第五話 穿たれた薄闇で拮抗する力(4)
「カナメ、瑞樹が崩壊したって本当なの?」
アーマルターシュが青ざめた顔で273号室の部屋に入って来たのは、夜もだいぶ更けた頃だった。瑞樹の意識は相変わらず回復せず、ニシキギがつきっきりで奥の部屋にいた。
「誰から聞いた?」
カナメが訊き返す。
「森の民から何度も問い合わせが来ているのよ。なのに真相を知る者が誰もいなくて。医療センターに問い合わせても、そんな患者は来てないって言われたらしくて、私に問い合わせが来たのよ。当然私も知らないから答えようがなかったんだけど……。私にも連絡をして欲しかったわ。ここのことを話すわけにもいかないし、あなたもトウキもいないし……」
アーマルターシュは早口に事情を説明した。
「そうか、悪かった。瑞樹の意識が戻らないから下手に動けなかったんだ。まだ崩壊も完全に止まった訳じゃないしね」
カナメが疲れたように説明する。
「崩壊が止まったの?」
アーマルターシュは驚きと安堵の混ざった表情をした。
「ニシキギが触れていると崩壊が止まるんだ。離すと始まる」
「なんてこと……」
「僕が説明に行こう。医療センターにも話が伝わってしまったんなら、黙っていると良いことはなさそうだ」
カナメは腰を上げた。
「俺も話を聞いていて構わないかな」
正樹も立ち上がる。
「もちろん構わないよ。じゃあ、トウキ、後を頼むよ。アーマルターシュ、君はどうする?」
「私ももちろん行くわよ」
憮然とした表情でアーマルターシュが続いた。
* * *
「あれ? ここどこ?」
瑞樹は、普通に目覚めるように意識を回復した。ニシキギが隣で手を握って座ったまま眠り込んでいる。瑞樹の声にニシキギが目を覚ました。
「目が覚めたのか? ここは273号室の部屋だ。どこか具合の悪いところはないか?」
ニシキギが心配そうに顔を覗き込んでいた。
そうだった、第二エリアEに行ってエニシダと握手したところまでは覚えている。突然左手に衝撃が走って金色の光がほとばしり出たことも、誰かが崩壊だと叫んだことも、でも、その先を瑞樹は何も覚えていなかった。
「私、どうしたんだろ。急に金色の光が溢れだして……」
「お前は崩壊しかけたんだ」
ニシキギが顔を顰めて言った。
「ほーかい……」
耳慣れない言葉に問い返す。崩れ壊れる……。ゆっくりと漢字が頭に浮かぶ。
「森の民オリジンタイプとマルチタイプが再生されないのは知っているな?」
瑞樹は頷く。ディモルフォセカはオリジンタイプだった。
「それは、彼らが再生したときに崩壊という症状を起こして死んでしまうからなんだ。力を一気に放出して死んでしまう。お前はその症状と同じような状態になった」
ニシキギの言葉に瑞樹は呆然とする。
「なら……私、死んでるはずじゃない?」
『崩壊』は始まると止まらない、そうカナメから聞いたことがある。ディモルフォセカの記憶。
「理由はわからないが、俺が触れていると崩壊が止まるようだ」
「それで……なんだ」
ニシキギの手は、瑞樹の手を離さないように指を交差させて握り締めていた。
「ありがとう……。ごめんね、私のせいで、ニシキギ付きっきりだったんだね?」
「手を握っておくくらいなんでも無いことだ。あんなことになる前にあんたを連れて帰るべきだった。護衛するために行ったのにあんたを死なせては面目がたたない。あのまま崩壊していなくて良かった」
ニシキギはいつになく神妙で親身だった。
「ごめん、この前からずっとニシキギに迷惑かけっぱなしだね」
なんだかやることなすこと上手く行かない。裏目裏目に出てしまって、泥沼に踏み込んでしまったみたいな気がする。
「気にするな」
握っていない方の手でニシキギは瑞樹の頭を軽く撫でた。
「あの……」
手を握ったままでいなければならないということは……瑞樹はふと思いつく。
「なんだ?」
「あの……ね……」
やりにくいことや、行きにくいところがあるのだと、ふと思い当る。
「だからなんだ?」
「あの……この手、離したらどうなるのかな?」
「一分程何事もないようだが、五分を過ぎた辺りから金色の光がどっと溢れだすな」
「そうなの……あの……その……」
「なんなんだ?」
ニシキギはイライラしてきたようだ。
「お手洗いとかはどうしたらいいのかなーって……」
瑞樹は赤くなって答える。
「なんだ、そんなことか」
ニシキギは脱力する。
そんなこと……そんなことかって……。
瑞樹は恥ずかしくて顔が熱くなる。
「ドアの前まで付いて行く。なるべく素早く事を終わらせて出てくることだな」
「事を終わらせる……」
瑞樹は絶句した。
体力ががっくりと衰えているのに気づいて瑞樹は愕然とする。足を一歩前に出す作業に、これ程まで苦心したことはかつてなかったと思う。膝が震える。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
フルフルしながら歩く。年寄りになってしまったみたいだ。
言われたとおり、事をさっさと済ませて手を洗う。ところが、水に手を触れた途端、光が洗面所のシンク一面に溢れた。まだ五分は経っていないと思っていたのに、突然溢れだす光の粒子。瑞樹はあっけにとられた。
「なに? なんでこんなに早くこんなことになるの?」
瑞樹は震える声で呟くと、呆然としたまま溢れだす金色の光を見つめた。綺麗だとは思うが、自分の体から出ていると思うと、なんだかそれは血のように禍々しくもあり、目の前がクラクラし始める。
「おい、瑞樹? 大丈夫なのか? 瑞樹?」
ドアをドンドンと叩く音がするが、瑞樹は金縛りにあった様に身動きが取れないでいた。
「瑞樹がどうかしたんですか?」
トウキが隣のリビングから入って来た。
「トイレに行って、もうそろそろ五分経つんだが、まだ出てこないんだ。返事も無い」
そう説明している間に、ドアの僅かな隙間から金色の光が微かに漏れ始める。
「瑞樹? 開けますよ?」
トウキが声を掛けてから、ありったけの力でドアを開ける。カギが壊れてぶら下がったままドアが開いた。
「瑞樹!」
瑞樹は手を水に浸したまま硬直していた。
「水に触った途端、急に光が……私、どうしたらいいのか……」
硬直したまま目を見開いて、瑞樹はニシキギを見つめる。
「大丈夫だ、俺が止めてやる。心配するな」
ニシキギは冷静に水を止めると、濡れたままの瑞樹の手を握り締めた。光の放出量がぐっと少なくなる。トウキが瑞樹を抱え上げてベッドに連れて行った。
「あなたも瑞樹の隣で休むといい。顔色が良くないですよ」
トウキがニシキギに言った。
「しかし……」
「ニシキギも横になってよ。気になるし……」
一緒に横になった方が気になる気がするが、とニシキギは思いつつ、確かに自分も力を使っているのか、疲労が溜まってきていたので横になることにする。
「……ごめんね」
瑞樹が弱弱しく呟く
トウキはリビングが空になるのは良くないので、と部屋を出て行った。
「不思議だね、ニシキギが手を握ると光が止まった」
「だから止めてやるから心配するなと言っただろ?」
瑞樹は考え込む。
もし、今日トウキに用事ができなければ、もし、トウキがニシキギでない人に同行を頼んでいたら、私はきっと、生きていない。その事実に呆然とする。
生きているのではなく、生かされている。そんな思いが頭をよぎって、瑞樹は深い溜息とともにニシキギを見つめた。
「……やっぱりニシキギは森の民だったんだね」
「正樹にも言われたんだが、やっぱりこれも森の民の力なんだろうか」
「だってそれ以外に説明できないじゃん」
「それもそうだな」
しばし沈黙が部屋を支配する。
「……私ね、アール・ダー村でシーカスに助けてもらったことあるんだ、あ、それは私じゃなくて、ディモルフォセカだけどね……」
「シーカスに?」
「うん、学校行くのにね、近道があるの、森の中の道で、でもそこは危ないから子供だけで通ることは禁止されてて……」
瑞樹は遠い昔のディモルフォセカの記憶を手繰り寄せる。
その小道は何かしら不思議な力が働いている場所で、時折突然変異を起こした未知の植物が現われることがあった。有用な植物のこともあったが、異常に力を吸い取る能力を持った植物も出現するので、危ない小道だった。特に力を操ることに未熟な子供は危ないからと立ち入ることを禁止されているのだが、なにせ学校までの近道に当たるため、遅刻しそうな時などは、親や先生に内緒で通り抜ける道になっていた。
ディモルフォセカはその朝、調子の悪くなった姉のアリッサムの様子が気になって家を出るのが遅れてしまった。それで、その小道を通ることにしたのだが……その日は運悪く性質の悪い植物が芽を出していたのだった。
「っ!」
力を吸い取られたディモルフォセカは、叢に倒れ込んだまま、あっという間に身動きがとれない状態になってしまった。大幅に遅刻していたため、既に通る人はなく、この分だと、先生たちが彼女の不在に気づいて探しに来るまでに、かなり時間がかかりそうだとディモルフォセカは絶望的になった。
その植物は、今までにない程、力の吸収に貪欲で、動けなくなるまで力を吸い取っても、まだジワジワと力を吸い取る触手を絡めて来る。もしかしたら、このままここで死んでしまうかもしれない。悲壮な気分になった時、軽快な靴音がした。
「ディモルフォセカ? どうしたの?」
シーカスだった。シーカスの学年はその日、一時間目が休校になっていた。
「遅刻しそうになって……」
ディモルフォセカは涙ぐんだ。
「じっとしてて」
シーカスは拾って来た木の棒で、絡みつく植物を退治すると、ディモルフォセカを背負った。
「シーカス! 私、大丈夫だよ。歩けるから……」
焦るディモルフォセカにシーカスは余裕の声で言った。
「無理することないよ。あれは物凄く力を吸い取るやつなんだ。前に見たことがある。今日はこのまま家に帰った方がいい。連れて帰ってあげる」
「でも、そんなの悪いよ……」
「僕も小さい時にね、よく動けなくなって兄に背負われて帰ったんだ」
焦りまくるディモルフォセカにシーカスは笑って言った。
「シーカスにお兄さんいたっけ?」
シーカスに兄弟がいたという話は聞いたことがない。
「いたんだ。もう会えない所に行ってしまったけどね。大きな背中で、僕を軽々と運んでくれた。不思議と兄に背負われると安心してね。もう大丈夫なんだっていつも大船に乗った気になるんだ。僕は他に兄弟がいないから、兄みたいな事をしてあげる人はいないんだけど、僕は兄貴みたいになりたくてね」
シーカスは照れたように笑った。
「今日は少しそれらしいことをできて、ちょっと気分いいんだ。だから君は全然気にすることないんだよ?」
シーカスはそう言ってにっこり笑った。その後、ディモルフォセカをきっちり家まで送ってくれて、母親に説明までしてくれた。小道を通ったことは内緒にしたままで。
後で姉のアリッサムに目一杯羨ましがられた。
「シーカスのお兄さんって……つまりニシキギのことよね?」
「そうだろうな、他にはいないはずだ」
「今の今まで、そのお兄さんとニシキギがリンクしてなかったよ」
「悪かったな、シーカスの兄のイメージを壊して」
ニシキギが苦笑する。
「シーカスはニシキギの力に気づいてたんじゃないかな、だから安心してもう大丈夫だって思ったんだって思うよ?」
「さあ、どうだかな」
苦笑して見せたが、ニシキギは自分の知らなかった弟の話を聞いて胸のうちが温かくなるのを感じていた。
『僕は兄貴みたいになりたくてね』
その言葉が何度もニシキギの頭の中でリフレインした。