第五話 穿たれた薄闇で拮抗する力(5)
「具合の悪い患者を医療センターに連れてこないで何をしているんだね、君たちは?」
ドクター・ヌンはしかめっ面で言った。
「崩壊が止まったので連れてこなかったんですよ。崩壊が止まれば問題ありませんからね」
カナメは努めて静かに説明した。
「それならばそれで、どうして崩壊が止まったのか検証が必要だろう? 今後の医療の根幹に関わってくる一大事ではないか」
「崩壊が止まっているのは一時的で、まだ事態は流動的なので様子を見ていたんですよ」
「それを判断するのは医療センターの仕事だと思うが、いつ君は医師になったのかね」
「……」
カナメは黙り込む。
「君は議長だろう? 議会の意見を吸い上げて、誰にも納得が行くように国を導いて行くのがその責務だと思うが、いつ議長が医療センターの仕事に口を出す権限を持ったのか教えて欲しいものだね」
会期はもう少し先で、まだ議長ではないと訂正しようかとも思ったが、それならそれで、更に、何の権限もないではないかと言われることが目に見えていたので、カナメは口を噤んだ。
「医療センターに関しては、議会でも問題になっているわよ。イベリスの件が全く進展していないこととか、再生条件を満たしていない者が再生されているのを、医療センターが見逃しているのではないかという疑惑が浮上しているわ。医療センターこそ責務を果たしているのかしら?」
アーマルターシュが反論する。
「アーマルターシュ報道官、それは証拠があることなのかね。医療センターが違法に再生していると、治せる患者を治さないで放置しているという、そう言う君の論拠を訊きたいのだが」
ドクター・ヌンが鋭い目つきでアーマルターシュを睨んだ。
「それは……」
「そんなことでは、ハルの報道官は根拠もなしに適当な情報や噂を他国に報道していると言われても仕方がないと思うが、どうかな?」
穏やかなそれでいて酷く威圧的な言い方だった。
「……」
アーマルターシュは黙り込んだ。
「森の民の長老アドニス・アムレンシスの孫、エニシダについては調べたんですか?」
沈黙を正樹の落ち着いた声が破る。
「君は?」
ドクター・ヌンが訝しげな顔で問いかける。
「俺は瑞樹と日本から来ました。マサキ・I・カイヅカと言います。お見知り置きを。それで、エニシダのことはもう調べたんですよね。あなたの言い分だと、崩壊の原因となった森の民を調べるのも医療センターの仕事と言えるのではないですか?」
「ふん、どういう被害が起こったのか詳しくわからないうちに調べられるものか。これだから異国人には困ってしまう」
ドクター・ヌンは吐き捨てるように言った。
「つまり、被害者を見るまでは事件が起こったことを認めない、よって加害者は調べられないと言っているわけですよね」
正樹は淡々と言った。
「……」
ドクター・ヌンが黙り込む。
「ならば、なにも起こってないじゃないですか。何を根拠に瑞樹を医療センターに連れてこいとあなたは言っているんですか?」
「それは……森の民から連絡があったからだ」
「その情報は確かですか? 瑞樹の症状が崩壊だという証拠は?」
「……」
「私の国では被害者が届け出ることによって事件が起こったとみなされ、警察による捜査が開始されます。ここでは逆ですか?」
正樹は薄く笑ってみせる。
「……それは被害者を見ればわかることだ」
ドクター・ヌンは苦々しげに言った。
「それは……そのとおりでしょうね。僕から見ても確かに被害者は瑞樹だ。しかし、もう遅い時間だ。瑞樹はもう休んでいます。元々あまり丈夫じゃないのでね。今日は勘弁してもらいたい。もし事件の真相や瑞樹の具合や、崩壊ですか? その症状を止めた原因をあなたが本当に調べたいと思うのならば、明日、森の民と我々と双方が顔を突き合わせたその場で確認するべきだと思いますよ。どうして瑞樹がこんな状況に巻き込まれたのか、俺も是非知りたいですからね。あなたのおっしゃり様だと、日本のやり方とハルのやり方には違いがあるようだし……」
正樹はあくまでも瑞樹が被害者の立場であることと、日本人であることを強調した。日本が国として、外国で事件に巻き込まれた個人に何をしてくれるかなど分かりはしなかったが、たとえ張りぼてのトラであろうと隠れられるなら何でも利用しようと思ったからだった。自分たちの後ろには国家がいる、相手にそう思わせられるだけでいいと思った。
「君はミズキ・ヒュウガの何に当たるのかね、配偶者ではあるまい?」
「俺は瑞樹の両親から瑞樹を預かっている、言わば後見人です」
「なるほど……な。君の言うとおりにするしかなさそうだ」
ドクター・ヌンは鋭い瞳で正樹を睨んでからそう言った。
* * *
「明日になっても瑞樹の崩壊が止まっていなかったらどうするの?」
医療センターから引き揚げる途中で、アーマルターシュが心配そうに訊いた。
「明日になっても止まらないなら、もうそのままでは止まらないかもしれない、そう言う事なんだろ?」
正樹が冷静に答える。
「もしそうなら、医学的にきちんと調べるべきだ」
「ドクター・ヌンは信用できないわ」
「そうなら、誰か信用のおける医者を手配するべきだろう?」
「ブラキカムに連絡をとろう。ナンディーに戻っているんだ」
カナメが静かに言った。
瑞樹とニシキギは手をつないだまま眠っていた。 穏やかな寝顔を確認して正樹はリビングに戻った。ついさっき、アーマルターシュは自室に引き上げた。
「何か飲む?」
カナメが飲み物を用意していた。
「何かアルコール系のものを飲みたいな」
正樹が背伸びをしながら言う。 カナメは軽く笑ってモルオーブンにコードを入力する。
「君、名前にアルファベットのIが入っていたけど、あれは何?」
さっきドクター・ヌンに名乗った時に入っていた。
「ハル国民として登録する時に訊いたんだ。ミドルネームはどういう時につけられるんだってね」
正樹はカナメから飲み物を受け取った。
「そしたら、特にルールはないって言われた。母方のファミリーネームだったり、親がつけたいだけだったり、て言われたんだ。あんたもミドルネームあるだろ?あれはどういう理由?」
「フォティニアは母方のファミリーネームだ」
「ふぅん。親が付けたくて付けられるんなら、自分が付けたくても付けられるだろうって思ってね。これから有効に使える気がしたから……」
正樹は飲み物を煽った。
「で?」
「イブキのIだ」
正樹はぽつりと呟いた。
「有効に使えるか?」
カナメは面白そうに正樹を見つめる。
「さあな、どうなるかわからない。でも使えるものは何でも使う。俺の主義だ」
「君……本当はイブキなんじゃないのか?」
カナメは苦笑する。
「さっきもドクター・ヌンに切り返して黙らせた君を見ていてそう思ったよ。僕はああいう理屈の上に理屈を積み重ねて、相手を黙らせるやり方は嫌いだ。僕は議論の為に議論をするなんて馬鹿らしいと思っている人間だ。しかし、そう言うのが好きな人間は五万と居る。そんな人間たちをまとめるなんて、そもそも僕には向いていない。本当なら僕は議長なんかになるべき人間ではないんだ。僕を選んだ人はどうかしてると、自分では思ってる。イブキだったら、この『国』というモンスターをうまく導いて行けるんだろうって、君を見ていて思ったよ」
「俺だって本来そんなことは好きじゃないよ。自分の好きな機械いじりして、何か物を作り出している方が楽しい。けど、今回のことは別だ。瑞樹が関わってる。俺は物心つく前から、あいつを守るようにと自分の親からも瑞樹の両親からも言われて育ってきたからな。もう習慣みたいなもんだ」
正樹は軽く笑って溜息をついた。
「……実際色々面倒を見てきたんだぜ? あいつはトラブルを拾ってくる天才だからな」
正樹はぽつりと続けた。
「だから、ご褒美としてあいつのことを……自分のものにしても構わないんじゃないかって思ったことが、正直何度かある」
正樹はカナメをちらりと見てから続けた。
「だけど俺……そう言う意味では、あいつに指一本触れたことがないんだ。そう言う邪な心を持った途端に赤い夢を見るからな」
「赤い夢?」
カナメは怪訝そうな顔で正樹を見つめた。
「そ、赤い夕焼け空だったり、真っ赤に熟れたリンゴだったり、てんこ盛りに盛ったイクラ丼だったりな」
「イクラ丼?」
カナメが怪訝そうな顔をしたので、正樹はイクラ丼の説明をする。
「で、それらの何かしら赤いものが俺の事を責めるんだ。なんでだって、言ってな」
「イクラ丼が責めるのか? 君の事を?」
カナメは眉間に皺を寄せて問い返す。
「……あれ、あんただろ」
正樹がカナメを睨みつける。
「イクラ丼が? 僕? 失礼な……」
カナメは体を折り曲げて笑っている。
「あんたを初めて大脳コンタクトで見た時からずっとそうじゃないかって思ってた。瑞樹があんたに抱きついたのを見て確信した。俺はこいつに瑞樹を攫われるんだってな」
「……それは無理だろう」
カナメは笑い過ぎて目に溜まった涙を拭きながら言った。
「なんで無理なんだ?」
「恐らく、僕は純粋な形で瑞樹を愛せない。だって、瑞樹の中にディモルフォセカを見てしまうから。瑞樹だって混乱するはずだよ。彼女が仮に僕を愛したとして、それは瑞樹自身が愛しているのか、ディモルフォセカの記憶で愛しているのか分からなくなるんじゃないかな?」
「確かにややこしい関係ではあるよな」
正樹は考え込む。
「君が瑞樹を好きなら手に入れればいい。僕は止めない。同様にニシキギが瑞樹を欲しがるのなら、それも僕は止めない。彼は信頼できるやつだ。でももしドクター・ヌンが瑞樹を何かに利用する為に欲しがるなら、その時には僕は何を犠牲にしても全力で阻止するだろう。僕にとって瑞樹はそういう存在だよ」
カナメは弱く笑んだ。