第八話 砕け散る翠玉(2)
瑞樹は、自分が誰かの肩に支えられて薄暗い長い廊下を歩いているのに気がついた。脚にちっとも力が入らない。
拉致されて、セルシス・G・フォティニアに会ってから、どれくらいの時間が経ったのか自分ではさっぱり判断ができなくなっていた。今、私は確かに廊下を歩いているのだろうか、それさえも定かでない。これはセルシスの見せている幻?
何が現実なのか、何が幻なのか判別できなくなりつつあった。
最初はセルシスの見せている幻なのか現実なのかを判別することができていたのだ。しかし、幻を否定する幻、肯定する幻、幻の中の幻……まるでマトリョーシカのように、まるで合わせ鏡の中の世界のように際限がなく、実体が掴めない。幻のラビリンスの中で瑞樹は途方に暮れる。
私は壊れ始めている……確実に分かるのはそれだけ……。
バーチャル拷問。セルシスが瑞樹に行っていることは、一言で言えばそれだった。瑞樹が心の中で辛かったと考えているシチュエーションを再現し、瑞樹が最も選びたくなかった選択肢を選択するように強要するのだ。瑞樹が違う選択をすれば、痛い思いをさせる。言うことをきけば危害は加えられず、つかの間の休息を与えられるが、自己嫌悪に陥っている時の休息は、むしろ危害を加えられている時よりも精神的なダメージが大きかった。
しかも、その休息でさえ、幻だったと言う場合があるのだ。恐らく大脳コンタクトを使用しているのだろう。器具をつけられたことはなかったが、どんな酷い痛い思いをさせられても、現実に戻れば、体にその痕跡は何一つ付いていない。
自分の意志で選択することを放棄させようとしているのだ。瑞樹は自分の置かれた現状に吐き気を覚える。
「犬扱いだ……」
犬だってこんな酷いしつけはされないだろうと、苦笑する。
虐待を周囲に悟らせないために、体に傷をつけないように、見える所にはその痕跡を残さないように虐める人間がいるという。それに似ていた。セルシスやドクター・ヌンは瑞樹を傷つけたことをこれっぽっちも認めないだろう。瑞樹が受けた傷に対して、なんのリスクも責任も背負うつもりがないのだ。
絶望の淵に沈みながら、瑞樹は一人ぼっちで宇宙に放り出された子供のように震えていた。
幽かに聞こえる慰めの声は相変わらず続いていたが、その声は日を追うごとに幽かになってきていた。そんな時に、宇宙服に身を包んだ人が現われて、あの部屋から瑞樹を連れ出したのだった。
「あなた誰?」
瑞樹は少し低い震える声で問いかける。
「俺だよ」
その声の主はエニシダだった。
「俺の祖父ちゃんが、あんたを逃げ出さないように、森の民として長老に服従するようにして欲しいと、やつらに依頼したらしいんだ。恐らく、祖父ちゃんは、あんたがこんな目に遭わされるなんて知らなかったんだと思う。俺はあんたを助けたい。それはイベリスの願いでもあるんだ」
エニシダの声は細く、やはり震えていた。
「イベリスが?」
ドアの向こうで、罪悪感むき出しの泣きそうな声で怒っていたイベリス。瑞樹は胸が詰まる。
これは現実なのかもしれない……瑞樹は足に力を入れなおして歩く。
「イベリスとはナンディーで親しくなったんだ。俺の友達だ。祖父ちゃんはイベリスにも酷いことをしてしまった。もう黙っていられない。俺は、もう祖父ちゃんに誰も傷つけて欲しくないし、誰も傷ついてもらいたくない」
エニシダは泣いているようだった。宇宙服のようなものを着ているので、くぐもっていてよく分からなかったけれど。
森の民の長老……そうだったのか……私の力が必要だったの?瑞樹は泣きたくなってくる。私が森の民に力を貸さないと、協力などしないと……そう思ったの?私が、そう思わせてしまったのだろうか……。
「……ここ、どこなの?」
「ここは火星だ。だけどハル共和国のどこのエリアにも属していない。森の民が反発して作り出した独立したエリアなんだ。ここのことはハル政府も知らないはずだ。ここの皆はガイアシティと呼んでいる」
「アグニシティからは随分離れているの?」
とにかく、ここを離れなければならない。誤解を解く方法を考えなければ。協力するのならば、自分の意志で協力したい。
「ああ、一旦地表に出て、小型シャトルに乗らなければここを脱出できない。俺がなんとかする。とにかくナンディーに救助を求めよう」
エニシダがシャトルの乗り場であるエリアのドアを開けた途端、突然エニシダは突き飛ばされて床に転んだ。瑞樹も支えを失って同じように床に転がる。
「何をしているのだ!おまえは!自分が何をしているのかわかっているのか?」
転がるエニシダを怒鳴りつけたのは、祖父であり、森の民の長老であるアドニスだった。
アドニスは転がったエニシダの胸倉をつかむと激しく前後に揺さぶった。アドニスの乱暴を止めさせようと手を伸ばした瑞樹の手は、別の誰かに掴まれ羽交い締めにされた。
「やめて、私が……私が逃がしてって頼んだの!」
瑞樹はアドニスを睨みつけた。どうしてエニシダを庇ったのか瑞樹にも説明できなかったが、祖父と孫の間にできてしまった溝を少しでも埋めたかったのかもしれない。瑞樹の祖父は数年前に亡くなってしまっていたが、瑞樹は祖父が大好きだった。
「瑞樹?何言ってるんだよ」
エニシダの弱弱しい声がした。
「どうせ孫をたぶらかして、いいように使おうと思っていたのだろう?」
アドニスの低い声が響く。
「祖父ちゃん、それは違う。もうやめて欲しいんだ。頼むよ、もうこんなことはやめてくれ。瑞樹が可哀想だ。こんなこと森の民の為になどなるわけがないよ」
エニシダは祖父に縋りついた。
「すっかり騙されよって、お前は馬鹿な父親にそっくりだ」
アドニスは忌々しげにエニシダをふりほどいた。
「おい、その娘を元の部屋に放り込んでおけ。そしてこの馬鹿者が近寄らないように見張っておけ」
アドニスは、瑞樹を羽交い締めにしている背の高い男に命令した。
「了解」
男は軽快に返答すると、足元が覚束ない瑞樹を抱え上げ颯爽と歩き去った。
読んでくださってありがとうございました(*^_^*) 招夏




