第三話 それぞれの心に刻まれた風紋(3)
瑞樹が目覚めた時、隣の部屋から人の話し声が聞こえてきた。
足の脛に、まだ少し鈍い痛みが残っている。ベッドから降りて隣の部屋へ、少し足を引きずりながら向かう。隣の部屋には人が集まっているらしい。話し声が聞こえた。
「所詮、トウキはアンドロイドだ。万が一瑞樹と一緒に事件に巻き込まれてしまえば、彼は自分が持っている情報を守ることしかできなくなる可能性が高い。だから君にも頼んでいる」
カナメの声だ。
「じゃあ、訊くがな、俺達が瑞樹と一緒に事件に巻き込まれた場合、情報は搾取されないのか?」
ニシキギの声がした。
「されるだろうね」
カナメの投遣りな言葉が響く。
「だけど、生身の人間に危害を加えたら重罪だ、そこがアンドロイドとは違う」
「人間の盾になれと言うことか?」
「俺が瑞樹の面倒は見るよ。彼を巻き込む必要はない」
正樹の声がした。
「俺はその役目が嫌だと言ってる訳じゃないぜ。ただ最悪の事態になった時に、自分がどう動けばいいのか確認をしているだけだ」
ニシキギの憮然とした声が響く。
「森の民は彼女の力を欲しがっているだけだ。もし瑞樹が連れ去られるとしたら、エリアEの近くにいるはずなんだ。探し出すことはそれほど難しいことではないと思う。問題は森の民のバックに誰がいるかだ。そして事件解決の難易度は、森の民がどれほどのイニシアティブを握っているかに依ってくる。現在存在するエリアEは三か所、こことアグニシティとセレーネシティだ。金星のエリアEはまだ始動していない。万が一の時に必要になるのは場所の特定だ。盾になる必要はない、やつらは彼女には危害を加えないはずだから。そんなことをしたら連れていく意味がないからね。やるべきことは自身の安全の確保と場所を特定して連絡を取る事だ」
「了解した」
ニシキギが明快に返事をした。
「あの……森の民が関わってるって、どういうこと?」
瑞樹の声に、三人が一斉に瑞樹を注目する。
「……瑞樹、起こしちゃったかな」
カナメが微笑んだ。
「トウキは情報を守るために何をするの?」
瑞樹の瞳が不安を湛えてカナメを見つめる。
「瑞樹……詳しいことは後で君にも説明するよ。だから心配しないで。もう少しそっちの部屋で待っていてもらえるかな?」
言い方は丁寧だが、カナメの言葉には有無を言わせぬ強さがあって、瑞樹はうろたえる。少し傷ついたように目を潤ませてから部屋へ引っ込んだ。
ベッドの上に腰かけて瑞樹は考えを巡らす。森の民が私を連れ去るって、誘拐しようとしてるってことなんだろうか。何の為に?
森の民のことはディモルフォセカの記憶で知っている。例えば小規模な学校のクラスの中でさえ、気の合う人も合わない人も、善良な人もそうでない人もいるように、当然森の民の中にも、誘拐しようと考える人が全くいないと言えないことは分かっている。でも、そうする理由と、その対象が自分だと皆が考えている理由が、瑞樹にはさっぱりわからない。
でも皆が考えていることが当たっているのなら、もしかしたらイベリスは自分のせいであんな目に遭ったのではないだろうか。そんなことを考えているとドアをノックする音がした。
「入るぞ」
入って来たのはニシキギだった。
「話し合いは終わったの?」
「ああ」
「ねぇ、なんで森の民が私を誘拐しようって思うの?」
ストレートな瑞樹の質問にニシキギは苦笑した。
「そう言う事をごちゃごちゃと考えてましたって顔してるな。下手の考え休むに似たりって言葉を知ってるか?」
ニシキギは至極真面目な顔でそう言った。
そんな言葉を吐くときは、トウキだって、もうちょっと柔らかい表情を作るくらいの気配りをするだろう。訊く人を間違えたと瑞樹は心の中で舌打ちする。
「この前アーマルターシュに、弱い犬ほど良く吠えるって言葉知ってるかと言ったら、今のあんたと同じような顔をして、そんなことを言う時はトウキでさえもっと人間味のある顔で言うと咬みつかれたな」
ニシキギの言葉に瑞樹は、つい吹き出してしまう。
「アーマルターシュと同じこと考えてたよ」
瑞樹は笑いながら言った。
「やっと笑ったな」
ニシキギは瑞樹の頭をくしゃっと撫でて、「よく来たな」と言った。そして温かみのある顔で一瞬笑った。そんなニシキギを見上げながら、瑞樹はニシキギの弟のシーカスを思い出していた。
ニシキギの家族は森の民だった。ニシキギは森の民の力が無かったため地下都市で暮らしていたようだが、彼には三つ違いの弟がいて、彼はアール・ダー村で暮らしていた。森の民だったディモルフォセカは、弟のシーカスのことをよく知っていた。ニシキギの性格はシーカスとは全然似ていないが顔は良く似ている。ディモルフォセカはアール・ダー村でシーカスの事をお兄さんのように慕っていた。ハンサムで、面倒見が良くて、優しい、とくれば大抵の女の子はそんな彼を放っておかない。彼には素敵な恋人もいたが、彼に憧れる人はたくさんいた。ディモルフォセカもその中の一人だったのだ、シーカスとの結婚が政府と親に決められてしまうまでは……。
ディモルフォセカはシーカスのことが嫌いでアール・ダー村を飛び出したわけではなかった。むしろ逆だった。彼女が法を犯してまで地下都市に逃げ出した理由の一つは、シーカスとその恋人の為だったのだ。あの兄のようだったシーカスに一瞬、ニシキギが重なる。
「俺の顔に何か付いてるか?」
ニシキギが怪訝そうに訊く。瑞樹ははっと我に返った。
ディモルフォセカの記憶を辿っていると、自分が誰なのかよく分からなくなる。まるで今のディモルフォセカの記憶の中で、かつてシーカスとにこやかに話していたのが自分だったような気がするからだ。瑞樹は首を軽く横に振った。
「ごめん、何でもないよ」
「本当か? なんか誤魔化そうと考えているだろう?」
ニシキギは疑り深そうな顔で瑞樹の瞳を覗き込む。この人は結構勘が鋭い、瑞樹は溜息をつくと観念したように言った。
「今、ニシキギの顔を見てたら、シーカスの事を思い出したんだよ」
「シーカスの?」
ニシキギは怪訝そうに問い返す。
「うん、思ってたよりも、似てるかなぁと思って……」
「シーカスは俺に似てハンサムだからな」
はいはいと瑞樹は受け流す。
真顔でゆーか? そーゆーこと。瑞樹は苦笑した。
「で? シーカスの事って?」
「顔は似てるのに性格は全然似てないなーって」
瑞樹はニヤリと笑う。
「あいつは猫かぶりで八方美人だったからな。似てなくてとーぜんだ」
ニシキギは涼しげな顔でそう言った。
ニシキギも少しは猫かぶりなよと心の中で呟いて、瑞樹は力なく笑う。
「……あんたディモルフォセカの記憶と、どんな風に折り合いを付けてるんだ?」
ニシキギが興味津々と言った風情で訊いてきた。
「折り合いなんて付けてないよ。そんな付け方があるんなら教えて欲しいくらいだし。ディモルフォセカの記憶に振り回されてるってところが実情かな」
「それは大変そうだな」
「そ、メチャメチャ大変なの」
実際、私は日向瑞樹で良かったと思う。ディモルフォセカの記憶は辛い選択の連続だ。どちらを選んでも辛い。だから彼女は最終的には自分のやりたいように生きられる潔い性格になったのかもしれない。『作用反作用]そんな言葉が唐突に頭に浮かぶ。他から力を加えられた時点で、自分も他に力を加える力を得ているのだ。圧力を加えられて彼女は強くなった、運命の輪を自分で回す力を獲得する程に。
「そんなだから、あんなイベリスを見てなんとかしなきゃと思った、そういったところか?」
ニシキギが納得したように頷いた。
そうなのかもしれないと瑞樹も思う。瑞樹にはシーカスと同様に、イベリスのアール・ダー村での記憶もあるのだ。彼は近所の年下の男の子で、ディモルフォセカは彼とも、そして彼の父親を誤って殺めてしまった彼の母親とも接点があった。母親とはフォボス行きの軌道エレベーターの中で会った。彼女は幼い息子を一人ぼっちにしてしまったことを後悔していた。後悔して、泣いていた。
「私はイベリスの力になりたいって思ってるよ」
瑞樹はニシキギを見上げた。
「詳しいことは、後でカナメが話すと言っていただろう?あんたは色々ごちゃごちゃ考えずに言われたことをやっていればいい。基本的には、あんたはここに来て安全に過ごすことが役目なんだからな」
「それだけ? それだけしか私にはすることないの?」
気が抜けたように瑞樹は訊き返した。
「何をするつもりで来たんだ?」
ニシキギは眉間に皺を寄せて問い返す。
「やっぱ……私の名推理で事件解決ってとこ?」
息巻く瑞樹を馬鹿にしたように見下ろして、ニシキギは溜息をついた。
「あんまり馬鹿なこと考えてないで大人しくしてろ。わかったか? ああ、そうだカナメが向こうの部屋へ来てくれって言ってたぞ」
そう言い残すとニシキギは部屋を出て行った。
「……それを早く言えって。最初からカナメに訊けば良かったって事じゃん」
仕方なく瑞樹はドアに文句を言った。