第三話 それぞれの心に刻まれた風紋(1)
「」はハル語、[]は日本語という設定になってています
瑞樹は部屋に運ばれていた荷物をほどくと、中からクマ太を取り出してベッドに寝かせた。二十センチメートル程の背丈の濃茶色の熊のぬいぐるみで、小学生の時に父親が買ってくれたものだ。クマ太の胸には最初からつぎはぎのような布が当てられていていた。
初めて腫瘍の手術を受けることが決まって、入院することになった日の前日買って来てくれた。
[ほら、この熊は小さいけど一人前なんだぞ、この子も手術を受けたんだ]
父親は、つぎはぎ布を指して言った。
[ほんと?]
小学校低学年だった瑞樹は、真に受けて目を丸くした。
[ほんとだよ、この胸のつぎはぎが証拠なんだ。でも見てみ、クマさん笑ってるだろ?]
クマ太はニコニコマークのような口で、にぃーと笑っていた。
[辛いことや痛いことはな、ずーっとは続かない。日にち薬だからな]
[日にち薬?]
[そうだぞ。他の苦い薬も飲まなきゃならないこともあるだろうがな、実は一番効く薬は時間なんだ。なんでも治してしまう万能薬なんだからな]
[ふぅん]
[だから、瑞樹はなんにも心配しなくていいんだ、このクマさんみたいに、にぃーって笑える日まで頑張ろな]
瑞樹は大きく頷いて、クマ太を抱きしめた。
ベッドの上に寝転がってクマ太をしげしげと見つめていた瑞樹は、いつの間にか眠ってしまったらしい。なんだか懐かしい夢を見ていたみたいだ。目覚めて部屋の中を見回す。
あれ? 私、どこにいるんだっけ? とぼんやり思ってから、ああ、と意識が戻って来た。移動するだけでもやはり疲れは溜まるみたいだと瑞樹は苦笑いして、ふと見やったドアの隙間に白い紙片が差し込まれていることに気づいた。
[あらら]
正樹ちゃんが寄ってくれたのに気がつかなかったみたいだと目を擦りながら紙片を取りに行った。紙片には少し慣れない感じの日本語でメッセージが書かれていた。正樹の筆跡とは違うようだ。でも日本語書ける人って……トウキだろうか、瑞樹は首を捻る。
[273号室にきてください。ノックはせずにスキャナに手をかざしてそのまま入って来るように]
と紙片には書いてあった。瑞樹は紙片をひっくり返してみたが、誰からのメッセージなのか書いていなかった。
[正樹ちゃんなのかな?]
瑞樹はまだ少しぼんやりした頭を軽く振ると斜め向かいの273号室へと向かった。
273号室のスキャナに手をかざし、瑞樹が中に入るとカナメが立っていた。瑞樹が入って来る事を知っていたかのように優しい笑顔で立っていた。
「カナメ?……」
瑞樹はその紅い瞳に吸い寄せられるように真直ぐにカナメに向かって歩いて行った。
「久しぶりだね、瑞樹。元気だった?」
カナメが手を差し出した。
ハルの挨拶はどちらかと言うと欧米系で、握手か、もっと親しい間柄であれば抱擁をする。しかし頬をくっつけあったり、キスを交わしたり、とかはあまりしない。瑞樹はそれらの知識をディモルフォセカ・オーランティアカの記憶で知っていた。
瑞樹はカナメの前まで行くと、差し出された手を無視して、ふわりとカナメを抱きしめた。
「……瑞樹……」
カナメの声は困惑しているようでもあり、愛おしいと思っているようでもあり、複雑な声色に瑞樹がはっと我に返る。当惑したように見上げた瑞樹の顔をカナメは覗き込んで、そっと額にキスをした。瑞樹は自分の立場を思い知らされたようで泣きそうな気分になる。
ディモルフォセカならば、カナメは口づけをしたはずだった。
「ごめんなさい……」
当惑して体を離そうとした瑞樹をカナメが抱きしめた。
[あのー、お取り込み中申し訳ないんだけど」
咳払いと共に正樹の声がした。
[おたくら、そう言う挨拶を交わす間柄なんか?]
正樹は少し憮然としているようだった。
[!]
瑞樹は心底驚いた。正樹ちゃん?
[そんなに怒らないでくれよ。たぶん瑞樹はディモルフォセカの記憶に引きずられてしまっただけだろうからね]
カナメは瑞樹を腕に抱きしめたまま、正樹に流暢な日本語で話しかけた。
[別に怒ってないよ、ディモルフォセカって?]
正樹は顔をしかめた。
「彼には話してないの? 君の中のディモルフォセカのこと」
カナメは瑞樹に問いかける。
「……話してない。だってハルの話はどんなのでも、誰も本気で聞いてくれなかったもん」
すっかりしょげかえって、瑞樹は叱られた子供のようにしょんぼりとしていた。
「ずいぶん辛い思いをさせてしまったようだね」
カナメは、いたわるように瑞樹の頭を撫でた。
正樹ちゃんがいるとは思わなかった。正樹ちゃんに見られたから、どうこういうことでもないけど、心の中の柔らかい部分をやすりで触れられたみたいに妙にヒリヒリ感じる。
「……瑞樹?」
瑞樹は、カナメが自分を何度も呼んでいることにやっと気づいて、のろのろと顔を上げる。
「着いた早々イベリスの所に行ってもらってありがとう。彼はどうだった?」
「……しゃべれるようになってた」
瑞樹はカナメから目を逸らして話した。
「なってたんじゃなくて、なったんだよね」
カナメは瑞樹を見つめる。
「……」
瑞樹はカナメを見つめ返した。
「君はイベリスに何をした?」
「何もしてないよ、ただ……怪我をした手先が、血行悪そうだったから、擦ってたら突然しゃべりかけて来たから、私、てっきりしゃべれるようになってたんだって、思って……」
瑞樹の言葉を聞きながらカナメは何度か小さく頷いた。
「どっちの手で彼に触れたの?」
「どっちって……」 瑞樹はしばらく思い出してから「両手だよ、左手で支えて右手で擦ったと思うけど、それがどうかした?」
「いや、いいんだ。それだけ聞ければ十分だ」
「ねぇ、イベリスをこんな目に合わせた人はまだ捕まってないの? なんで?」
「今、ハルの人口は一千万人弱だ。こことアグニとセレーネそれから金星のフローティングシティに作業中の人が少々。範囲が広すぎることが問題その一だ。問題その二はメインコンピューターがプランEを強制終了したことだ。それによって目覚めさせられる人の選別がなされないうちに、ほとんどの人が勝手に目覚めさせられてしまった。もちろん、目覚めさせられる条件をクリアしている人だけのはずだったんだけど……どうやら、違法にその条件をクリアしている人がいたらしくてね」
「違法に……」
違法と言えば、ディモルフォセカだって違法に地下都市に潜伏していたのだ。森の民は地下都市に住めない、当然、カナメの配偶者になれるはずもなく、ディモルフォセカはそのことを漠然としか知らなかったけど、今ならわかる。やり方や、目的は違うかもしれないが、カナメと同じことをしようと考えた人は当時、結構いたんじゃないだろうか。
「それで、遅ればせながらそのチェックを一人ずつしているんだ。そこで君にチェック済みの印を押させてほしいんだけど……。前にナンディーで確認済だからね。それにこれには君に関する色々な情報も書き込まれているから、ハル共和国内では身分証の代わりにもなる」
カナメは銀色のトレーにBCG接種の時に使うようなスタンプ式の医療器具を持ってきた。
「ま、まさか、それ私にするんじゃないよねぇ」
瑞樹が怯えたように見つめた。
銀色のトレーに乗っている医療器具というものは、大抵の場合痛みを与えることが多い。瑞樹はそれを経験的に知っていて、大の苦手なのだった。
「俺もされたぞ」
正樹ちゃんが突然ハル語をしゃべった。
「正樹ちゃん……もうハル語をしゃべれるの?」
「誰かさんに特訓されたからな、飛行機に乗った時から」
正樹はカナメを軽く睨みつけた。
「向こうのベッドに横になってもらおうかな、その方がやりやすい。足の脛側にするから」
そう言い残すとカナメはさっさと奥のベッドルームに向かう。瑞樹は呆然と正樹を見上げた。
「拒否権はないの?]
[なさそうだったぜ]
正樹が肩を竦めた。
[痛いんだよね?]
絶望的な顔で訊く。
[……それほどじゃないよ]
瑞樹の目から視線を逸らして正樹が言ったので、それは嘘だとすぐにわかった。
「正樹、瑞樹を連れて来てくれる?」
つづきの隣の部屋からカナメの声がした。正樹はしょうがないなという顔で瑞樹の手首を引っ張った。
[いやだ、こんなの聞いてないし……]
予防接種に連れて行かれる犬のように、瑞樹はずるずると正樹に引きずられた。
[いやだってば! 私、日本に帰るよ!]
正樹は足を突っ張って抵抗する瑞樹を呆れた顔で見つめた。
[お前なぁ、子供じゃあるまいし、そこまで抵抗するか、ふつー。しかも子供のころから散々手術とかで痛い目にあってきたはずなのに、まだ慣れないのか?]
[正樹ちゃんは知らないかもしれないけどね、毎回、私がどんだけ時間かけて心の準備してか
ら病院に行ってたと思ってんの? 最低三日だよ! こんな不意打ち卑怯だぁぁ!]
[威張るなよそんなこと……]
正樹は心底あきれた様子で溜息をつくと、瑞樹をふわりと抱え上げた。瑞樹は逆さまになって正樹の背中を見ることになる。
[ち、ちょお、降ろしてよ、いやだって言ってるじゃん、正樹ちゃんの馬鹿! タコ! おたんこなす!]
瑞樹が足をじたばたさせると正樹は舌打ちして、それを押さえつけた。
[往生際が悪いやつだな]
カナメのところまで連れて行くと、カナメは苦笑していた。
「ここまで嫌がられるとは思ってなかったな」
「さっさと終わらせよう」
正樹は瑞樹をベッドに下ろすと、瑞樹の上半身を抑えつけた。
[正樹ちゃん、最低……]
涙が滲んでくる。
[最低で結構だ]
勝手知ったる幼馴染は容赦ない。
[正樹ちゃん、お願い、離して……]
急に弱弱しい声で見上げる瑞樹の潤んだ瞳に、正樹がはっとして手を離しそうになったところで、カナメの声がした。
「離すなよ!」
釘を刺すような言い方に正樹は我に返って、瑞樹をもう一度抑えなおした。
「カナメ、最低!」
再び悪態をつき始めた次の瞬間、足の脛に衝撃が走った。
「痛っっっ!」
瑞樹は口もきけないくらいの痛みに顔を歪めた。強い痛みと共に意識が薄れて行く。なんで? と思った瞬間、瑞樹は意識を失った。
[おい? 瑞樹?]
すっかり抵抗しなくなった瑞樹に正樹は慌てた。
「痛いのが苦手みたいだったから、少し眠らせることにしたよ」
カナメが静かに言った。
「俺の時はばっちり小一時間痛みを我慢させたくせに?」
正樹はカナメを恨めしそうに見つめた。
「君はすることがあったから、痛みを感じている暇なかっただろ?」
楽しげに言うカナメをねめつけてから、正樹は眠ってしまった瑞樹の顔にかかる栗色の髪の毛をそっとよけた。そしてその頭をくしゃくしゃと撫でる。
「君がいてくれて良かった。ここまで抵抗されたら、僕だけでどうしたらいいか途方に暮れるところだったよ」
カナメは微笑んだ。
「あんた医者じゃなさそうだけど、こんな医療行為をして大丈夫なのか?」
「医者はやってないけど、医師免許は持ってるよ。他にも色々免許を持ってる。長いこと生きてるとすることがなくなって、つまらなくなるもんでね、色々手を出しちゃうんだ」
「長いこと生きてるってあんた一体いくつだよ」
正樹から見たカナメは二十代後半〜三十代前半ぐらいに見える。
「厳密にはいくつかもう覚えてないよ。三百から四百の間くらいじゃないかな……たぶん」
「俺、歳を聞いたんだけど? なんだ? その数字……血圧にしても高すぎないか?」
「僕も歳を言ったつもりだよ」
カナメは小さく笑って肩をすくめる。正樹は怪訝そうな顔をして首を傾げた。
「で? ディモルフォセカって誰? あんたとああいう風に抱き合う仲だったんか?」
正樹はカナメを睨みつける。
「そりゃ、まあ、そういう仲だろうね、僕の配偶者だったから」
「え?」
配偶者? しかも過去形だ。正樹は絶句する。
「死んだんだ……ハル脱出の時に、ガルダでね」




