味方だと思っていた人々がすべてやられたのだ。自分のせいだ。瑞樹は、血に濡れた掌で顔を覆い号泣する。
視線の先に、薄い金色の髪が見えた。しゃくりあげながら、恐る恐る視線を合わせる。心の片隅でピシリと亀裂音がする。亀裂が広く深く刻まれる音に似ていた。
「……ニシキギ?嘘だ……嘘だよね?」
なぜだか分からないけれど、彼は大丈夫だと思っていたことにふと気づく。彼はいつでも自分を助けてくれる存在で、死ぬことなどないのだと思っていた自分に呆然とする。
瑞樹は、フラフラしながら、ニシキギのように見える血にまみれた体に近づき、仰向けにする。
苦しげに閉じられた瞼で、いつもの青い瞳は見られなかったが、それは間違いなくニシキギで……瑞樹は息をのむ。その胸には深々とナイフが刺さっていた。
「嫌だ……嫌だよ。ニシキギ……目を開けてよ。死んじゃ嫌だ、嫌だよ!」
『どうする?助けてやろうか?』
その時、背後でこの惨状には相応しくない、楽しげな、しかし悪意が滴るような声が響いた。
「セルシス……」
瑞樹は、血まみれになってしまった顔で振り返った。
「助ける?助かるの?」
瑞樹には、その悪意に満ちた声が、暗闇にさした一筋の光に思えた。
『ああ、助けてやれるさ。もちろん』
揺るぎない肯定の言葉に、瑞樹は縋りつく思いで救命の言葉を紡いだ。
「助けて!助けてください、お願いします」
『ただし、対価が必要だな』
「対価……」
瑞樹は呆然と呟く。一体何を払えば、こんなにたくさんの命を救えるのだろうか、瑞樹は途方に暮れる。
『じゃあ、服を脱いで。ここに来いよ……』
セルシスは楽しそうに呟くとニヤリと嗤った。
「な……にを……するの?」
『僕が座っているのが何かわかる?』
セルシスはポンポンとベッドの表面を叩く。
『君は女で僕は男だ。服を脱いでベッドの上ですることと言えば、一つでしょ?』
「……なんで……」
嫌だ!心の中で木霊する。でも……同時に湧き上がる相反する声。自分さえ我慢すれば……。
『なんでかって?理由なんているかな?人の命を救うのに理由がいるのかい?』
それでは、まるで人の命を救うのに理由がいると、瑞樹が文句を言っているようだ。麻痺したように全く働かない思考力。瑞樹はごくりと唾を飲み込んだ。
震える指で着衣のボタンを外していく。涙で周りが滲んでいく。
『のろまだな。もう、そのままでいいからこっちに来いよ』
下着だけになった瑞樹に、セルシスが面倒くさそうに声をかけた。
ぼやけた視界に、セルシスの瞳の青が映る。同じ青でもニシキギの瞳とは全然違う。底冷えのする青。
近づいた瑞樹の腕を力任せに引き寄せると、セルシスは瑞樹の唇を塞いだ。
『抵抗したら取引は不成立だからな?』
セルシスの言葉に、瑞樹は抵抗もできぬまま、きつく抱きしめられ、さらに深く口づけられる。抵抗を封じられている瑞樹とセルシスの抱擁は、傍から見れば恋人同士の睦みあいに見えたことだろう。
『……瑞樹?』
聞き覚えのある声にびくりと体を震わせて、瑞樹が背後を見ると、そこには酷く驚いた様子のカナメが立っていた。
その瞳に浮かんでいるのは、驚愕、放心、それから後は何だったか……動揺している瑞樹には判断できなかった。
「カナメ……」
カナメが助けに来てくれた?でも……私は何をしてる?誰の姿で、誰の為に?瑞樹は途方に暮れた瞳でカナメを見上げる。
『……信じられない。君は君の意志でここにいるのか?』
カナメは呆然としている様に見えた。
「違う。これは……」
言い訳をしようとして、瑞樹は心臓がドクリと音をたてたのを感じた。ここで、言い訳をすることは、更なる犠牲を生みだすことになるのでは?湧きあがる疑問に瑞樹は口を噤んだ。『彼が傷つけたいと思っているのは誰か、考えてみてください……』トウキの声が聞こえた気がした。
『君を助けに来たことは、すべて無駄だったってことかな?』
悲しげな、しかし怒りを含んだ表情でカナメは言った。
「……」
瑞樹は何も言えずに凍りついたまま立ち尽くす。
『そうだったのか。君を助ける為に来た人はすべて命を落としたんだぞ?これじゃあ無駄死にじゃないか!』
カナメの怒りが次第に増していくのが手に取るように解った。
セルシスは、まるでカナメを挑発するかのように、硬直している瑞樹の頬にやさしげな口づけを落とした。しかし、その瞳には残忍な嗤いが浮かんでいて、瑞樹はその意味を理解する。
救命の言葉は封じられている……ということ。
「……君には失望したよ」
カナメは怒りに満ちた瞳で吐き捨てるように言うと、そのまま部屋を出て行った。鋭いナイフを投げつけられたように、瑞樹は瞬き一つできないまま、その後姿を見送った。
すべての希望が断たれた。最後にカナメによって放たれた言葉は、正確に瑞樹の心を貫いた。
それは無数に細かくひびの入った陶器が、最後のひと突きで粉々になるさまに似ていた。しかし粉々に砕けてしまったのは陶器ではなく、瑞樹の心だった。
助けを求めることも、泣くことも、笑うことも、怒ることも……考えることさえ放棄してしまった砕け散った心だった。