第六話 蛇を踏む(3)
273号室に人が集まっていた。ドアの前の廊下の上には、赤い染みが広がっている。それが血液ではないということはすぐにわかった。
「誰かが瑞樹をおびき出したんだ。その為のまがい物の血だろう」
カナメが呻く。
「誰がこんなことを……」
アーマルターシュが絶句する。そこへ、緑目のトウキが駆けつけてきた。
「今、トウキ001から信号が送られてきました。宇宙空間からです。位置と方角から推測して、火星かナンディーに向かっていると思われます」
皆が驚愕の表情で緑目トウキを見つめた。
「トウキ001はどういう状態で信号を送って来たんだ?」
ニシキギが噛みつくように問いかける。
「機能停止した状態で、記憶装置の破壊を行ったようです。その信号でした」
冷静な声でトウキが答える。
「最悪の事態だな」
ニシキギが呻く。
「どういうことなんだ?」
正樹が問いかけた。
「瑞樹はもう地球にいない。しかも、守ってやれるものが何もない状態で拉致された。そういうことだ」
カナメが難しい顔をして言った。
「トウキ、アーマルターシュ、至急、今現在、地球のハル共和国から姿を消した者の確認をしてくれ。それからニシキギ、ナンディーとアグニシティに連絡を取って、入港するすべての船のチェックをするように手配してくれ」
カナメの指示に、それぞれが頷くとすばやく行動に移った。
「正樹、申し訳ない。こんなことになってしまって……調査が済み次第、我々はナンディーかアグニシティに向かうことになると思う。君はどうする?」
「もちろん、行くさ。その前に幾つか俺自身がしておきたい事があるから、出発が決まったら連絡をもらえるかな……ああ、そうだ、もし、俺の準備が出発までに間に合わなかったときは、後で追いかけるってことは可能か?」
「君が望むとおりにできるように手配しておくよ」
正樹の言葉に首を傾げながらもカナメはそう言った。
「助かる」
正樹は頷くとどこかへ消えて行った。
* * *
ニシキギが出発の準備のために自室に戻った時、一人の女性がニシキギの部屋で待っていた。
「あんた誰だ?」
胡散臭いものを見るようにニシキギは顔を顰めた。
「私はアイリス、あなたの配偶者よ」
そう言って微笑んだその女性は、キャメル色の髪に空色の瞳、儚げに見えるのはその女性が瞳と同じ淡い青色の服を着ているからだろうか。ニシキギはしばらく考え込むようにアイリスと名のる女の顔を見つめてから、何も言わずに奥の部屋へ入って行った。
「何をしているの?」
女はニシキギの後に続いた。
「あんたには関係がない」
「関係がないわけがないでしょう?聞こえたの?私はあなたの妻なのよ」
大脳コンタクトを装着し始めたニシキギの前に回り込んで、女はニシキギの前に立った。艶然と微笑んでニシキギの青い瞳を覗き込む。
「……一つ言っておこう。あんたが配偶者だろうがなんだろうが俺は全く構わないが、ここにいるつもりならば、俺の邪魔をするな、勝手に俺の物に触るな、俺が話しかける以外はしゃべるな、以上だ。このルールに従えないのならば、今すぐ出て行ってくれ。関係は解消だ」
ニシキギは木で鼻をくくった様に言った。
「気にならないの?私の事が……何歳なのかとか、何の職業に就いているのかとか、ハル脱出の時にはどこにいたのかとか……」
女は多少うろたえ気味に言葉を並べる。
「今、忙しい、事情聴取ならば後でゆっくりしてやる。兎に角、この部屋から出て行ってくれ」
ニシキギは煩そうにドアを開けて、仕草で出て行けと示した。女は少し呆然としたようにニシキギを見上げたが、すぐに口を引き結んで部屋を後にした。
隣のリビングで、女は両手で顔を軽く叩いてみる。ぐずぐずと崩れそうになる気持ちを立て直したかった。ここはどこなんだろう、私は一体何をしているんだろう。頼みのニシキギは、思ったよりも感じか悪く、思ったよりもそっくりだった……あの人に。私をここに送りこんだ人、ドクター・ヌンは、ここが地球という惑星なのだと言った。惑星ハルは、もう宇宙のどこにも存在しないのだと彼はそう言った。
女は溜息をつく。信じられるわけがない。
再生されてすぐ連れて行かれた地上は、アール・ダー村のように光に溢れていた。ただ、そこがアール・ダー村ではないとすぐにわかったのは、四方を海という水に囲まれていたからだ。水は青く澄んでいて塩の味がした。アール・ダー村にあったのは湖だけだった。
海……子供のころに教えられた海。海にかかった虹を見ると幸せになれるという言い伝え。でもハルで海など見たことが無い、どこにあるかも分からなかった海。海自体が伝説ではなかったか?自分が、どこか知らないおとぎ話の世界に拉致されたように感じる。
ニシキギは大脳コンタクトで森の民の情報を引き出した。ネモフィラ・メンジーシー、頭の中に一人の女性のイメージが現われる。
森の民、リセプタータイプ、二十歳、彼女はハル脱出の二年程前に行方不明になっていて、翌年、つまり脱出の一年前に死亡していた。次に自分の配偶者の欄を確認する。アイリス・エウオニムスのイメージが出てくる。
アイリス・エウオニムス、一般人、二十歳、職業は植物学者、旧姓の欄が空欄になっていた。身元引受人の欄にGAという記号が書き込まれている。ニシキギは額にかかる前髪を掻きあげながら、深い溜息をついた。