第四話 冴えた緑陰の下での胎動(4)
瑞樹は走り続けてサンセットビーチの出入り口に辿り着いた。折しもタウンバスが出発の合図を出しているところで、瑞樹はまるで逃げ込むようにそのバスに飛び乗った。
胸がドキドキしていて、それが走ったためなのか、カナメとアーマルターシュのあんな場面を見てしまったからなのか自分でも判断できなかった。
知らなかった……。カナメとアーマルターシュがあんな仲だったなんて、ちっとも知らなかった。バスの座席に深く身を沈めながら何度も何度も繰り返し考える。ひどく動揺しているのに自分でもびっくりする。
バスは暖かい日差しの中ゆっくりと進み、やがてハンサビーチの入口を右折した。
「ハンサビーチ終点です」
「あれ?」
瑞樹は呆然とする。たまたま居たタウンバスに何も考えずに乗り込んでしまったのだ。行き先を確認していなかった。しかもトウキを置き去りにしてきたのをやっと思い出して心の中で呻く。
「あの、行き先を間違えて乗ってしまったんですけど、このバスはこの後どこへ行きますか?」
「どこに行きたいんだい?」
割と優しそうな運転手さんが気の毒そうに訊いてくれる。
「ハル共和国の施設がある方へ行きたいんですけど」
「それだと、二十分後に空港ターミナル行きが来るからそれに乗って、もう一度乗り換えないと行けないな。このバスはサンセットビーチとここを往復するだけだから」
サンセットビーチには戻りたくなかった。こんな風に逃げ出して、どんな顔をして二人と顔を合わせたらいいのか分からなかったからだ。
「そうですか、じゃあ、しばらく待ってます」
瑞樹は弱く笑むとバスから降りた。バスは瑞樹が降りると間もなくサンセットビーチへと戻って言った。
ハンサビーチのバス乗り場は閑散としていて、暑い日差しを避ける屋根付きの歩道が豪奢なゲートまで続いている。ゲートには門番が常駐しているみたいだった。瑞樹は仕方なく屋根付きの歩道の脇に生えている大きな木の木陰に避難した。
「君、どうしたんだい?」
木陰でしばらくぼんやりしていた時、突然声をかけられた。カナメや正樹と同じくらいの長身で痩せぎすの男の人だった。彼はゲートの中からやって来たようで、一旦開いたゲートが閉まりかけているのが見えた。
「バスの行き先を間違えてしまって……」
瑞樹は力なく笑う。男は瑞樹のいる木陰までやって来るとサングラスを外した。明るめの茶色の色が温かい印象だ。
「僕の車で送ってあげようか? どこまで行くの?」
「いっ、いえ、いいんです。すぐにターミナル行きのバスが来るって言ってましたから」
「空港に? もう帰っちゃうの?」
「いえ、本当はハル共和国の施設に行きたいんですけど、乗り換えないといけないって、さっきバスの運転手さんが教えてくれたから」
「だったら、なおさら僕が車で送ってあげるよ。今車を回してもらってるから」
「いえ、本当に結構です。大丈夫ですから」
その男の人は面白そうに瑞樹の顔を覗き込んだ。
「僕が怖い?」
瑞樹は大らかに微笑んでいるその男の顔を見上げて、少し怖いと思った。押しが強くて、相手が断わる道を断つことを知っている目だ。瑞樹は心の中で焦る。
「いえ、そう言う訳じゃないんですけど、ご迷惑をかける訳にはいきませんから」
「迷惑だなんて思ってないよ。僕も用事があって空港ターミナルまで行くつもりだったんだから。ああ、そうだ! うっかりしていた」
男はそう言うと自分の額を軽く叩いた。
「名前も名乗ってなかったね。これじゃ警戒されるはずだ。はじめまして、僕はターウ・エル。ハンサビーチの別荘を最近、友人が買ったんだ。そうしたら、その友人が今日、到着するから迎えに来いって。まったく人使いの荒いやつで……」
ターウは苦笑した。
「私は、ミズキ・ヒュウガです」
とりあえず名前を名乗る。
「君はハル人なんだよね?」
「いいえ、私は日本人です。ターウさんはどこの国の方ですか?」
「僕はハル人だよ。てっきり君もそうだと思ってた。でもおかしいなぁ、ハルの人じゃなければハル共和国の施設には入れないはずだけど……。やっぱり僕が送って行くよ、友人が着くのはもう少し先だから、ハルの施設に入る手続きとかは知ってるの?」
瑞樹はふと自分が何も知らないことに思い当った。愕然として顔を上げると、心得顔でターウは頷いた。
「ほらね、やっぱり君一人じゃ心配だよ」
* * *
トウキは乗って来た車を置き去りにしたまま走っていた。何かが起こったらしいという事は分ったが、その何かをカナメに訊く余裕はなかった。車よりも走った方が早いとトウキは判断してそのまま走り続けた。トウキは急げば時速八十キロで走ることができる。
カナメは瑞樹がタウンバスに乗ったと言っていた。サンセットビーチからタウンバスで戻れるのはターミナルまでだ。そこからは別ルートのタウンバスに乗り替える必要がある。瑞樹はそんなことさえ知らないはずだ。トウキは走りながら瑞樹の登録コードで位置確認を始めた。僅かにハンサビーチを通り過ぎようとした時に瑞樹のコードを確認できた。トウキは突然方向転換をしてハンサビーチへと右折する。
「瑞樹!」
声を掛けると瑞樹はトウキを驚いたように見つめた。瑞樹は誰か知らない男と一緒にいた。トウキは瑞樹を見つけた安堵と見知らぬ男への警戒とで複雑な表情を作り出す。
「瑞樹、探しましたよ」
トウキは瑞樹の手首を捕まえた。
「トウキ……」
瑞樹は一瞬動揺した表情をしてから、突然表情を消した。
「どうして黙っていなくなったんですか? 何があったんですか?」
矢継ぎ早に質問されて瑞樹は混乱しているように見えた。
「君、やめなよ。そんな怖い顔で睨んでいたら彼女は何も言えないよ」
ターウが瑞樹を庇うように間に割り込んだ。
「あなたは?」
トウキはターウも睨みつける。
「僕はターウ・エル、ハンサビーチに来る友人を空港に迎えに行くところだ。良かったらあなたも一緒に送ろうか?」
ターウの車がちょうど回されて来たところだった。
「いえ、結構です」
トウキはそう言うと、瑞樹の手を引っ張って歩き出した。
「歩いて行くつもりかい?」
ターウの呆れた声が後ろで響く。トウキはそれを無視して歩き続けた。瑞樹も何も言わずに引っ張られるまま歩き続けた。
暑い日差しが容赦なく降り注ぐ。サングラスを掛けて、遮光服を着ていたので問題はなかったが、今さらになって、さっき火傷をした足の甲がヒリヒリ痛くなってきた。今までそんなことも気づかないくらい動揺していたのかと項垂れる。
「瑞樹、ちょっと失礼します」
トウキはハンサビーチから出ると突然瑞樹を背中に背負った。
「な? 何するの?」
「急ぎます。足の火傷の薬も早く塗らないといけませんから」
「トウキ、ごめん……ごめんなさい」
瑞樹はトウキの肩につかまりながら、何も訊いてこなくなったトウキに詫びた。
トウキは、自身の回路の中で、ざわざわと警告する信号をキャッチして、いつになく焦っていた。ずっとずっと昔の記憶からの警告。かつて今の瑞樹のように突然思考を読めないように遮断した人間がいた。それまでは何度指摘しても思考を読まれることに無頓着だったその人が、何の訓練もしていないのに、ある日いきなり思考を遮断したのだ。その人は三日後に死体で見つかった。湖の上に浮かんでいた。アイリス……。トウキは思考回路の信号がザラザラと不快なノイズをたてて流れるのを感じていた。
ゲートで手続きをする為に下ろされた瑞樹は溜息をついた。アンドロイドにまで気を使わせている。しっかりしなくちゃ、私は私なのに……ディモルフォセカじゃないのに……。
「トウキ、もう大丈夫。自分で歩けるし、ありがとう」
再び瑞樹を背負おうとしているトウキに言った。トウキは無言で瑞樹の手を握ると歩き始めた。
ハル共和国の施設の建物の入口でニシキギが待っていた。